第5話【妻コミュニティへの招待】
翌日の居酒屋は、いつもと同じ匂いがした。
油の匂い。焼き鳥の煙。洗い場の湿った空気。客が入る前の、少しだけ静かな店内。
美緒は、開店前のテーブルを拭いていた。
布巾を広げて、端から端まで拭く。メニュー立てを戻す。箸箱の中身を確認する。テーブルの端に小物入れをそろえる。
いつもの作業だった。何も変わっていない。
店の奥に貼られたシフト表には、佐倉、と書かれていた。更衣室のロッカーにも、佐倉。制服につける名札にも、佐倉。
佐倉美緒。
天城蓮の妻になったはずなのに、ここではただの佐倉だった。
「佐倉さん、六番卓の予約、十九時からだから」
店長の声が飛んできた。
「はい」
美緒はすぐに返事をした。その返事も、いつもと同じだった。
時給は変わらない。シフトも変わらない。店長の言い方も変わらない。客が入れば、店員さん、と呼ばれる。
当然だった。誰も知らない。知っているはずがない。
それでも、昨日までとは違う。
昨日のイベント会場で、私はもう、あっち側じゃないと思った。
でも職場では、何も変わらなかった。
客は私を知らない。店長も知らない。同僚も知らない。誰も、私が天城蓮の妻だと知らない。
それが少し寂しい。
でも、少し甘い。
自分だけが知っている秘密だから。
「美緒ちゃん」
背後から声をかけられた。振り返ると、宮原悠斗が段ボールを抱えて立っていた。仕入れのビール瓶が入っている箱で、少し重そうなのに、表情だけはいつも軽い。
「今日なんか機嫌よくない?」
美緒は、布巾を畳み直した。
「そうですか」
「うん。なんか、顔が違う」
「顔が違うって何ですか」
「いや、いい意味で」
宮原は箱をカウンターの下に置いた。
「また天城蓮?」
その名前が出た瞬間、美緒の指先が少し止まった。でも、すぐに動かした。
「またって言い方、やめてください」
「好きだねえ」
「宮原くん、昨日も似たようなこと言ってましたよね」
「だって分かりやすいんだもん。推し活の日だけ、ちょっと浮いてる」
美緒は、わざとため息をついた。
「仕事してください」
「してるしてる」
「してないです」
「じゃあ美緒ちゃんも、にやけながらテーブル拭くのやめなよ」
美緒は、思わず口元を押さえた。
にやけていたのだろうか。
宮原はそれを見て、楽しそうに笑った。
「ほら」
「別に、にやけてません」
「俺もそのくらい推されてみたいわ」
「宮原くんは、自分で自分を推してるじゃないですか」
「ひどくない?」
「距離近いです」
そう言うと、宮原は軽く両手を上げて、一歩下がった。
「はいはい。佐倉さんは今日も厳しい」
佐倉さん。
店の中でそう呼ばれると、美緒は少しだけ現実に戻された。
宮原は、店長や客の前ではちゃんと佐倉さんと呼ぶ。二人だけの時や、軽口を叩く時だけ、美緒ちゃんになる。その切り替えも、いつも通りだった。
いつも通りだから、少しだけ安心する。
宮原は何も知らない。美緒が昨日、イベント会場で何を思ったかも。SNSに何を書いたかも。その投稿にどんな反応が来ているかも。配偶者用アプリの中に、美緒の名前と天城蓮の名前が並んでいることも。
何も知らないから、いつも通り軽い。
今は、それでよかった。
開店してすぐ、客が入り始めた。
「店員さん、生二つ」
「すみません、取り皿ください」
「これ、今日のおすすめ?」
美緒は、注文を取り、グラスを運び、皿を下げた。
誰も美緒を見ない。いや、見てはいる。店員として見ている。注文を頼む相手として。会計をする相手として。空いた皿を下げる相手として。
天城蓮の妻として見る人は、一人もいない。
それが当然なのに、胸の奥に小さな空洞ができる。
妻になったのに、世界は佐倉美緒のまま続いている。
その空洞を埋めるように、美緒は休憩中、スマホを開いた。
昨日の投稿には、まだ反応がついていた。
「詳しくは言えないけど、ずっと好きでいてよかったって思える日だった」
自分で書いたその一文が、少し恥ずかしい。消そうと思えば、まだ消せる。でも、消せなかった。
通知欄には、知らないアカウントからの反応も混ざっていた。
「いいことあったんだね」「羨ましい」「こういう匂わせ苦手」「報われたって言い方、ちょっとな」「何があったのか気になる」
美緒は、画面をスクロールした。
傷つく言葉もある。見なければよかったと思う言葉もある。それなのに、見てしまう。
羨ましい、という文字のところで、指が止まった。
