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第6話【従前氏名】

帰宅した時には、日付が変わる少し前だった。


美緒は靴を脱いで、玄関にしばらく立っていた。居酒屋の油の匂いが、まだ髪や服に残っている気がする。


部屋の電気をつけると、いつもの部屋がそこにあった。


カーテン。ベッド。小さなテーブル。洗濯物を入れたままのかご。昨日のイベントで持ち帰ったパンフレット。


何も変わっていない。


でも、スマホの中には通知がある。


【妻コミュニティへの招待が届いています】


美緒は、バッグを床に置いた。制服を脱ぐより先に、ベッドの端に座った。


店ではちゃんと読めなかった。宮原に見られそうで、すぐに画面を伏せてしまった。


今なら一人だ。誰にも見られない。


美緒はスマホを開いた。


配偶者用アプリを起動する。起動までの数秒が、いつもより長く感じた。


白い画面に、通知の詳細が表示される。


【妻コミュニティへの招待が届いています】


【対象者:天城 蓮】


【登録番号:第13配偶者】


【氏名:佐倉 美緒】


【参加にはコミュニティ規約への同意が必要です】


妻コミュニティ。


その文字を、もう一度目で追った。


天城蓮の妻たちの場所。第1妻から第12妻までの人たちがいる場所。ネットの噂でしか知らなかった人たち。客の会話の中で下世話に語られていた人たち。第一妻には子どもがいないらしい、子どもがいる妻もいるらしい、と断片的に語られていた人たち。


その中に、自分も入る。


胸が高鳴っていた。


登録完了通知を見た時とは、少し違う高鳴りだった。


あの時は、天城蓮の人生のどこかに自分の名前が入ったことが嬉しかった。今は、その名前が、妻たちの世界の中に置かれようとしている。


一人ではないのかもしれない。


推しの妻になったのに、誰にも言えない。天城姓も名乗れない。職場では佐倉さんで、客には店員さんで、SNSではただのファンにしか見えない。


その寂しさを、分かってくれる人がいるのかもしれない。


美緒は、参加画面へ進んだ。


すぐに規約が表示された。細かい文字が、画面いっぱいに並んでいる。


【妻コミュニティ利用規約】


【本コミュニティは、対象者および登録配偶者間の連絡、案内共有、生活上の相談を目的として設置されています】


生活上の相談。


その言葉に、美緒は少しだけ笑いそうになった。


天城蓮の妻たちにも、生活がある。スーパーに行ったり、仕事に行ったり、洗濯物を畳んだり、家賃を払ったりするのだろうか。


当たり前のことなのに、今まであまり考えたことがなかった。


美緒は画面を下へ送った。


【対象者および登録配偶者の私生活情報を、外部へ共有することを禁じます】


【呼び出し頻度、個別契約内容、配偶者間の序列に関する情報を、外部SNS、掲示板、知人、勤務先等へ発信することを禁じます】


配偶者間の序列。


その言葉が、少し引っかかった。


妻に序列があることは、分かっていた。第1妻から第13妻まで、数字があるのだから順番がある。でも、規約の文字として見ると、急に冷たかった。ただの順番ではなく、管理されるものなのだと分かる。


さらに下へ送る。


【対象者の居住地、移動予定、宿泊場所、家族構成、子どもに関する情報は、管理者の許可なく共有してはなりません】


子ども。


美緒の指が止まった。


凛に言った言葉が頭に浮かぶ。いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた。


あの時は、夢として言った。


今、画面の中では、それは取り扱い制限の対象だった。


子どもがいる妻は、きっと強い。どこまで本当かは分からなくても、規約の中に子どもという言葉があるだけで、それがこの世界の中で特別な重さを持っていることは分かった。


美緒は、少しだけ息を吸った。まだ、自分には関係ない。


そう思おうとした。


画面をさらに下へ送る。


【非公表配偶者の氏名使用について】


そこで、美緒の指が止まった。


【非公表配偶者は、外部において従前氏名を使用するものとします】


従前氏名。


すぐには頭に入ってこなかった。


従前。前からの名前。これまで使っていた名前。


つまり、佐倉美緒。


続きを読んだ。


【対象者の姓、芸名、本名、またはそれらに紐づく通称を使用することは、外部特定および対象者・登録配偶者への影響を避けるため禁止します】


【勤務先、SNS、配送先、契約名義、金融機関、行政手続き等においても、必要な場合を除き従前氏名を継続してください】


美緒は、画面を見つめた。


勤務先。SNS。配送先。契約名義。金融機関。行政手続き。全部、佐倉美緒。


分かっていた。


天城の名前を使えないことは、分かっていた。非公表だから。蓮のためだから。自分を守るためでもあるから。


分かっていたはずだった。


でも、規約の中でそう書かれると、それは急に、自分の気持ちではなく、誰かが決めたルールになった。


天城姓を名乗れない。


それは遠慮でも、配慮でも、秘密の甘さでもなかった。


禁止だった。


美緒は、スマホを持つ手に力を入れた。


登録完了通知を受け取った時、佐倉美緒という名前がそのまま天城蓮の人生に登録されたことが嬉しかった。今までの自分ごと拾われたような気がした。


でも今は、同じ名前が少しだけ違って見える。


佐倉美緒のまま。


それは、守られているということなのだろうか。それとも、外の世界では何も変わらないということなのだろうか。


美緒は、画面から目を離した。


部屋の中は静かだった。冷蔵庫の小さな音だけが聞こえる。窓の外で、車が一台通り過ぎた。


天城蓮の妻になったのに、一人で規約を読んでいる。


そのことが、少しだけおかしかった。少しだけ、寂しかった。


美緒は、もう一度スマホを見た。


【対象者・登録配偶者の安全確保のため、本規約に違反した場合、コミュニティ機能の制限、管理者面談、登録内容の再確認等が行われる場合があります】


言葉が硬い。


妻コミュニティという響きから、美緒はもっと柔らかいものを想像していた。同じ人を好きになった人たち。同じ秘密を抱えている人たち。呼ばれない夜の寂しさを分かってくれる人たち。


けれど、画面の中にあるのは、外部発信禁止、情報共有禁止、違反時対応だった。


夢の場所ではない。管理された場所だ。


そう思った。


思ったのに、胸の高鳴りは完全には消えなかった。


それでも、ここに入れば何かが変わるかもしれない。誰にも言えなかったことを、誰かには言えるかもしれない。自分と同じように、天城姓を名乗れない人がいるかもしれない。


美緒は、画面を最後まで送った。


【上記規約に同意し、妻コミュニティへ参加します】


その下に、同意ボタンがあった。


美緒は指を置いた。


押せば、妻たちの世界に入る。押さなければ、このまま一人だ。


美緒は、もう一度だけ規約の見出しを見た。


非公表配偶者の氏名使用について。従前氏名。佐倉美緒。


妻になっても、その名前のまま。


小さく息を吐いた。


それでも。


蓮さんの妻であることは、変わらない。誰にも見えなくても。天城と名乗れなくても。規約の中で、まず守るべきリスクのように扱われていても。


自分は第13配偶者として登録されている。


美緒は、同意ボタンを押した。


画面が切り替わる。短い読み込みのあと、妻コミュニティの入口画面が開いた。


美緒は、スマホを両手で持ったまま、少しだけ背筋を伸ばした。


扉の向こうに入った。


そこが本当に自分を迎えてくれる場所なのかは、まだ分からなかった。

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