第3話【私はもう、あっち側じゃない】
配偶者登録の通知を、何度も見返した。
朝起きて、まず見た。バイトに行く前にも見た。休憩中、ロッカーの前でこっそり見た。帰ってからも、布団の中で見た。
【登録番号:第13配偶者】
【対象者:天城 蓮】
【氏名:佐倉 美緒】
文字は、何度見ても同じだった。
当然だ。画面に出ているだけの文字なのだから、勝手に変わるはずがない。
それでも美緒は、見るたびに胸の奥が少し熱くなった。
第13配偶者。対象者、天城蓮。氏名、佐倉美緒。
そこには、愛しているとも、愛されていますとも書かれていなかった。ただ、登録された事実だけが並んでいた。
でも今の美緒には、それで十分だった。
十分すぎるくらいだった。
イベント会場の最寄り駅に着いた時、美緒はスマホの画面を閉じた。
駅の改札前から、すでに人が多かった。同じ方向へ歩いていく女性たちのバッグには、天城蓮のグッズがついている。昔のアイドル時代のロゴが入ったポーチを持っている人もいれば、最近のドラマのアクリルキーホルダーをつけている人もいた。
美緒も、その中に混ざって歩いた。
今までと同じように。
けれど、同じではなかった。
会場に近づくと、大きなポスターが見えた。新作ドラマのトークイベント。主演の天城蓮が、少し斜めにこちらを見ている。
若い頃より、顔つきは落ち着いていた。それでも、笑った時の目元だけは変わらない。
美緒は足を止めかけた。
前なら、写真を撮っていた。角度を変えて何枚も撮って、あとで一番きれいに写ったものを保存していた。たぶん、SNSにも上げていた。
今日は、スマホを出せなかった。
撮ってはいけないわけではない。周りの人たちは、普通に撮っている。
「やば、今日のビジュよすぎ」
「三十八でこれは反則でしょ」
「俳優になってからの蓮くん、ほんといいよね」
そんな声が、あちこちから聞こえた。
美緒は、ポスターの前を通り過ぎた。
通り過ぎながら、胸の中で思った。
私は、もう知っている。
あの人の名前の隣に、自分の名前が登録されていることを。
誰にも言えない。誰にも見せられない。
でも、知っている。
会場の入口には、すでに長い列ができていた。
若い女の子たちが、限定グッズのトートバッグを抱えている。三十代くらいの女性二人組は、アイドル時代のライブの話をしていた。少し離れたところには、母親と娘らしい二人組もいた。娘の方がパンフレットを持ち、母親が笑いながらそれを覗き込んでいる。
天城蓮のファンは、いろんな年齢の人がいた。
昔からのファン。ドラマから入ったファン。舞台で好きになったファン。娘に連れられて来た母親。その全部が、天城蓮の方を向いている。
美緒も、その一人だった。
少なくとも、外から見れば。
列に並ぶと、前の二人組の会話が聞こえてきた。
「奥さん十二人って、冷静に考えるとすごいよね」
「でもさ、推しと結婚できるなら、十三番目でもよくない?」
「いや、私は無理。絶対病む」
「でも選ばれたら行くでしょ」
「そりゃ行く」
二人は笑った。
美緒は、チケット画面を開くふりをして、視線を落とした。
十三番目。
その言葉が、自分の胸の真ん中にまっすぐ入ってきた。
昨日までなら、ただの噂話として聞いていた。少し胸がざわついて、それでも遠い話として飲み込めた。
でも今は違う。
十三番目は、もう数字だけではなかった。美緒自身の場所だった。
前の二人は、まだ話している。
「一般人の奥さんもいるんだよね?」
「いるらしいよ。非公表の人は顔出ないって」
「名前も変えないんでしょ? バレ防止で」
「妻なのに?」
「妻だからこそじゃない?」
美緒は、スマホの画面を見た。
チケットの名義は、佐倉美緒だった。
イベントに入るための名前。本人確認で見せる名前。職場で呼ばれる名前。荷物を受け取る時の名前。全部、佐倉美緒。
天城という文字は、どこにもなかった。
それが安全のためだということは分かっている。蓮の立場を守るためでもある。自分を守るためでもある。
分かっている。
それでも、ほんの少しだけ、不思議だった。
妻になったのに、世界には何も増えていない。
列が進み、スタッフがチケット画面を確認した。
「ありがとうございます。こちらへどうぞ」
いつもと同じだった。
特別な反応はない。当然だ。スタッフは何も知らない。
美緒は、リストバンドを受け取って会場に入った。
中は、外より少し暑かった。
客席には、もうたくさんの人が座っている。ステージの中央には椅子が並び、背後のスクリーンにはドラマのロゴが映っていた。
美緒は自分の席を探した。前から十数列目。近すぎるわけではない。でも、遠すぎるわけでもない。
席に座ると、隣の女性が小さく会釈した。美緒も会釈を返した。
その人の膝の上には、天城蓮の写真が入ったパンフレットがあった。大切そうに、角が折れないように持っている。
美緒は、胸の奥が少し痛くなった。
少し前まで、自分も同じだった。
パンフレットを大事に持って、開演前の時間を何度も時計で確かめて、ステージの袖を見つめていた。蓮が出てきたら、一秒も見逃さないようにしようと思っていた。目が合った気がしたら、それだけで一週間は生きていける、と。
そういう気持ちを、知っている。
知っているのに。
美緒は、ステージを見つめた。
私はもう、あっち側じゃない。
その言葉が、胸の中に浮かんだ。
浮かんだ瞬間、自分が少し嫌になった。
あっち側って、何だろう。
隣の女性も、前の席の二人組も、ポスターを撮っていた女の子たちも、みんな天城蓮が好きなだけだ。誰も悪くない。誰も下ではない。少し前まで、美緒もそこにいた。
それなのに、そう思ってしまった。
私は、もう違う。その他大勢ではない。
その考えを、嫌だと思った。
でも、消せなかった。
胸の奥は、確かに熱かった。
照明が少し落ちた。
客席がざわめく。しかし、すぐに誰かが息を呑む音がした。司会者がステージに出て、短く挨拶をする。
「それではお呼びしましょう。天城蓮さんです」
その瞬間、会場が揺れたように感じた。
歓声。拍手。名前を呼ぶ声。
美緒も、反射的に手を叩いた。
ステージの袖から、天城蓮が現れた。
黒のジャケットに、白いシャツ。テレビで見るより少し痩せて見えた。それでも、笑うと会場の空気が変わる。
美緒の周りで、誰かが声を漏らした。
「無理」
「かっこいい」
「ほんとにいる」
美緒は、何も言えなかった。
好きだと思った。今までと同じように。
でも、今までとは違う場所から。
天城蓮が客席に向かって手を振った。その視線が、一瞬だけこちらを通った気がした。
たぶん、気のせいだ。何百人もいる客席の中で、美緒だけを見る理由なんてない。
それでも、美緒は目を逸らせなかった。
誰も知らない。
この会場にいる誰も知らない。隣の人も、前の席の人も、ステージの上の司会者も、入口でチケットを確認したスタッフも。
誰も知らない。
私は、あの人の妻になった。
その秘密は、美緒の中で、静かに光っていた。