羨ましがられたいわけじゃない。そう思った。
でも、その文字を見ると、胸の奥が少しだけ満たされた。
自分は何かを得たのだと、誰かが気づいている。全部は言っていない。言えない。言うつもりもない。それでも、何かが伝わっている。
そのことが怖くて、甘かった。
「美緒ちゃん、休憩終わるよ」
休憩室の扉から、宮原が顔を出した。
美緒は慌ててスマホを伏せた。
「分かってます」
「今、めっちゃ見てたじゃん」
「見てません」
「いや見てたって。炎上でもした?」
「してません」
声が少し強くなった。宮原は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「冗談じゃん。顔こわ」
「宮原くんが変なこと言うからです」
「はいはい。ごめんて」
宮原は笑って離れていった。
軽い。本当に軽い。
それなのに、炎上、という言葉だけが妙に胸に残った。
炎上ではない。まだ、たぶん。
美緒はスマホをエプロンのポケットに入れて、店内に戻った。
その後も、仕事は続いた。注文を取り、料理を運び、会計をして、グラスを洗う。体は勝手に動いた。もう何年もしている仕事だった。
でも、頭の片隅ではずっと通知のことを考えていた。
SNSの通知。配偶者用アプリの通知。どちらもスマホの中にある。
外側の世界では、美緒は佐倉のままだ。けれどスマホの中だけに、別の扉がある。
二十一時を過ぎた頃、店内が一度落ち着いた。
美緒は洗い場でグラスを拭いていた。第一話の日と同じように。グラスの縁に残った水滴を布巾で拭く。棚に戻す。次のグラスを取る。
その時、エプロンのポケットの中でスマホが震えた。
一度だけ。短い振動だった。
美緒は、すぐには取り出さなかった。客の前では見ない。勤務中にスマホを見ていると、店長に注意される。
でも、胸が勝手に速くなる。
SNSだろうか。また昨日の投稿に反応が来たのだろうか。それとも。
「美緒ちゃん、スマホ鳴ってない?」
宮原が横から言った。
「あとで見ます」
「真面目」
「仕事中なので」
「俺だったら見るけど」
「だから宮原くんは怒られるんです」
そう返しながら、美緒は自分の声が少し上ずっていることに気づいた。
宮原も気づいたのか、にやっとした。
「なに、そんな大事な通知?」
「違います」
「ほんとに?」
「仕事してください」
宮原は笑って離れていった。
美緒は、グラスを棚に戻した。それから、客席に背を向けるようにして、ポケットからスマホを取り出した。
画面をつける。
配偶者用アプリの通知だった。
【妻コミュニティへの招待が届いています】
美緒は、息を止めた。
通知を開く。白い画面に、事務的な文字が並ぶ。
【妻コミュニティへの招待が届いています】
【対象者:天城 蓮】
【登録番号:第13配偶者】
【氏名:佐倉 美緒】
【参加にはコミュニティ規約への同意が必要です】
美緒は、画面を見つめた。
妻コミュニティ。
その言葉だけが、他の文字より少し大きく見えた。
登録完了通知は、天城蓮の妻になった証だった。この通知は、その先にある場所への招待だった。
妻たちの世界。
自分と同じように、天城蓮の名前の隣に登録された人たち。第1妻から第12妻まで、美緒が来るまでそこにいた十二人。
美緒は、今までその人たちを遠くに見ていた。ネットの噂。客の下世話な会話。ファン同士の想像。第一妻には子どもがいないらしい、という曖昧な言葉。子どもがいる妻もいるらしい、という断片。
その全部が、画面の向こう側にある。
そして今、美緒はそこへ招かれている。
胸が高鳴った。同時に、少しだけ怖かった。
でも、その怖さより先に、嬉しさが来た。
一般ファンから抜け出した先に、ちゃんと次の場所がある。自分は一人ではないのかもしれない。妻になったことを、分かってくれる人たちがいるのかもしれない。
「美緒ちゃん?」
宮原の声がした。
美緒は、はっとしてスマホを伏せた。
「大丈夫?」
宮原は軽い声のまま聞いた。けれど、目だけは少しだけこちらを見ている。
美緒は笑った。
「大丈夫です」
その言葉は、今は本当だった。少なくとも、美緒にはそう思えた。
スマホの画面は伏せたままだった。それでも、通知の文面は目の奥に残っていた。
【妻コミュニティへの招待が届いています】
美緒は、もう一度だけ心の中で読んだ。
扉が開いた。
そう思った。
その先がどんな場所なのか、まだ何も知らなかった。




