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第61話【そんなのじゃないです】

【申請する】


白い画面の下に、そのボタンがある。


押せば、何かが進む。対象者側確認。事務所確認。登録解除。一部コミュニティ機能へのアクセス制限。


全部、そう書いてあった。


でも、書かれていないものの方が多かった。


押したら、自分は何になるのか。


天城蓮の妻ではなくなる。第13妻ではなくなる。配偶者用アプリに表示される番号も消える。璃子に呼ばれた夜も、元妻になる前の記憶になる。


その他大勢に戻るのだろうか。


いや、戻れない。もう普通のファンではいられない。


一度、妻になってしまった。一度、名前を呼ばれてしまった。一度、お前といると楽だ、と言われてしまった。一度、流出した第13妻として、知らない人たちに触られてしまった。


それでも、押せば終わるのかもしれない。終わらせた方がいいのかもしれない。


美緒は、指先に少しだけ力を入れた。


その時、宮原の声がした。


「なに、それ」


美緒は、はっとして画面を伏せようとした。でも、遅かった。


宮原は隣からのぞき込んだわけではない。ただ、美緒がずっと同じ画面を見ていることに気づいただけだった。


「いや、見てないけど」


宮原は少し気まずそうに言った。


「なんか、ずっと固まってるから」


美緒は、スマホを膝の上で握った。


隠しても仕方がない気がした。ここは宮原の部屋だった。もう、宮原に住所を送った。車に乗った。部屋に入った。水を飲んだ。今さら、画面だけ隠しても遅い。


「離婚の画面」


美緒は言った。声が、自分のものではないみたいに小さかった。


宮原は、少し黙った。


「ああ」


その「ああ」は、何も分かっていない「ああ」だった。気まずいから出た音。どう返せばいいか分からない時の、短い返事。


美緒は、スマホの画面に視線を戻した。


離婚。


自分で言った。離婚の画面。


配偶登録解除という硬い言葉ではなく、離婚と言った。その方が、急に生々しかった。


妻だったのだと、今さら思う。


妻だったから、離婚の画面がある。


天城姓を名乗れなくても。一緒に暮らしていなくても。外では佐倉美緒のままでも。それでも、制度上は妻だった。


だから、離婚の画面がある。


宮原は、テーブルの上のおにぎりを手に取って、また置いた。何かを言おうとして、少し迷っているようだった。


それから、言った。


「別に、そんなのやめちゃえばいいじゃん」


美緒は、顔を上げた。


そんなの。その四文字が、胸の奥に落ちた。


宮原は、悪気なく言ったのだと思う。本当に、そう思ったのだ。


やめればいい。苦しいなら。こんな顔になるくらいなら。天城蓮から連絡が来なくて壊れるくらいなら。そんなの、やめちゃえばいい。


宮原にとっては、きっとそれだけだった。


美緒は、何も言えなかった。


そんなの、ではなかった。美緒にとっては、そんなのではなかった。


天城蓮の妻になることは、夢だった。


最初に、凛に言った。


やっと結婚できたよ。誰かにちゃんと愛されたかった。いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた。


笑わないでよ、と言いながら、本当は笑ってほしくなかった。


あれは本気だった。誰かにちゃんと愛されたかった。その他大勢のファンではなくなりたかった。天城蓮の人生のどこかに、自分の名前を登録したかった。


第13妻。その番号は、美緒にとって祝福だった。


そんなの、ではなかった。


「そんなのって」


美緒は、やっと言った。声が少し震えていた。


宮原は、しまったという顔をした。


「あ、いや」


「そんなのじゃないです」


美緒は言った。自分でも、思ったより強い声だった。


「そんなのじゃ、ないです」


宮原は、すぐには返さなかった。


美緒は、スマホを握りしめた。


「私にとっては」


言葉が喉で詰まる。


夢だった。救いだった。証だった。地獄だった。呪いだった。でも、手放せないものだった。


その全部を、宮原に説明できる気がしなかった。


「大事だったんです」


最後に出たのは、それだけだった。


大事だった。あまりにも小さい言葉だった。でも、それしか言えなかった。


宮原は、少しだけ目を伏せた。


「ごめん」


その謝り方は、思ったより素直だった。


美緒は、逆に何も言えなくなる。


宮原は、いつものように茶化さなかった。


「言い方、悪かった」


そう言って、ペットボトルのラベルを指でいじる。


「俺、分かってないから」


美緒は、宮原を見た。


「分かってないです」


「うん」


「全然」


「うん」


宮原は、そこで少しだけ笑った。


「そこまで言う?」


美緒は、笑えなかった。でも、そのやり取りで、胸の奥の硬さが少しだけ揺れた。


分かっていない。宮原は、本当に分かっていない。


天城蓮が美緒にとってどれだけ大きかったか。第13妻という番号が、どれだけ甘かったか。妻コミュニティの中で生きることがどういうことだったか。璃子の言葉に救われることが、どれだけ深く沈むことだったか。


