第2話 【第13配偶者】
凛の表情が止まった。
「……え?」
美緒はもう一度言った。
「結婚、できた」
凛は数秒、美緒の顔を見ていた。それから少しだけ笑った。
「え、なに。誰と?」
冗談だと思っている声だった。
当然だと思った。美緒は今まで、恋人がいる話なんて凛にしたことがなかった。職場の誰かといい感じになったとか、マッチングアプリを始めたとか、そういう話もなかった。
美緒の話す男の人は、いつも一人だけだった。
画面の中の人。ステージの上の人。雑誌の表紙にいる人。ドラマの予告で、ほんの数秒だけ映るだけで胸が苦しくなる人。
美緒は、少し声を落とした。
「天城蓮さん」
凛の笑顔が、そのまま固まった。
「……待って」
凛は、メニューを閉じた。
「天城蓮って、あの天城蓮?」
美緒はうなずいた。
「うん」
「いや、え、結婚って……制度の?」
「うん」
「複数配偶登録の?」
「そう」
凛は、テーブルの上のグラスを見た。水滴が紙ナプキンに丸く染みている。
「美緒、ちょっと待って。ほんとに?」
美緒はバッグからスマホを出した。
まだ完了通知は来ていない。でも、事務所側からの案内も、登録前確認も、配偶者用アプリの仮登録画面も、全部本物だった。夢ではなかった。手続きの文字は、冷たいくらいはっきりしていた。
「第十三配偶者として、登録されることになったの」
声に出すと、胸の奥が熱くなった。
第十三配偶者。
数字で呼ばれることが、こんなに嬉しいなんて思わなかった。
凛は、すぐには何も言わなかった。
美緒は、凛が引いていることに気づいた。気づいたけれど、それでも止まれなかった。
「まだ、世間には出ないの。私は一般人だし、顔も名前も出ない。非公表配偶者って扱いで」
「非公表……」
「うん。蓮さんの立場もあるし、急に出たら大変だし。事務所が守ってくれてるんだと思う」
言いながら、美緒は自分の言葉が少し早くなっていることに気づいた。
守ってくれている。そう言えば、凛も安心してくれる気がした。
「じゃあ、外では今まで通りってこと?」
「うん。職場でも、普通に佐倉美緒のまま」
「それで、いいの?」
凛の声は責めていなかった。ただ、分からないものを確かめる声だった。
美緒は笑った。
「いいよ」
言ってから、少し間を置いた。
「だって、公表されたくて好きだったわけじゃないし」
それは半分、本当だった。
公表されたいわけじゃない。騒がれたいわけじゃない。誰かに見せびらかしたいわけじゃない。
でも、誰にも知られないままでいいのかと聞かれたら、少しだけ胸の奥が沈んだ。
その沈んだ部分を、美緒は見なかったことにした。
「推しと結婚できるなんて、夢みたい」
凛が、美緒を見る。
美緒は、テーブルの下で指を握り直した。
「ずっと、ほんとにずっと好きだったの。凛は知ってるでしょ」
「知ってるよ」
凛は小さくうなずいた。
「高校の時から、ずっと言ってた」
「うん」
美緒は笑った。
凛だけは知っている。天城蓮がアイドルだった頃から、ずっと追いかけていたこと。ライブ映像を何度も見返したこと。ドラマの役名で呼ばれるたびに少し寂しくなったこと。でも俳優として認められていくのが、誇らしかったこと。
ただのファンだった。遠くから見ているだけでよかった。そう思っていた時期も、たしかにあった。
「誰かにちゃんと愛されたかった」
その言葉は、思っていたより小さく出た。
凛の目が、少し揺れた。
美緒は慌てて笑った。
「重いよね」
「そんなことない」
凛はすぐに言った。その早さが、少しだけ痛かった。
美緒は、グラスの中の氷を見た。小さく溶けて、形が崩れている。
「なんかさ、私、ずっと普通だったじゃん」
「普通って?」
「仕事も普通だし、恋愛も全然だし、誰かに選ばれるとか、そういうのもなくて」
凛は何か言いかけたが、言わなかった。
