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第60話【佐倉美緒のまま】

宮原の部屋は、思っていたより普通だった。


玄関に脱ぎっぱなしのスニーカー。壁際にかけられた上着。安いローテーブル。少しだけ積まれた雑誌。開けっぱなしのコンビニ袋。流しの横に伏せられたマグカップ。床に置かれた充電ケーブル。


きれいではない。でも、人が住んでいる。


ホテルの個室とは違った。


天城蓮と会ったあの部屋には、生活の匂いがなかった。柔らかい照明も、低いテーブルも、ペットボトルの水も、全部が誰かのために一時的に整えられたものだった。


璃子と会ったラウンジもそうだった。静かで、清潔で、正しくて、どこにも余計なものがなかった。


宮原の部屋には、余計なものしかない。


それが、少しだけ美緒を息させた。


「座って」


宮原が言った。


「そこ、服どかすから」


そう言いながら、ソファの上に置いてあったパーカーを乱暴に掴んで、ベッドの方へ投げる。


美緒は、その動作をぼんやり見ていた。


「すみません」


「謝るとこじゃないでしょ」


宮原はコンビニ袋をテーブルに置いた。水のペットボトル、ゼリー飲料、おにぎり、カップスープを出して並べていく。


「とりあえず食べなよ」


美緒は首を横に振った。


「食べられないです」


「食ってないでしょ」


「食べられないんです」


「じゃあ水だけ」


宮原はペットボトルのキャップを開けて、美緒の前に置いた。


そこまでされると、受け取らない方が不自然だった。美緒は小さく「ありがとうございます」と言って、ペットボトルを両手で持った。


水は冷たかった。喉が渇いていることに、飲んでから気づいた。


宮原は向かいではなく、少し横に座った。近すぎない。でも、遠くもない。その距離が、かえって落ち着かなかった。


「顔、マジで死んでる」


宮原が言った。


美緒はペットボトルを握ったまま、少しだけ目を上げた。


「またそれですか」


「あ、言い方悪いか」


「悪いです」


「でもほんと、やばいって」


宮原は困ったように笑った。


「なんか、俺が言うのも変だけど」


「はい」


「今、ちゃんと飯食わないと、明日もっとやばいと思う」


「明日」


美緒は、その言葉を繰り返した。


明日。明日がある。そのことが、少し不思議だった。


今日だけで、もう十分だった。


流出の朝から、世界が勝手に進んでいた。第13妻。流出。非公表妻。居酒屋勤務。古妻ノート。投稿制限。距離を置きましょう。管理担当を経由してください。


あの夜には、誰も来ないと思った。


誰も来ない部屋で、配偶登録解除画面を開いて、押せなくて、閉じられなくて。


そのあと、宮原が来た。


そして今、コンビニの水を飲んでいる。


明日がある。そのことが、急に重かった。


「無理なら食わなくていいけど」


宮原は言った。


「置いとくから」


「……はい」


「あと、寝てもいいし」


「寝られないと思います」


「じゃあ起きてればいいし」


その言い方は雑だった。


寝ればいい。寝られないなら起きていればいい。


璃子なら、そんなふうには言わない。今は身体を休めて。あなた自身を守って。無理に結論を急がなくていいわ。


凛なら、もっと気を遣う。落ち着いたら話そう。今は無理しないで。


宮原は、そういう言葉を選ばない。


それが少しだけ楽だった。


選ばれた言葉は、正しい。正しい言葉は、受け取るのに力がいる。宮原の言葉は、正しくない。だから、少しだけ軽かった。


美緒は、スマホを見た。


画面には通知がいくつか残っている。配偶者用アプリ。古妻ノート。妻向け掲示板。凛。宮原との通話履歴。


天城蓮の名前はなかった。


美緒は、無意識にそれを探してしまう自分に気づいた。


まだ探している。


こんな場所に来ても。宮原の部屋にいても。水を飲んでいても。まだ、蓮からの通知を探している。


最近、無理してない?


