表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/15

第3話【私はもう、あっち側じゃない】

配偶者登録の通知を、何度も見返した。


朝起きて、まず見た。バイトに行く前にも見た。休憩中、ロッカーの前でこっそり見た。帰ってからも、布団の中で見た。


【登録番号:第13配偶者】


【対象者:天城 蓮】


【氏名:佐倉 美緒】


文字は、何度見ても同じだった。


当然だ。画面に出ているだけの文字なのだから、勝手に変わるはずがない。


それでも美緒は、見るたびに胸の奥が少し熱くなった。


第13配偶者。対象者、天城蓮。氏名、佐倉美緒。


そこには、愛しているとも、愛されていますとも書かれていなかった。ただ、登録された事実だけが並んでいた。


でも今の美緒には、それで十分だった。


十分すぎるくらいだった。


イベント会場の最寄り駅に着いた時、美緒はスマホの画面を閉じた。


駅の改札前から、すでに人が多かった。同じ方向へ歩いていく女性たちのバッグには、天城蓮のグッズがついている。昔のアイドル時代のロゴが入ったポーチを持っている人もいれば、最近のドラマのアクリルキーホルダーをつけている人もいた。


美緒も、その中に混ざって歩いた。


今までと同じように。


けれど、同じではなかった。


会場に近づくと、大きなポスターが見えた。新作ドラマのトークイベント。主演の天城蓮が、少し斜めにこちらを見ている。


若い頃より、顔つきは落ち着いていた。それでも、笑った時の目元だけは変わらない。


美緒は足を止めかけた。


前なら、写真を撮っていた。角度を変えて何枚も撮って、あとで一番きれいに写ったものを保存していた。たぶん、SNSにも上げていた。


今日は、スマホを出せなかった。


撮ってはいけないわけではない。周りの人たちは、普通に撮っている。


「やば、今日のビジュよすぎ」


「三十八でこれは反則でしょ」


「俳優になってからの蓮くん、ほんといいよね」


そんな声が、あちこちから聞こえた。


美緒は、ポスターの前を通り過ぎた。


通り過ぎながら、胸の中で思った。


私は、もう知っている。


あの人の名前の隣に、自分の名前が登録されていることを。


誰にも言えない。誰にも見せられない。


でも、知っている。


会場の入口には、すでに長い列ができていた。


若い女の子たちが、限定グッズのトートバッグを抱えている。三十代くらいの女性二人組は、アイドル時代のライブの話をしていた。少し離れたところには、母親と娘らしい二人組もいた。娘の方がパンフレットを持ち、母親が笑いながらそれを覗き込んでいる。


天城蓮のファンは、いろんな年齢の人がいた。


昔からのファン。ドラマから入ったファン。舞台で好きになったファン。娘に連れられて来た母親。その全部が、天城蓮の方を向いている。


美緒も、その一人だった。


少なくとも、外から見れば。


列に並ぶと、前の二人組の会話が聞こえてきた。


「奥さん十二人って、冷静に考えるとすごいよね」


「でもさ、推しと結婚できるなら、十三番目でもよくない?」


「いや、私は無理。絶対病む」


「でも選ばれたら行くでしょ」


「そりゃ行く」


二人は笑った。


美緒は、チケット画面を開くふりをして、視線を落とした。


十三番目。


その言葉が、自分の胸の真ん中にまっすぐ入ってきた。


昨日までなら、ただの噂話として聞いていた。少し胸がざわついて、それでも遠い話として飲み込めた。


でも今は違う。


十三番目は、もう数字だけではなかった。美緒自身の場所だった。


前の二人は、まだ話している。


「一般人の奥さんもいるんだよね?」


「いるらしいよ。非公表の人は顔出ないって」


「名前も変えないんでしょ? バレ防止で」


「妻なのに?」


「妻だからこそじゃない?」


美緒は、スマホの画面を見た。


チケットの名義は、佐倉美緒だった。


イベントに入るための名前。本人確認で見せる名前。職場で呼ばれる名前。荷物を受け取る時の名前。全部、佐倉美緒。


天城という文字は、どこにもなかった。


それが安全のためだということは分かっている。蓮の立場を守るためでもある。自分を守るためでもある。


分かっている。


それでも、ほんの少しだけ、不思議だった。


妻になったのに、世界には何も増えていない。


列が進み、スタッフがチケット画面を確認した。


「ありがとうございます。こちらへどうぞ」


いつもと同じだった。


特別な反応はない。当然だ。スタッフは何も知らない。


美緒は、リストバンドを受け取って会場に入った。


中は、外より少し暑かった。


客席には、もうたくさんの人が座っている。ステージの中央には椅子が並び、背後のスクリーンにはドラマのロゴが映っていた。


美緒は自分の席を探した。前から十数列目。近すぎるわけではない。でも、遠すぎるわけでもない。


席に座ると、隣の女性が小さく会釈した。美緒も会釈を返した。


その人の膝の上には、天城蓮の写真が入ったパンフレットがあった。大切そうに、角が折れないように持っている。


美緒は、胸の奥が少し痛くなった。


少し前まで、自分も同じだった。


パンフレットを大事に持って、開演前の時間を何度も時計で確かめて、ステージの袖を見つめていた。蓮が出てきたら、一秒も見逃さないようにしようと思っていた。目が合った気がしたら、それだけで一週間は生きていける、と。


そういう気持ちを、知っている。


知っているのに。


美緒は、ステージを見つめた。


私はもう、あっち側じゃない。


その言葉が、胸の中に浮かんだ。


浮かんだ瞬間、自分が少し嫌になった。


あっち側って、何だろう。


隣の女性も、前の席の二人組も、ポスターを撮っていた女の子たちも、みんな天城蓮が好きなだけだ。誰も悪くない。誰も下ではない。少し前まで、美緒もそこにいた。


それなのに、そう思ってしまった。


私は、もう違う。その他大勢ではない。


その考えを、嫌だと思った。


でも、消せなかった。


胸の奥は、確かに熱かった。


照明が少し落ちた。


客席がざわめく。しかし、すぐに誰かが息を呑む音がした。司会者がステージに出て、短く挨拶をする。


「それではお呼びしましょう。天城蓮さんです」


その瞬間、会場が揺れたように感じた。


歓声。拍手。名前を呼ぶ声。


美緒も、反射的に手を叩いた。


ステージの袖から、天城蓮が現れた。


黒のジャケットに、白いシャツ。テレビで見るより少し痩せて見えた。それでも、笑うと会場の空気が変わる。


美緒の周りで、誰かが声を漏らした。


「無理」


「かっこいい」


「ほんとにいる」


美緒は、何も言えなかった。


好きだと思った。今までと同じように。


でも、今までとは違う場所から。


天城蓮が客席に向かって手を振った。その視線が、一瞬だけこちらを通った気がした。


たぶん、気のせいだ。何百人もいる客席の中で、美緒だけを見る理由なんてない。


それでも、美緒は目を逸らせなかった。


誰も知らない。


この会場にいる誰も知らない。隣の人も、前の席の人も、ステージの上の司会者も、入口でチケットを確認したスタッフも。


誰も知らない。


私は、あの人の妻になった。


その秘密は、美緒の中で、静かに光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