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第4話【詳しくは言えないけど】

イベントが終わっても、美緒の手は少し震えていた。


拍手の音が、まだ耳の奥に残っている。天城蓮が笑った時の会場の空気。司会者の質問に、少し考えてから答える声。客席に向けて、何度か軽く手を振った仕草。


全部、まだ近くにあった。


会場を出る人たちは、みんな同じように少し浮いていた。


「今日やばかったね」


「近かった」


「最後、こっち見たよね?」


「見た見た。絶対見た」


「もう無理。好きでよかった」


美緒は、その言葉を聞きながら、人の流れに押されるように外へ出た。


外の空気は冷たかった。


会場の熱が、急に肌から離れていく。ビルのガラスには、イベント帰りの人たちが映っていた。グッズの袋を持った人。パンフレットを胸に抱えている人。スマホを見ながら、すでに感想を打っている人。


美緒もスマホを出した。


何か書きたかった。


ただ、イベントがよかった、だけでは足りなかった。


天城蓮がかっこよかった。声が好きだった。今日も推しててよかった。それなら、いつもの自分でも書ける。


でも、今日の美緒は、いつもの自分ではなかった。


ステージの上にいたあの人の名前の隣に、自分の名前がある。誰にも見えない場所で。誰にも知られない形で。それでも、確かにある。


駅前のカフェに入った。


イベント帰りらしい女性たちが、店内のあちこちにいた。テーブルの上にパンフレットを置いて写真を撮っている人もいる。グッズを並べている人もいる。小さな声で、さっきのトーク内容を振り返っている人もいた。


美緒は、壁際の一人席に座った。


ホットティーを頼んだのに、ほとんど口をつけられなかった。


スマホを開く。SNSの投稿画面を出す。


指が、自然に動いた。


「信じられないことが起きた」


そこまで打って、消した。


これでは、あまりにも分かりやすい気がした。


「ずっと応援してきてよかった」


打って、また消した。


それだけなら、今日のイベントの感想としてもおかしくない。でも、美緒が書きたいのは、イベントの感想ではなかった。


もっと違う。


自分が変わったこと。誰にも言えないけれど、何かが決定的に変わったこと。それを、ほんの少しだけ残したかった。


美緒は、スマホを伏せた。


テーブルの上のカップには、自分の名前もない。当然だ。それでも、急に思った。


どこにもない。


自分が天城蓮の妻になったことは、世界のどこにも見えていない。


チケット名義も、佐倉美緒。配偶者用アプリに表示される氏名も、佐倉美緒。バイト先の名札も、佐倉。銀行のアプリも、公共料金の引き落としも、配送先の名前も、全部、佐倉美緒。


