第62話【優しいのに、つらい】
配偶者用アプリを閉じても、画面の白さはしばらく目の奥に残っていた。
【対象者:天城 蓮】
【登録番号:第13配偶者】
【氏名:佐倉 美緒】
【申請する】
その文字は消えたはずなのに、まだそこにある気がする。
美緒は、伏せたスマホを見つめていた。
宮原の部屋のローテーブルには、開けかけのおにぎりと、水と、飲まれていないゼリー飲料が置かれている。コンビニ袋が少しだけ音を立てる。エアコンの風で、袋の端が揺れていた。
宮原は、おにぎりを食べ終えて、手を拭いていた。
「ほんとに食わない?」
「いらないです」
「ゼリーだけでも」
「あとで」
「そのあとでって、絶対来ないやつじゃん」
いつもなら、そこで何か言い返せた。宮原くん、しつこいです。でも、今日は言葉が出なかった。
美緒は、ただスマホを見ていた。
伏せているのに、見ていた。画面がこちらを向いていないだけで、そこに全部が入っている。
妻であること。妻をやめること。流出したこと。下位妻グループに書けないこと。乃亜に送れないこと。凛に返せないこと。天城蓮から何も来ないこと。
全部、薄い板の中にある。
スマホが震えた。美緒の身体が、小さく跳ねた。
宮原もそれに気づいた。
「また?」
美緒は答えず、スマホを持ち上げた。
画面を見る。
久我璃子。
胸の奥が、反射的に揺れた。璃子さん。その名前だけで、まだどこかが期待する。もう戻る道ではないと分かっているのに。
美緒は通知を開いた。
久我璃子:
「今は、あなた自身を守って」
久我璃子:
「無理に結論を急がなくていいわ」
久我璃子:
「ただ、しばらくは距離を置いた方がいいと思う」
美緒は、その三つの文を読んだ。何度も読んだ。
優しい。間違いなく、優しい文だった。
でも、最後の一文だけが、やっぱり遠かった。
あのラウンジで聞いた璃子の声を思い出す。
あなたは悪くないわ。あなたは大事にされているのよ。一人で決めないで。
あの時、璃子の言葉は美緒を制度の中へ戻してくれた。蓮と会える時間を作ってくれた。お前といると楽だ、という夜へつないでくれた。
でも今の璃子の言葉は違う。
あなた自身を守って。距離を置いた方がいい。
それは、戻るための言葉ではなかった。離れるための言葉だった。
美緒を責めないまま。美緒のためだと言いながら。少し遠くへ置く言葉だった。
美緒は、返信欄を開いた。
「璃子さん、私はどうしたらいいですか」
打った。すぐに消した。
璃子はきっと答えてくれる。でも、答えはもう分かっている。
今は休んで。外部発信は控えて。管理担当からの連絡を待って。あなた自身を守って。距離を置いて。
正しい。正しすぎる。
「蓮さんは、何か言っていましたか」
指が止まる。送れなかった。
それを聞いたら、答えが来てしまう。
何も聞いていないかもしれない。対応に追われているかもしれない。あるいは、本当に何も言っていないのかもしれない。
美緒は、その文も消した。璃子とのチャットを閉じる。
スマホを伏せようとした時、別の通知が目に入った。
高瀬凛。
美緒は、指を止めた。
高瀬凛:
「大丈夫?落ち着いたら話そう。今は無理しないで」
高瀬凛:
「美緒?」
高瀬凛:
「返事できなくてもいいから、無事ならそれだけ教えて」
そして、新しいメッセージ。
高瀬凛:
「一人で抱えないで」
美緒は、その一文を見つめた。
一人で抱えないで。
璃子も、似たようなことを言った。一人で抱えなくていい。初めてそう言われた時、美緒は救われた。
でも今、凛の「一人で抱えないで」は、重かった。
凛は優しい。本当に、優しい。
最初に、やっと結婚できたよと言った時、凛は笑わなかった。驚いて、戸惑って、それでもおめでとうと言ってくれた。
だからこそ、今、返せない。
凛に返すには、説明しなければいけない。
何を説明すればいいのだろう。
やっと結婚できたよ、と言ったこと。
本当に天城蓮の第13妻になったこと。
下位妻グループで、最初は救われたこと。
乃亜という友達ができたこと。
琴葉が先に呼ばれて、祝えなかったこと。
璃子に救われたこと。
蓮と会って、お前といると楽だ、と言われたこと。
その夜のことを乃亜に言えなかったこと。
分かるよ、と言って乃亜を傷つけたこと。
流出したこと。妻コミュニティから切り離されたこと。
配偶登録解除画面を何度も開いていること。
そして今、宮原の部屋にいること。
どこから話せばいいのか分からない。
美緒は返信欄を開いた。
「ごめん」
打つ。消す。
「心配かけてごめん」
消す。
「何から話せばいいか分からない」
指が止まる。本当だった。でも、それを送ったら、凛はきっと来る。
大丈夫?どこにいるの?今、一人?