あの一文が、身体の奥に残っている。


前にこの画面を開いた時は、あの言葉で戻った。申請画面を閉じた。まだ大丈夫だと思った。


あの夜には、お前といると楽だ、と言われた。他の人には言えないこともある。こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。


その言葉で、美緒はもっと深く戻った。


でも今、蓮からは何も来ない。


美緒は配偶者用アプリを開いた。宮原が何か言いかけた気配がした。でも、何も言わなかった。


アプリのホーム画面には、まだ同じ表示があった。


【第13配偶者】


【対象者:天城 蓮】


【佐倉 美緒】


その下に、新しい表示。


【投稿権限:一時停止】


【個別連絡:管理担当を経由してください】


妻でいることと、妻たちの中にいられることは、別だった。制度は、そういうふうにできている。


美緒は配偶者用アプリのメニューを開く。指は、ほとんど勝手に動いた。


【配偶登録解除】


その項目は、いつもの場所にあった。


美緒は項目を押した。


白い画面に切り替わる。


【配偶登録解除申請ページへ進みます】


前にも見た。流出の日にも見た。誰も来なかった夜にも見た。


何度見ても、冷たい。


美緒は下へスクロールした。


【申請後、対象者側確認および事務所確認が行われます】


対象者側確認。天城蓮が見るのだろうか。


朝比奈紬が確認するのか。久我璃子に連絡が行くのか。蓮が、自分で見るのだろうか。


第13妻が、妻をやめようとしている。その通知を、蓮はどう見るのだろう。


疲れた顔をするのだろうか。少しは、寂しいと思うのだろうか。


美緒は、その答えを知るのが怖かった。


さらに下へ送る。


【配偶登録解除後、一部コミュニティ機能へのアクセスは制限されます】


美緒は、その文を見て、少しだけ息を吐いた。


もう制限されている。投稿できない。一部は見られない。妻たちの場所には、もう普通には戻れない。


解除後に失うものを、今すでに少し失っている。


それなのに、まだ押せない。


画面の下に、確認情報が並んでいた。


【対象者:天城 蓮】


【登録番号:第13配偶者】


【氏名:佐倉 美緒】


美緒の指が止まった。


佐倉美緒。その文字だけが、急に大きく見えた。


妻になったはずだった。でも、名前は変わらなかった。


居酒屋では佐倉さん。店長も、宮原も、客も、そう呼んだ。給与明細も佐倉美緒。配送名義も佐倉美緒。役所の書類も、外へ出る名前は佐倉美緒。


イベント会場でチケットを見せた時も、佐倉美緒。SNSでも、天城とは名乗れない。


それは当然だった。非公表配偶者だから。蓮を守るため。他の妻たちを守るため。美緒自身を守るため。


そう説明された。美緒も納得したつもりだった。


でも今、同じ画面に表示されている。


【氏名:佐倉 美緒】


妻になる時も。妻でいる時も。妻でなくなろうとしている今も。


自分は、ずっと佐倉美緒だった。


外の世界では、何も変わっていなかった。


それなのに、失うものだけは確かにある。


天城蓮から通知が来るかもしれない夜。呼ばれるかもしれない時間。妻コミュニティの入口。第13妻という番号。その他大勢ではないと思えた自分。璃子に、あなたは大事にされているのよ、と言われた記憶。蓮に、お前といると楽だ、と言われた夜。


外側には何も残らなかった。でも内側には、ありすぎた。


美緒は画面を見つめた。


【氏名:佐倉 美緒】


その下に、申請ボタンがある。まだ押していない。押せない。


宮原の部屋の中で、コンビニ袋の音が小さく鳴った。宮原が何かを探している。


水のペットボトル。ゼリー飲料。おにぎり。安いテーブル。脱ぎっぱなしの上着。人の住んでいる部屋。


制度の外側にある部屋。


その中で、美緒は、制度の画面を見ている。


天城姓は、どこにもない。なのに、妻でなくなるためのボタンだけはあった。


美緒は、画面の中の自分の名前を見つめ続けた。


佐倉美緒。ずっと、佐倉美緒だった。


なのに、失うものだけは確かにある気がした。


美緒は、申請ボタンの上に指を置いたまま動けなかった。

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