妻になったのに、世界は何も変わっていない。


それが安全のためだと分かっている。蓮のためでもある。自分を守るためでもある。非公表というのは、そういうことだ。


でも、何も変わっていないみたいで怖かった。


美緒は、もう一度スマホを手に取った。


投稿画面に、ゆっくり文字を打つ。


「詳しくは言えないけど、ずっと好きでいてよかったって思える日だった」


しばらく、その文を見つめた。


これなら、ただのイベント感想に見える。少し大げさだけれど、ファンなら書いてもおかしくない。天城蓮の名前も出していない。結婚とも、登録とも、妻とも書いていない。


でも、美緒には分かる。自分だけには分かる。この文の奥にあるものを。


投稿ボタンに指を置いた。


押す直前で、胸が鳴った。


やめた方がいいかもしれない。詳しく言えないことを、わざわざ書く必要なんてない。変に勘ぐられたら困る。


それでも、何も書かなかったら、今日がただのイベントの日になってしまう。


ただ、客席から天城蓮を見た日。


違う。今日は、それだけではない。


美緒は、投稿した。


画面に、自分の文章が表示される。


「詳しくは言えないけど、ずっと好きでいてよかったって思える日だった」


たった一文。


それなのに、胸の奥が熱くなった。


しばらくは、何も反応がなかった。美緒はホットティーを一口飲んだ。もうぬるくなっていた。


店内では、イベント帰りの人たちがまだ話している。


「ファンサやばかった」


「ていうか奥さんたち、ああいうの見てどう思うんだろ」


「妻でもイベント来るのかな」


「来てたら怖いって」


美緒は、カップを持つ手を止めた。


来ていた。ここにいる。


でも、誰も知らない。


そのことが、また少し甘かった。


スマホが小さく震えた。


「何があったの?」


美緒は息を止めた。すぐに、もう一つ来る。


「今日のイベント?」


それから、少し遅れて。


「もしかして認知?」


認知。


その言葉を見た瞬間、美緒の胸がきゅっと縮んだ。


違う。認知なんかじゃない。


もっと上だと思った。


思ってしまった。


そのことに、自分で少し引いた。


美緒は返信しなかった。


通知は、少しずつ増えていった。


「いいなあ」


「蓮くん関係?」


「匂わせ?」


指が止まった。


匂わせ。


画面の中のその四文字が、急に冷たく見えた。


次の通知。


「詳しく言えないなら書かないでほしい」


美緒は、カップをテーブルに置いた。小さな音がした。


「こういうの一番きつい」


その文を読んだ時、美緒の胸が痛んだ。


悪いことをしたのだろうか。


たしかに、詳しくは言えない。言えないくせに、何かがあったことだけを見せた。誰かに聞いてほしくて。誰かに気づいてほしくて。でも、全部は知られたくない。


それは、ずるいのかもしれない。


美緒は画面を閉じようとした。けれど、閉じられなかった。


また通知が来る。


「報われるとか言わないでほしい。報われてない人もいるのに」


その言葉に、美緒は少しだけ傷ついた。


傷ついたのに、同じくらい、満たされた。


嫉妬されている。


そう思ってしまった。


自分の書いた一文が、誰かをざわつかせている。自分が何かを得たことを、誰かが感じ取っている。詳しく言っていないのに、伝わっている。


それが怖かった。でも、甘かった。


美緒は、スマホを両手で持った。


羨ましがられたいわけじゃない。そう思った。


でも、羨ましがられなかったら、きっと少し寂しかった。


また通知が来た。


「いいことあったならよかったね」


その文字を見て、美緒は少しだけほっとした。


普通の祝福。何も知らない人の、軽い言葉。それが一番安全なはずだった。


なのに美緒は、さっきの「匂わせ?」という文字をもう一度見てしまった。何度も見てしまった。その言葉の奥にある嫉妬や不快感まで、自分のものみたいに感じてしまった。


店を出る頃には、夜はすっかり深くなっていた。


駅へ向かう道で、美緒は投稿を消そうか迷った。


消せば、何もなかったことにできる。


でも、消したら本当に何も残らない。


今日、天城蓮を見たこと。自分が客席にいたこと。あの人の妻として、でも普通のファンの顔で座っていたこと。


何も残らない。


美緒は、投稿を消さなかった。


電車の窓に、自分の顔が映っていた。


イベント用に巻いた髪は、少し崩れている。リップも少し落ちていた。どこから見ても、ただのイベント帰りのファンだった。


でも違う。違うはずだった。


美緒は、配偶者用アプリを開いた。


【登録番号:第13配偶者】


【対象者:天城 蓮】


【氏名:佐倉 美緒】


そこにだけ、本当のことがある。


美緒は画面を見つめた。


佐倉美緒。


その名前が、今夜は少しだけ寂しかった。


けれど、同じくらい誇らしかった。


誰にも言えない名前。誰にも見せられない登録。世界のどこにも残らない妻の痕跡。


だからこそ、美緒はあの一文を消せなかった。


詳しくは言えないけど。


その先にあるものを、本当は誰かに見つけてほしかった。

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