宮原の部屋にいる。それを言った瞬間、凛の中で何かが変わる気がした。
凛は責めないかもしれない。でも、驚く。心配する。たぶん、正しいことを言う。
正しいことを言われたら、美緒はここにいられなくなる。今、ここにしかいられないのに。
美緒は、その文も消した。
入力欄が白くなる。
凛の優しい言葉が、画面の上に残っている。
一人で抱えないで。
美緒は思った。
一人ではない。今、自分は宮原の部屋にいる。
一人ではないはずなのに。それを凛には言えない。
だから、凛から見ると、美緒は一人で抱えていることになる。
美緒自身から見ても、たぶんそうだった。宮原の部屋にいても、一人だった。
でも、一人の部屋にいるよりは、ましだった。
その違いが、凛には説明できない。
「またスマホ見てる」
宮原の声がした。美緒は顔を上げた。
宮原は、少し離れたところからこちらを見ていた。表情は軽い。でも、目は少しだけ真面目だった。
「見ちゃいます」
「見んなって」
「見ないと怖いです」
「見ても怖いんでしょ」
美緒は、答えられなかった。
「どうせいいこと書いてないでしょ」
「いいことも、あります」
「あるの?」
美緒は、スマホを見た。
璃子の言葉。凛の言葉。どちらも、悪い言葉ではない。むしろ、優しい。
「あります」
「じゃあ、なんでそんな顔してんの」
美緒は、返事に詰まった。
優しいから苦しい。そう言っても、宮原には分からない気がした。
璃子の言葉は、優しいけれど距離だった。凛の言葉は、優しいけれど説明を求める重さだった。どちらも、美緒を傷つけようとしていない。それなのに、どちらも今の美緒には届かない。
受け取る力がなかった。
「分かんないです」
美緒は言った。
「何が」
「優しいのに、つらい」
宮原は、少しだけ黙った。茶化さなかった。それが少し意外だった。
「じゃあ、今は見なくてよくない?」
「でも」
「でもじゃなくて」
宮原は、手を伸ばしかけて、途中で止めた。美緒のスマホを取り上げようとしたのだと分かった。けれど、やめた。
そのことに、美緒は少しだけ気づいた。
宮原も、境目を探している。踏み込みたい。でも、踏み込みすぎたらまずいと分かっている。その迷いが、逆に人間らしかった。
「スマホ、置いとけば」
宮原は言った。
「取らないから」
美緒は、スマホを握ったままだった。
置いたら、蓮からの連絡を見逃すかもしれない。そう思う。まだ思っている。
天城蓮からは何も来ていないのに。もう、来ないかもしれないのに。それでも、手放せない。
「蓮さんから」
美緒は、ぽつりと言った。
宮原の表情が少し変わる。でも、怒りではなかった。たぶん、分かっていたことを言われた顔だった。
「待ってるの?」
美緒は、答えなかった。答えなかったことが、答えだった。
宮原は、短く息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。
責めなかった。天城蓮なんてもういいじゃん、とは言わなかった。俺が来てるのに、とも言わなかった。
ただ、そっか、と言った。
その短さが、少し痛かった。
「宮原くんは」
美緒は、なぜか聞いていた。
「何も聞かないんですか」
「聞いてほしいの?」
美緒は、すぐに首を横に振った。
「分からないです」
「じゃあ聞かない」
「普通、聞くと思います」
「普通じゃないでしょ、今」
その言葉に、美緒は目を伏せた。
