第59話【迎え行く】
そのメッセージが美緒に届く頃。
美緒のスマホには、別の名前が表示されていた。
スマホが震えた。
美緒は、反射的に画面を見た。
天城蓮ではなかった。久我璃子でもない。乃亜でもない。凛でもない。
宮原悠斗。
その名前を見た瞬間、美緒は少しだけ固まった。
居酒屋の同僚。いつも距離が近い人。美緒ちゃん、と軽く呼んでくる人。
普段なら、少し面倒だと思う相手だった。
でも今、その名前だけが、画面の中で妙に現実的だった。
宮原悠斗:
「今どこ?」
続けて、すぐにもう一通来る。
宮原悠斗:
「一人?」
美緒は、その二つの文を見つめた。
大丈夫?ではなかった。無理しないで、でもなかった。何かできることある?でもない。
今どこ。一人。
それだけ。
雑だった。
でも、その雑さの中に、今の美緒が一番答えなければいけないことだけが入っていた。
今どこにいるのか。一人なのか。
美緒は、返信欄に指を置いた。
家。
そう打とうとして、止まる。
家にいる、と返せば、次に何が来るか分かる気がした。
来る。宮原は、来ると言う。
それが怖かった。怖いのに、少しだけ待っている自分がいた。
スマホがまた震える。
宮原悠斗:
「迎え行く」
美緒は、息を止めた。
迎え行く。
その四文字を、何度も読んだ。
この夜、美緒はずっと待っていた。
天城蓮からの連絡を。璃子からの別の言葉を。乃亜からの否定を。凛からの、もっと近い何かを。
でも、誰も来なかった。
通知は来た。管理担当からのお知らせ。古妻ノートの更新。妻向け掲示板のまとめ。知らないアカウント。店のクーポン。たくさん来た。
でも、美緒のところへ来る人はいなかった。
そこへ、宮原が言った。
迎え行く。
美緒は、スマホを握ったまま動けなかった。
宮原悠斗:
「返事しなくていいから、場所だけ送って」
宮原悠斗:
「家?」
宮原悠斗:
「外出んなよ」
少し間が空く。
宮原悠斗:
「いや、出るなら俺呼べ」
美緒は、その文を見て、少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。でも、喉の奥が少し緩んだ。
言葉が乱暴だった。外出んなよ。俺呼べ。そんな言い方、璃子はしない。凛もしない。蓮もしない。
璃子なら、今はあなた自身を守って、と言う。凛なら、落ち着いたら話そう、と言う。蓮なら、たぶん短く、無理すんなよ、と言う。
宮原は違う。きれいな言葉を選ばない。正しくもない。
でも、今はその正しくなさが、少しだけ呼吸になった。
美緒は返信欄に文字を打った。
佐倉美緒:
「家」
送信する。すぐに既読がついた。
宮原悠斗:
「住所」
美緒は、一瞬だけ迷った。
宮原は職場の同僚だ。家の最寄りはなんとなく知られている。でも、部屋の住所を送るのは違う。
違うと分かっている。
分かっているのに、指は動いた。
住所を送る。宮原から、すぐに返事が来た。
宮原悠斗:
「行く」
それだけ。
美緒は、画面を見つめた。
行く。来る。
その二つの言葉が、部屋の中で小さく響く。
スマホの上部に、凛からの通知が表示された。
高瀬凛:
「大丈夫。落ち着いたら話そう。今は無理しないで」
美緒は、その文を読んだ。
優しかった。凛らしかった。傷つけないように、遠くから手を伸ばしてくれている文だった。
悪くない。本当に、悪くない。
でも、美緒はそのメッセージを開かなかった。既読をつけなかった。
落ち着いたら。その言葉が、少し遠かった。
美緒は落ち着いていない。今、落ち着いていない。今、誰かに来てほしい。
その「今」に、宮原だけが届いていた。
宮原悠斗:
「電話出れる?」
通知が来る。美緒が返事をする前に、着信画面になった。
宮原悠斗。
美緒は、しばらく画面を見つめた。
出たら、もう少し先へ進んでしまう気がした。でも、出なければ、また一人に戻る。
美緒は通話ボタンを押した。
「出た」
宮原の声がした。いつもより少し低かった。
「よかった。生きてた」
その言い方があまりに雑で、美緒は少しだけ息を吐いた。
「……生きてます」
「声やば」
「やばくないです」
反射で返した。それが、自分でも少し意外だった。
宮原と話すと、いつもの返しが勝手に出る。
「いや、やばいって」
宮原は言った。
「今、一人?」
美緒は、部屋を見回した。
ベッド。小さなテーブル。飲みかけの水。伏せたままのスマホ。
「一人です」
「じゃあ行くわ」
「来なくていいです」
言ってから、自分でも嘘だと思った。
宮原は、少し黙った。
「来なくていい顔してないでしょ、たぶん」
「見えてないじゃないですか」
「見えてないけど、分かる」
分かる。
その言葉に、一瞬だけ乃亜の声が重なった。
分かるって言わないでよ。
美緒は息を止めた。
宮原は、もちろん何も知らない。
