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第58話【落ち着いたら話そう】

凛がその見出しを見たのは、会社から帰って、部屋着に着替えた後だった。


テーブルの上には、コンビニで買ったサラダと、まだ開けていないお茶がある。テレビはついていない。部屋は静かだった。


スマホをなんとなく開いて、いつものようにニュースアプリを流し見した。


芸能。社会。炎上。制度利用著名人。


そんな見出しの中に、その名前があった。


天城蓮。


凛の指が止まった。


「天城蓮の非公表妻、流出騒動か」


その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。


非公表妻。第13妻。居酒屋勤務。一般人配偶者。匂わせ。


画面に並ぶ言葉は、どれも断定ではなかった。「か」「らしい」「関係者の間で」「ネット上では」。そういう曖昧な言葉ばかりだった。


でも、凛には嫌な予感があった。


美緒。


そう思った。


もちろん、確証はない。佐倉美緒と書かれているわけではない。顔がはっきり出ているわけでもない。凛は妻コミュニティの内側を知らない。


それでも、分かってしまう。


第13妻。居酒屋勤務。非公表。


その断片が、美緒の輪郭を作っていた。


凛は、記事を最後まで読めなかった。途中で画面を閉じた。


閉じたのに、言葉は残っている。第13妻。流出。非公表妻。


美緒のことかもしれない。


凛は、スマホをテーブルに置いた。すぐに取り上げた。


何か送らなければいけない。そう思った。


美緒に。親友に。


あの夜、やっと結婚できたよ、と言った美緒に。


あの時のことを、凛はよく覚えている。


ファミレスのテーブル。安いドリンクバーのグラス。美緒の少し浮いた声。


「やっと結婚できたよ」


最初は、冗談だと思った。結婚。天城蓮と。推しと。そんなことが現実に起きるとは、凛にはすぐに飲み込めなかった。


でも、美緒は本気だった。本当に嬉しそうだった。怖いくらい、幸せそうだった。


「推しと結婚できるなんて、夢みたい」


「誰かにちゃんと愛されたかった」


「笑わないでよ」


「いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた」


美緒はそう言った。


凛は、完全には分からなかった。分からなかったけれど、笑わなかった。美緒があまりにも真剣だったから。美緒が、ずっと何かを欲しがっていたことを知っていたから。


だから凛は言った。


「おめでとう」


その言葉を、今でも覚えている。


美緒の顔も。少し泣きそうで、少し誇らしげで、夢の中にいるみたいな顔。


凛は、スマホの画面を開いた。


美緒とのチャット。最後のやり取りは、少し前のものだった。コンビニスイーツの写真。仕事の愚痴。短いスタンプ。普通の友達の会話。


その下に、今から何かを送る。何を。


凛は入力欄を開いた。


「大丈夫?」


打って、すぐに消した。


大丈夫なわけがない。もし、あの記事が美緒のことなら。


「何かできることある?」


消した。


できること。何ができるのか、分からなかった。


凛は天城蓮の妻コミュニティに入っていない。制度の内側も知らない。流出を止める方法も知らない。


何かできることある?それは、優しいふりをした他人事みたいだった。


「今、会える?」


しばらく、その文字を見る。


美緒は会いたいだろうか。会いたくないかもしれない。凛にまで知られたと思うことが、つらいかもしれない。踏み込みすぎかもしれない。


消した。


「ニュース見た」


それも消す。


見た、と言った瞬間、美緒をそのニュースの当事者にしてしまう。まだ違うかもしれない。違わないとしても、凛が見たと言うことで、美緒の逃げ場を一つ潰してしまう気がした。


凛は、唇を噛んだ。


「美緒、これあなたのこと?」


打たなかった。頭の中に浮かんだだけで、指が止まった。それだけは送れない。絶対に送れない。


凛は、スマホを持ったまま椅子にもたれた。


部屋は静かだった。冷蔵庫の音がする。上の階で、誰かが歩く音がする。普通の夜だった。


美緒のいる場所とは、たぶん違う。


凛は普通の部屋にいる。普通に会社へ行き、普通に帰ってきて、普通にコンビニでサラダを買った。


美緒は、あの制度の中にいる。推しの妻になった場所。


凛には、そこがどういう場所なのか分からない。


分からないまま、おめでとうと言った。


それが今、喉の奥に引っかかっている。


あの時、もっと止めるべきだったのだろうか。本当に大丈夫なの、と聞くべきだったのだろうか。非公表って、外で名乗れないってことだよね、ともっとちゃんと言うべきだったのだろうか。


でも、あの時の美緒は本当に幸せそうだった。


凛は、その幸福を壊せなかった。壊したくなかった。そして少し、怖かった。美緒の夢に水を差す人になりたくなかった。


凛は、もう一度入力欄を開いた。


「無理しないで」


打って、止まる。


何を無理しないでと言うのだろう。


凛には分からない。分からないのに、無理しないで、とだけ言うのは、やっぱり遠い気がした。


消す。入力欄が白くなる。


凛は、その白さを見つめた。


助けたい。それは本当だった。美緒に何かあったなら、助けたい。


でも、助けたい気持ちだけでは指は動かなかった。


送る言葉を間違えたら、美緒を傷つけるかもしれない。踏み込みすぎたら、拒絶されるかもしれない。何も知らないくせに、と言われるかもしれない。


そういう怖さもあった。その怖さがあることを、凛は自分で嫌だと思った。


親友なのに。今、そんなことを考えている。でも、考えてしまう。


凛は、もう一度ニュースアプリを開いた。見出しだけを確認する。


天城蓮。第13妻。非公表情報。事務所対応へ。


コメント欄は開かなかった。開いたら、もっとひどい言葉がある気がした。


凛はアプリを閉じた。


美緒とのチャットに戻る。今度は、少し長く打った。


「大丈夫。落ち着いたら話そう。今は無理しないで」


打ち終えて、凛はしばらくその文を見つめた。


悪くないはずだった。


大丈夫。落ち着いたら話そう。今は無理しないで。


相手を追い詰めない。決めつけない。ニュースを見たとも言わない。心配していることは伝わる。


そう思った。


でも、どこか遠かった。


今すぐ行く、ではない。会いに行く、でもない。


落ち着いたら。


その条件が、急に冷たく見えた。


美緒は今、落ち着いているのだろうか。落ち着いたら、では遅いのではないか。


凛は、また消そうとした。


でも、消したら、また何も送れなくなる。何も送れないまま時間が過ぎる。それも怖かった。


凛は、送信ボタンの上に指を置いた。少しだけ迷って、押した。


高瀬凛:

「大丈夫。落ち着いたら話そう。今は無理しないで」


送ってから、すぐに既読がつくことを願った。


美緒から何か返ってくることを願った。


「ありがとう」でもいい。「今は無理」でもいい。「来て」でもいい。


そう言われたら、行く。行ける。たぶん。


凛は、スマホを握ったまま画面を見ていた。


一分。二分。既読はつかなかった。


凛は、テーブルの上のサラダを見た。もう食べる気はしなかった。


スマホの画面は、まだ明るい。美緒からの返事は来ない。


凛は、もう一度チャットを見た。自分が送った文が、そこにある。


大丈夫。落ち着いたら話そう。今は無理しないで。


優しい文のはずだった。でも、やっぱり遠い。


凛は、そう思った。

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