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第57話【誰も来ない】

申請ボタンの上に置いた指は、まだ動かなかった。


押せない。でも、閉じることもできない。


スマホの画面だけが、暗い部屋の中で白く光っている。


【対象者:天城 蓮】


【登録番号:第13配偶者】


【氏名:佐倉 美緒】


その下に、青いボタンがある。


【申請する】


美緒は、その文字を見つめていた。


前にも一度、この画面を開いた。


あの時は、まだ閉じる理由があった。


最近、無理してない?


たった一文。それだけで、美緒は戻された。


天城蓮が自分を見てくれていた。忘れていなかった。気づいてくれていた。


そう思えた。だから、申請画面を閉じた。まだ大丈夫だと思った。


今も押せない。でも、今回は閉じる理由も来なかった。


美緒は、指をそっと画面から離した。


ボタンは押されなかった。けれど画面は、そのままだった。


膝の上でスマホを持つ手が冷えている。


部屋は静かだった。


カーテンの隙間から、隣の建物の明かりが細く入っている。エアコンの音が小さく鳴っている。冷めたマグカップが、テーブルの端に置かれている。


何も起きていない部屋だった。そのことが、かえって怖かった。


外では、何かが燃えている。


第13妻。居酒屋勤務。非公表妻。流出。匂わせ。第一さん側。


そういう言葉が、勝手に自分の周りを回っている。


なのに、この部屋では何も動かない。誰も来ない。


美緒は、配偶者用アプリのホーム画面に戻った。


いつもの表示が出る。


【第13配偶者】


【対象者:天城 蓮】


【佐倉 美緒】


まだある。まだ、自分は第13配偶者だった。


でも、その下の表示が変わっている。


【投稿権限:一時停止】


【対象グループ:下位配偶者グループ】


【個別連絡:管理担当を経由してください】


手続きの言葉は、きれいに並んでいた。感情が入る隙間がない。


下位妻グループを開く。画面は開いた。でも、入力欄はなかった。


【このグループへの投稿は一時的に制限されています】


美緒は、その一文を見つめた。


初めてこの場所に入った時のことを思い出す。


うちら下の方同士、気楽にやろ。乃亜がそう言った。


妻になったのに、天城姓はどこにもない。職場でも佐倉さん。給与明細も佐倉美緒。


その痛みを、ここでは笑えた。同じだと思えた。自分だけではないと思えた。


でも今、その場所に書くことができない。


妻なのに。まだ第13配偶者なのに。


グループには、何か新しい投稿があった。


桐谷麻衣:

「公式から何か来たら、こっちでも共有するね」


小野寺千紗:

「共有していい範囲ならね」


白石琴葉:

「美緒ちゃん、見えてるか分からないけど、無理しないで」


三枝乃亜:

既読。


乃亜は、また何も言っていない。


美緒は画面を閉じた。


乃亜との個別チャットを開く。入力欄はある。送ろうと思えば、送れる。


でも、送れない。


乃亜ちゃん。そう打つことすら、もう怖い。


これ、乃亜ちゃんじゃないよね。何か知ってる? 信じていいよね。


どの言葉も、乃亜を疑っている。疑いたくない。でも、疑っていないふりもできない。


美緒は個別チャットも閉じた。


次に、璃子からのメッセージを開いた。


久我璃子:

「今は、あなた自身を守って」


久我璃子:

「無理に結論を急がなくていいわ」


久我璃子:

「ただ、しばらくは距離を置いた方がいいと思う」


やさしい文面だった。璃子らしい、整った言葉。


責めていない。怒っていない。突き放しているわけでもない。


あなたは悪くないわ。その声が、まだ耳に残っている。


でも今は、距離を置いた方がいい。あなたのためよ。


美緒は、画面を見たまま動かなかった。


あなたのため。


美緒を守るため。蓮を守るため。子どもたちを守るため。妻コミュニティを守るため。その全部が重なった時、一番外へ置かれるのは美緒だった。


璃子は嘘をついていない。きっと、本当に美緒を心配してくれている。


でも、璃子の優しさはもう、美緒を中心へ戻してはくれない。


あの時は違った。


あなたは大事にされているのよ。


その言葉に、美緒は沈むように救われた。


でも今は、その言葉がない。代わりにあるのは、距離だった。


美緒は、天城蓮とのチャットを開いた。


最後のやり取りは、まだそこにある。


天城 蓮:

「今日は来てくれてありがとう」


佐倉美緒:

「こちらこそ、ありがとうございました」


それ以降、何もない。


美緒は、その空白を見つめた。


前にこの画面を開いた時は、ここで連絡が来た。


最近、無理してない?


あの一文が来た時、美緒は泣きそうになった。


長い説明はいらなかった。謝罪も、約束も、守るという言葉もなかった。


それでもよかった。見てくれていた。それだけでよかった。


だから今回も、どこかで待っていた。


待っている自分が嫌だった。


こんな時にまで。


流出して、妻コミュニティから切り離されて、下位妻グループにも書けなくなって、それでもまだ、蓮からの通知を待っている。


大丈夫か。怖かったな。美緒は悪くない。


そんな言葉を、勝手に想像している。


来ないのに。


スマホが震えた。美緒の身体が固まる。


画面を見る。


配偶者用アプリ。


【管理担当よりお知らせがあります】


天城蓮ではなかった。


通知を開く。


【外部流出事案に関する追加確認について】


【独自判断による関係者への連絡、外部発信、投稿はお控えください】


美緒は、すぐに画面を閉じた。


また震える。今度はメールマガジンだった。知らない店のクーポン。天城蓮ではない。


また震える。古妻ノートの更新通知。天城蓮ではない。


また震える。妻向け掲示板のまとめ通知。天城蓮ではない。


美緒は通知を切ろうとして、指を止めた。


切れない。


もしかしたら、次は蓮かもしれない。そう思ってしまう。だから切れない。


待つのが嫌なのに、待つために通知を残している。そのことが、惨めだった。


美緒はスマホを伏せた。でも、すぐにまた持ち上げた。画面が見えない方が怖かった。


部屋の時計を見ると、夜は深くなっていた。誰かが来る時間ではなかった。


凛にも送れなかった。乃亜にも送れなかった。璃子には待つように言われた。下位妻グループには書けない。蓮からは何も来ない。


美緒は、ベッドの端に座ったまま、スマホを握っていた。


画面には、配偶者用アプリのホームが表示されている。


【第13配偶者】


【佐倉 美緒】


まだそこにいる。なのに、どこにもいない。


妻だった場所から外されている。普通の世界にも戻れない。友達にも言えない。夫にも届かない。


誰かに来てほしかった。


誰でもいいわけではなかった。でも、誰かに来てほしかった。


スマホは、しばらく震えなかった。


その静けさの中で、美緒は思った。


誰も来ない。


それは、通知が来ないという意味だけではなかった。


自分のところまで、誰も来ない。


美緒は申請画面をもう一度開いた。


【申請する】


ボタンは、まだそこにあった。


押せない。でも、閉じてもいない。


白い画面だけが、部屋の中で明るかった。

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