何も分かっていない。だから、そんなの、と言える。


その無神経さに腹が立った。本当に腹が立った。


でも、少しだけ楽でもあった。


宮原の世界では、天城蓮は神様ではない。妻コミュニティも、璃子も、下位配偶者グループも、配偶者用アプリも。全部、宮原の外側にある。


知らないから、軽くできる。


その軽さは残酷だった。でも、その軽さの中にだけ、制度の外の空気があった。


「でもさ」


宮原が言った。


「うん」


「そんなに大事だったなら、なおさら今すぐ押すもんでもないんじゃないの」


美緒は、画面を見た。


【申請する】


ボタンは、まだそこにある。


「やめろって言ったんじゃないの」


「いや、やめればいいとは思うけど」


宮原は、すぐに言った。


美緒は少しだけ眉を寄せた。


「思うんですか」


「思う」


宮原は隠さなかった。


「だって、見ててしんどいし」


「宮原くんには関係ないでしょ」


言った瞬間、自分でも少しひどいと思った。でも、言葉は出ていた。


宮原は、少し黙った。


「関係ないよ」


その返事は静かだった。


「関係ないけど、今うちにいるじゃん」


美緒は、何も返せなかった。


「関係ないけど、住所送ってきたじゃん」


「迎えに行ったの、俺じゃん」


「水飲ませてんのも、俺じゃん」


美緒は、スマホを握ったまま俯いた。


その通りだった。


関係ない。でも、関係ない人の部屋にいる。関係ない人の車に乗った。関係ない人から水を受け取った。


本当に関係ないなら、ここにはいない。


「だから、まあ」


宮原は、言葉を探すように少し頭をかいた。


「押せないなら、今はやめとけば」


美緒は、画面を見た。


「今は」


「今は」


宮原は繰り返した。


「明日押したっていいし」


「押さなくてもいいし」


「俺には分かんないけど」


その言い方が、また雑だった。でも、今度は少しだけ優しかった。


分からない。宮原はそう言った。分からないけど、今は押さなくてもいい。


璃子なら、無理に結論を急がなくていいわ、と言う。同じ意味なのかもしれない。でも、全然違った。


璃子の言葉は、整っていた。美緒を守るために、制度の中から届く言葉だった。


宮原の言葉は、散らかった部屋の中で、コンビニの水の隣に置かれた言葉だった。


押せないなら、今はやめとけば。


その軽さが、少しだけ美緒の指をゆるめた。


美緒は、申請ボタンの上にあった指を離した。


画面はそのままだった。まだ、押していない。押せなかった。押さなかった。どちらなのか、自分でも分からない。


宮原は、のぞき込まなかった。


ただ、テーブルの上のおにぎりを一つ開けて、半分だけ食べた。


「食わないなら俺食うけど」


「それ、私に買ったんじゃないんですか」


「だから、食う?」


美緒は首を横に振った。


「じゃあ俺が食う」


宮原は本当に食べ始めた。


その普通さが、妙におかしかった。


離婚の画面を見ている隣で、おにぎりを食べている男。天城蓮の第13妻だった自分の隣で、コンビニおにぎりを噛んでいる男。美緒の人生の中心だったものを「そんなの」と言った男。


腹が立つ。でも、ここにいる。


美緒は、配偶者用アプリを閉じた。白い画面が消える。【申請する】のボタンも消える。


ホーム画面に戻らず、そのままスマホを伏せた。


前にこの画面を開いた時は、蓮の短いメッセージで画面を閉じた。


最近、無理してない?


その一文で、美緒は戻った。


今回は、何も戻っていない。


蓮からの通知も来ていない。璃子の言葉も、もう戻る道ではない。下位妻グループにも書けない。乃亜も沈黙している。凛にも返していない。


それでも、画面を閉じた。


閉じた理由は、救いではなかった。ただ、怖かった。押すのが怖かった。


そして、宮原が言った。押せないなら、今はやめとけば。


その軽い言葉に、美緒は従った。


救われたわけではない。決めたわけでもない。ただ、今だけ先に延ばした。それだけだった。


宮原が、二口目のおにぎりを飲み込んだ。


「水、もうちょい飲みな」


美緒は、伏せたスマホから目を離し、ペットボトルに手を伸ばした。


水は、さっきよりぬるくなっていた。それでも飲んだ。


喉を通る冷たさだけが、今は現実だった。

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