普通じゃない。そうだった。
普通の夜ではない。普通の友達なら凛に返す。普通の妻なら璃子に従う。普通の同僚なら、職場の男の部屋には来ない。
でも、美緒は今ここにいる。
「言いたくなったら言えば」
宮原は言った。昨夜の電話でも、同じようなことを言った。
説明とか、いらないから。言いたくなったら言えば。言いたくないなら、黙ってていいし。
その言葉が、また美緒の中に入ってくる。
凛に説明できないこと。璃子に聞けないこと。蓮に送れないこと。乃亜に謝れないこと。
宮原には、説明しなくてもいい。分かってもらえないから。分かってもらえないのに、ここにいるから。
そのことが、こんなに楽なのは、たぶんおかしかった。でも、楽だった。
「なんか飲む?」
宮原が聞いた。
「水、飲みました」
「温かいの」
「いらないです」
「カップスープある」
「それ、さっき買ったやつですか」
「うん」
「宮原くん、カップスープ飲むんですか」
「俺だって飲むわ」
そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
宮原は立ち上がり、キッチンの方へ行った。
電気ケトルに水を入れる音がする。スイッチを押す音。カップスープの袋を破る音。
生活の音だった。
美緒は、その音を聞いていた。
ホテルのラウンジにはなかった音。配偶者用アプリにはない音。妻コミュニティにはない音。
誰かが、自分のためにではなく、ただ何かをしている音。
それだけで、少しだけ現実に戻る。
スマホがまた震えた。美緒は反射的に画面を見た。
天城蓮ではなかった。凛だった。
高瀬凛:
「会える時でいいから、連絡して」
美緒は、その文を見つめた。
会える時でいいから。
凛は待ってくれる。きっと、待ってくれる。
でも、その「会える時」は、いつ来るのだろう。
美緒は、もう凛の知っている美緒ではない気がした。
やっと結婚できたよ、と言っていた美緒。推しの妻になれて、夢みたいだと笑っていた美緒。
でも今の美緒は、宮原の部屋でカップスープの音を聞いている。
配偶登録解除画面を閉じて。凛に返せないまま。天城蓮からの通知をまだ待ちながら。
美緒は、返信欄を開いた。
「凛、ごめん」
打つ。消さなかった。でも、送れなかった。
ごめんの後に何を書くのか分からない。
ごめん、今は話せない。ごめん、宮原くんの部屋にいる。ごめん、私はもう、凛が思っている場所にはいない。
どれも書けない。
美緒は、結局その三文字も消した。
宮原がカップを持って戻ってきた。
「熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
美緒はスマホを伏せた。今度は、自分から伏せた。
宮原は、それを見て何も言わなかった。
カップスープの湯気が、二人の間に細く上がる。
「飲めそうなら」
宮原は言った。
「はい」
美緒はカップを両手で持った。温かかった。
その温かさは、何も解決しない。
離婚申請も。流出も。下位妻グループも。乃亜も。璃子も。凛も。天城蓮も。
何も解決しない。
でも、手のひらは温かかった。今は、それだけが届いた。
璃子の優しい言葉よりも。凛の正しい心配よりも。宮原の雑なカップスープの方が、近かった。
美緒は、そのことをひどいと思った。ひどいと思いながら、カップに口をつけた。
味は、少し濃かった。でも、飲めた。