美緒は続けた。
「でも、蓮さんの人生のどこかに、私の名前が入るんだよ」
口にした瞬間、胸が苦しくなった。
それだけでよかった。今は、そう思えた。
同じ家に住めなくても。世間に知られなくても。天城という名前を名乗れなくても。
自分の名前が、あの人の人生のどこかに登録される。
それだけで、ちゃんと生きてきた意味があるような気がした。
「それに……笑わないでよ」
美緒は、少しだけ視線を落とした。
「笑わないよ」
凛が言った。
美緒は、息を吸った。
「いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた」
凛は、今度こそ黙った。
美緒は、笑った。笑わないで、と言ったのに、自分が先に笑ってしまった。
「ファンの妄想だって分かってるけど」
「美緒」
「でも今、その夢が叶うかもしれないんだよ」
凛は、美緒の顔をじっと見ていた。
その目の中には、祝福だけではないものがあった。驚き。心配。理解できなさ。それでも、目の前の友達を傷つけたくないという迷い。
美緒には、それが分かった。
分かったけれど、それでも今は、否定されたくなかった。凛にだけは、よかったねと言ってほしかった。
世界中が分からなくてもいい。凛だけは、最初に聞いてくれた人でいてほしかった。
「美緒」
凛は、ゆっくり口を開いた。
「私、正直、すぐには分かんない」
美緒の喉が、少し詰まった。
「うん」
「相手が天城蓮で、もう奥さんが十二人いて、そこに美緒が入るって聞いて、普通にびっくりしてる」
「うん」
「でも」
凛は、少し困ったように笑った。
「美緒、本当に嬉しそう」
その言葉で、美緒の目の奥が熱くなった。
「嬉しいよ」
「うん。分かる」
凛は、完全には分かっていない顔でそう言った。
でも、それでよかった。完全に分からなくても、凛は逃げなかった。
凛はテーブルの上で、自分のグラスを少し持ち上げた。
「じゃあ……おめでとう、でいいんだよね?」
美緒は、うなずいた。
「うん」
声が震えた。
凛はグラスを軽く掲げた。
「おめでとう、美緒」
その言葉は、派手ではなかった。
花束もない。指輪もない。家族への挨拶もない。誰かが写真を撮ってくれるわけでもない。
駅前のファミレスで、少し疲れた親友が、水の入ったグラスを持ち上げてくれているだけだった。
それでも美緒には、十分だった。
「ありがとう」
美緒もグラスを持ち上げた。
氷が、小さく鳴った。
その音が、胸の奥でずっと残りそうな気がした。
凛の「おめでとう」は、思っていたより静かだった。
もっと大きな声で言われたら、たぶん美緒は笑えた。
もっと明るく言われたら、たぶん冗談みたいに受け取れた。
けれど凛は、いつもの声で言った。
だから余計に、本当のことのように聞こえた。
「ありがとう」
美緒は、もう一度そう言った。
グラスの中で、氷がゆっくり回っていた。ファミレスの白い照明が、その角に反射している。
隣の席では、高校生らしい二人組がポテトを分け合っていた。奥の席では、母親と小さな子どもがパフェを食べている。レジの方からは、電子音と店員の声が聞こえた。
世界は、何も変わっていない。
それなのに美緒だけが、さっきからずっと、別の場所に立っているみたいだった。
「これから、どうなるの?」
凛が聞いた。
責める声ではなかった。けれど、ただの好奇心でもなかった。
美緒はスマホを見た。
配偶者用アプリの画面は、さっきから何度も開いていた。仮登録の確認ページ。事務所からの案内。本人確認の完了表示。全部、何度も見た。何度も見たのに、まだ信じられなかった。
「たぶん、今日中に完了通知が来るって」
「今日中」
凛はその言葉を繰り返した。
「うん」
今日中。
その言い方が、少し事務的で、少しだけおかしかった。