乃亜との会話も。下位妻グループのことも。第一妻の言葉も。天城蓮の弱音も。
何も知らない。
だから、今の「分かる」は軽かった。浅かった。
でも、その浅さが、逆に刺さらなかった。
宮原は続けた。
「十五分くらいで着く」
「本当に来るんですか」
「行くって言ってんじゃん」
「仕事は」
「今日休み」
「そんな急に」
「急じゃないと意味ないでしょ」
美緒は、何も言えなかった。
急じゃないと意味ない。
それは、たぶん正しかった。
明日でいいなら、凛に返せたかもしれない。落ち着いてからでいいなら、璃子の言葉を待てたかもしれない。手続きでいいなら、管理担当の連絡に従えたかもしれない。
でも、今は違う。今すぐ、誰かに来てほしかった。
「説明とか、いらないから」
宮原が言った。
「言いたくなったら言えば」
少し間を置いて、続ける。
「言いたくないなら、黙ってていいし」
美緒は、スマホを耳に当てたまま目を伏せた。
言いたくないなら、黙ってていい。
その言葉が、思ったより深く入ってきた。
凛には説明しなければいけない気がした。ニュースのこと。第13妻のこと。流出のこと。妻コミュニティから切り離されたこと。天城蓮から連絡が来ないこと。全部を、最初から話さなければいけない気がした。
乃亜には、もう何を言っても壊れる気がした。
璃子には、言葉を選ばれる気がした。
蓮には、信じてくださいと頼まなければいけない気がした。
でも宮原には、説明しなくてもいい。
たぶん、分からないから。分からないまま、来るから。
それが今だけは楽だった。
「なんか食った?」
宮原が聞いた。
「食べてないです」
「だろうね」
「なんで決めつけるんですか」
「声で分かる」
「また分かるって言った」
言ってから、美緒は少しだけ固まった。
宮原は、電話の向こうで短く笑った。
「じゃあ分かんないけど、たぶん食ってない」
その雑な修正が、少しだけおかしかった。
笑えなかったけれど、胸の奥の硬さがわずかにほどける。
「コンビニ寄るわ」
「いらないです」
「いる」
「宮原くん」
「水となんか買う。ゼリーでいい?」
美緒は、答えなかった。
「じゃあ適当に買う」
宮原は勝手に決めた。
美緒は、止めなかった。
誰かが勝手に決めてくれることが、今は少し楽だった。
自分で決めることに、もう疲れていた。
妻でいるか。妻をやめるか。乃亜を信じるか。疑うか。凛に話すか。蓮に送るか。璃子の言葉に従うか。
何も決められなかった。
そんな中で、宮原は勝手に来ると言い、勝手にコンビニへ寄ると言い、勝手にゼリーを買うと言った。
雑だった。でも、その雑さの中には、動きがあった。
「着いたら電話する」
宮原が言った。
「鍵、開けなくていいから」
「え?」
「いや、部屋に上がるとかじゃなくて」
少しだけ声が揺れた。
「下、来れるなら来て。無理なら電話して」
その揺れで、美緒はふと気づいた。
宮原も、完全に平気なわけではない。
踏み込みすぎていることは分かっている。自分が今、弱っている相手に近づいていることも、たぶん分かっている。
心配している。それは本当。
でも、それだけではない。美緒はそれも、どこかで分かっていた。
宮原は前から距離が近かった。冗談みたいに誘ってきた。美緒ちゃん、と軽く呼んだ。天城蓮には勝てないと笑った。
今、宮原が来ることには、きっと優しさ以外のものも混ざっている。
好奇心。下心。自分が頼られたことへの少しの優越感。
それでも、来る。
美緒は、その事実に負けていた。
「……分かりました」
そう言った。
宮原は、少し黙った。
「ちゃんと待ってて」
その声は、いつもより少しだけ真面目だった。
美緒は、胸の奥がまた揺れた。
「はい」
通話が切れる。部屋が静かになる。
美緒はスマホを見た。
凛からのメッセージは、まだ未読のままだった。
高瀬凛:
「大丈夫。落ち着いたら話そう。今は無理しないで」
美緒は、その通知を指でなぞった。
凛は優しい。本当に優しい。
でも今、美緒は凛ではなく、宮原に住所を送った。
その事実が、少し怖かった。
凛に返せば、普通の世界へ戻れたかもしれない。
でも、普通の世界へ戻るには、あまりにも説明が多すぎた。
美緒は立ち上がった。
鏡を見る。
髪は乱れている。目元は赤い。服も部屋着のままだった。
宮原に会う格好ではない。でも、着替える気力はなかった。上着だけ羽織る。スマホを握る。
配偶者用アプリのアイコンが、画面の端に残っていた。
第13配偶者。投稿権限停止。配偶登録解除。
その全部を、ポケットの中に入れたまま、美緒は玄関へ向かった。
外へ出る前に、もう一度スマホが震えた。
美緒は、息を止めて画面を見る。
宮原悠斗:
「あと五分」
天城蓮ではなかった。
でも、今度は少しだけ、がっかりしなかった。
五分後に来る人がいる。
そのことだけが、今の美緒を動かした。




