第56話【今は、何も来なかった】
次に、凛とのチャットを開いた。
高瀬凛。普通の世界の親友。
最初に、やっと結婚できたよ、と言った相手。いつか、あの人の子どもが欲しいと思っていた、と打ち明けた相手。
美緒は入力欄を開いた。
「凛、私、どうしたらいいかな」
打った。すぐに消した。
どうしたらいいかな。そんな言葉で済む話ではなかった。
「ごめん、やっぱり大丈夫じゃない」
それも消した。
夢が叶ったと報告した相手に、今それを言うのが怖かった。凛にまで、自分の夢が壊れたものとして見られたくなかった。
「ニュース見た?」
その一文を見た瞬間、手が止まった。
凛がまだ見ていないなら、知らせることになる。凛がもう見ているなら、見られてしまったことになる。どちらも怖い。
消した。凛の入力欄が空になる。
凛にも送れない。
美緒は、チャットを閉じた。
スマホが震えた。今度は、宮原だった。
宮原悠斗:
「今日シフト入ってたっけ?」
宮原悠斗:
「店長が探してた」
美緒は、その文字をぼんやり見た。
店長。シフト。居酒屋。佐倉さん。
そこだけは、まだ普通の世界だった。
でも、その普通の世界にも、もう自分の名前が漏れ始めている。
居酒屋勤務の一般人配偶者。佐倉って名前出てるけどマジ?
美緒は、宮原に返信できなかった。
宮原は何も知らないかもしれない。いや、知っているかもしれない。居酒屋で、もう誰かが話しているかもしれない。
美緒は、宮原のチャットも閉じた。
どこにも返せない。
下位妻グループにも。乃亜にも。凛にも。宮原にも。
璃子からは、必要な時はこちらから連絡する、と言われた。天城蓮からは、何も来ていない。
最近、無理してない? 無理すんなよ。お前といると楽だ。
その言葉をくれた蓮は、今、どこにいるのだろう。
対応に追われている。璃子はそう言った。だから、今は直接連絡を待つより、こちらの指示に従って。
美緒は、蓮とのチャットを開いた。
最後のやり取りが残っている。
天城 蓮:
「今日は来てくれてありがとう」
佐倉美緒:
「こちらこそ、ありがとうございました」
それ以降、何もない。
美緒は、入力欄に指を置いた。
「蓮さん、私、何も流してません」
打つ。送れない。重い。必死すぎる。消す。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
それも違う。謝れば、自分が悪いことになる。消す。
「信じてください」
その文字を見て、美緒は指を止めた。
妻なのに。夫に、信じてくださいと頼まなければいけない。
そのことが、急に惨めだった。
消した。蓮にも送れない。
美緒は、チャットを閉じた。
配偶者用アプリのホーム画面に戻る。
【第13配偶者】
【対象者:天城 蓮】
【佐倉 美緒】
その下の表示。
【下位配偶者グループ:投稿制限中】
美緒は、しばらく画面を見ていた。
第13配偶者。まだ妻。でも、妻の場所からは外されている。
どこにも行けない。
その時、美緒の目に、メニューの項目が入った。
【配偶登録解除】
前にも一度、開いた画面。離婚申請。妻卒。
あの時は、画面を見ただけで怖かった。指を置いても、押せなかった。その直後に、蓮からメッセージが来た。
最近、無理してない?
それだけで、美緒は戻った。まだ大丈夫だと思った。
でも今は、蓮から何も来ていない。
美緒は、ゆっくりその項目を押した。
画面が切り替わる。
白い背景。黒い文字。整った余白。
【配偶登録解除申請ページへ進みます】
美緒は、息を止めた。
画面は、前に開いた時と同じだった。同じ文字。同じ配置。同じ冷たさ。
でも、意味が違う。
あの時は、まだ逃げ道だった。怖くて、でも押せない出口。
今は違う。
もう、妻コミュニティの中に戻れないかもしれない。下位妻グループにも書けない。蓮からも連絡が来ない。自分の名前は外に出始めている。
出口というより、そこだけが現実の手続きに見えた。
美緒は画面を下へ送った。
【申請後、対象者側確認および事務所確認が行われます】
対象者側確認。天城蓮が確認する。
美緒が妻をやめたいと言えば、蓮は見るのだろうか。忙しい中で。対応に追われている中で。
蓮は、その申請を見るのだろうか。それとも、事務所が見るのだろうか。紬が処理するのだろうか。
美緒は、さらに下を見る。
【配偶登録解除後、一部コミュニティ機能へのアクセスは制限されます】
美緒は、笑いそうになった。
もう、制限されている。投稿できない。見られないところがある。妻たちの場所へ戻れない。
解除後に制限されるものを、今すでに少し失っている。
そのことがおかしくて、でも少しも笑えなかった。
画面の下に、情報が表示される。
【対象者:天城 蓮】
【登録番号:第13配偶者】
【氏名:佐倉 美緒】
美緒は、その三行を見つめた。
対象者:天城蓮。推し。夫。あの夜、疲れた顔を見せてくれた人。
登録番号:第13配偶者。自分がその他大勢ではなくなった証。匿名で流れ、燃やされ、今は事案になっている番号。
氏名:佐倉美緒。妻になっても天城姓にはならなかった名前。そして今、外へ出始めている名前。
登録完了通知を見た時、この表示は祝福だった。
あの時、美緒は、本当に夢が叶ったと思った。
やっと結婚できたよ。凛にそう言った。
誰かにちゃんと愛されたかった。いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた。
あの時の自分は、何も知らなかった。
今、同じ番号が、解除申請の画面にある。
美緒は、画面の下のボタンを見た。
【申請する】
前に見た時と同じボタン。
その時は、蓮の一文で閉じた。今回は、まだ何も来ない。
美緒は、指を近づけた。
押せない。でも、指は離れなかった。
前に見た時よりも、ずっと長くそこにあった。
押せば、終わるのかもしれない。
下位妻グループを見なくていい。乃亜を疑わなくていい。璃子の優しさが切り離しに変わるところを見なくていい。蓮からの連絡を待たなくていい。
でも、押したら。
天城蓮の妻ではなくなる。第13配偶者ではなくなる。
その他大勢にも戻れないまま、ただの佐倉美緒になる。流出だけが残る。妻だったことだけが、汚れた形で残る。
美緒は、指を置いたまま動けなかった。
スマホは震えない。
蓮からの通知は来ない。璃子からも来ない。乃亜からも来ない。凛からも来ない。
画面の中には、申請ボタンだけがあった。
美緒は、押さなかった。押せなかった。でも、閉じることもできなかった。
部屋の中で、白い画面だけが明るかった。
あの時は、そこから戻る理由が来た。
今は、何も来なかった。
美緒は、申請ボタンの上に指を置いたまま、ただ画面を見つめていた。