結婚なのに。夢みたいなことなのに。画面の中では、全部が手続きだった。
本人確認。同意確認。登録予定者。対象者。管理事務所。非公表範囲。
冷たい言葉ばかりが並んでいるのに、美緒はその一つ一つを、何度も指でなぞりたくなった。
自分の名前が、そこにある。
それだけでよかった。
「美緒」
凛が、少しだけ身を乗り出した。
「無理はしないでね」
美緒は笑った。
「大丈夫だよ」
その言葉は、自然に出た。
本当に大丈夫だと思っていた。
怖くないわけではない。分からないことは多い。凛の顔を見れば、自分が普通ではない場所に行こうとしていることも分かる。
それでも、今は怖さより嬉しさの方が大きかった。
ずっと遠くにいた人の人生に、自分の名前が入る。その他大勢ではなくなる。ただ好きでいるだけの人ではなくなる。
そのことが、美緒の胸の奥を、静かに満たしていた。
その時、スマホが鳴った。
短い通知音だった。
いつもの音のはずなのに、店内のすべての音が一瞬遠ざかったように聞こえた。
凛も、反射的にスマホを見る。
美緒は画面を伏せたまま、すぐには動けなかった。
通知が来た。たぶん、そうだ。
来てほしいと思っていた。ずっと待っていた。
でも、実際に鳴ると、指が少し震えた。
「美緒?」
凛の声で、美緒はようやくスマホを手に取った。
画面を上に向ける。
配偶者用アプリからの通知だった。
【配偶者登録が完了しました】
文字を読んだ瞬間、息が止まった。
美緒は、通知を開いた。白い画面が表示される。そこに、淡々と文字が並んでいた。
【配偶者登録が完了しました】
【登録番号:第13配偶者】
【対象者:天城 蓮】
【氏名:佐倉 美緒】
美緒は、画面から目を離せなかった。
第13配偶者。対象者、天城蓮。氏名、佐倉美緒。
何度も読んだ。一つずつ、心の中で声にした。
登録番号。対象者。氏名。
ただの項目だった。役所の書類みたいで、事務所の管理画面みたいで、そこには愛しているとも、愛されているとも書かれていない。
それでも美緒には、その四行が祝福の言葉のように見えた。
「……ほんとに、登録されたんだ」
凛が、小さく言った。
美緒はうなずいた。
声が出なかった。
泣きそうだった。泣くほどのことなのか、自分でも分からなかった。だって画面に出ているのは、機械的な通知だけだ。
花束もない。指輪もない。天城蓮本人の声もない。おめでとう、という言葉すら、アプリにはない。
それでも、美緒は泣きそうだった。
自分の名前が、あの人のところにある。
佐倉美緒。
天城ではない。
そのことを、この時の美緒はまだ痛みとして受け取らなかった。むしろ、自分の名前がそのまま登録されたことが嬉しかった。
佐倉美緒という名前が、天城蓮の人生の中に置かれた。それだけで、今までの自分ごと拾われたような気がした。
「私」
美緒は、ようやく声を出した。
「本当に、あの人の妻になったんだ」
凛は画面を見ていた。その目が、「第13配偶者」という文字で少し止まったのが分かった。
第十三。十二人の次。
凛には、きっとその数字が気になるのだと思う。
美緒にも、見えていないわけではなかった。
でも今は、その数字すら甘かった。
一番ではない。最初でもない。ただ一人でもない。
それでも、その他大勢ではない。
美緒は画面を胸の近くに引き寄せた。
「おめでとう」
凛が、もう一度言った。さっきより少しだけ、声が小さかった。
美緒は笑った。
「ありがとう」
ファミレスの白い照明の下で、スマホの画面だけが少し青く光っていた。
その光の中に、自分の名前がある。
佐倉美緒。第13配偶者。
美緒は、画面を閉じなかった。
閉じてしまったら、夢まで消えてしまいそうだった。
だからしばらく、ただ見ていた。
本当に、妻になった。
そう思った。
そのことが、怖いくらい嬉しかった。




