表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/17

第2話 【第13配偶者】

凛の表情が止まった。


「……え?」


美緒はもう一度言った。


「結婚、できた」


凛は数秒、美緒の顔を見ていた。それから少しだけ笑った。


「え、なに。誰と?」


冗談だと思っている声だった。


当然だと思った。美緒は今まで、恋人がいる話なんて凛にしたことがなかった。職場の誰かといい感じになったとか、マッチングアプリを始めたとか、そういう話もなかった。


美緒の話す男の人は、いつも一人だけだった。


画面の中の人。ステージの上の人。雑誌の表紙にいる人。ドラマの予告で、ほんの数秒だけ映るだけで胸が苦しくなる人。


美緒は、少し声を落とした。


「天城蓮さん」


凛の笑顔が、そのまま固まった。


「……待って」


凛は、メニューを閉じた。


「天城蓮って、あの天城蓮?」


美緒はうなずいた。


「うん」


「いや、え、結婚って……制度の?」


「うん」


「複数配偶登録の?」


「そう」


凛は、テーブルの上のグラスを見た。水滴が紙ナプキンに丸く染みている。


「美緒、ちょっと待って。ほんとに?」


美緒はバッグからスマホを出した。


まだ完了通知は来ていない。でも、事務所側からの案内も、登録前確認も、配偶者用アプリの仮登録画面も、全部本物だった。夢ではなかった。手続きの文字は、冷たいくらいはっきりしていた。


「第十三配偶者として、登録されることになったの」


声に出すと、胸の奥が熱くなった。


第十三配偶者。


数字で呼ばれることが、こんなに嬉しいなんて思わなかった。


凛は、すぐには何も言わなかった。


美緒は、凛が引いていることに気づいた。気づいたけれど、それでも止まれなかった。


「まだ、世間には出ないの。私は一般人だし、顔も名前も出ない。非公表配偶者って扱いで」


「非公表……」


「うん。蓮さんの立場もあるし、急に出たら大変だし。事務所が守ってくれてるんだと思う」


言いながら、美緒は自分の言葉が少し早くなっていることに気づいた。


守ってくれている。そう言えば、凛も安心してくれる気がした。


「じゃあ、外では今まで通りってこと?」


「うん。職場でも、普通に佐倉美緒のまま」


「それで、いいの?」


凛の声は責めていなかった。ただ、分からないものを確かめる声だった。


美緒は笑った。


「いいよ」


言ってから、少し間を置いた。


「だって、公表されたくて好きだったわけじゃないし」


それは半分、本当だった。


公表されたいわけじゃない。騒がれたいわけじゃない。誰かに見せびらかしたいわけじゃない。


でも、誰にも知られないままでいいのかと聞かれたら、少しだけ胸の奥が沈んだ。


その沈んだ部分を、美緒は見なかったことにした。


「推しと結婚できるなんて、夢みたい」


凛が、美緒を見る。


美緒は、テーブルの下で指を握り直した。


「ずっと、ほんとにずっと好きだったの。凛は知ってるでしょ」


「知ってるよ」


凛は小さくうなずいた。


「高校の時から、ずっと言ってた」


「うん」


美緒は笑った。


凛だけは知っている。天城蓮がアイドルだった頃から、ずっと追いかけていたこと。ライブ映像を何度も見返したこと。ドラマの役名で呼ばれるたびに少し寂しくなったこと。でも俳優として認められていくのが、誇らしかったこと。


ただのファンだった。遠くから見ているだけでよかった。そう思っていた時期も、たしかにあった。


「誰かにちゃんと愛されたかった」


その言葉は、思っていたより小さく出た。


凛の目が、少し揺れた。


美緒は慌てて笑った。


「重いよね」


「そんなことない」


凛はすぐに言った。その早さが、少しだけ痛かった。


美緒は、グラスの中の氷を見た。小さく溶けて、形が崩れている。


「なんかさ、私、ずっと普通だったじゃん」


「普通って?」


「仕事も普通だし、恋愛も全然だし、誰かに選ばれるとか、そういうのもなくて」


凛は何か言いかけたが、言わなかった。


美緒は続けた。


「でも、蓮さんの人生のどこかに、私の名前が入るんだよ」


口にした瞬間、胸が苦しくなった。


それだけでよかった。今は、そう思えた。


同じ家に住めなくても。世間に知られなくても。天城という名前を名乗れなくても。


自分の名前が、あの人の人生のどこかに登録される。


それだけで、ちゃんと生きてきた意味があるような気がした。


「それに……笑わないでよ」


美緒は、少しだけ視線を落とした。


「笑わないよ」


凛が言った。


美緒は、息を吸った。


「いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた」


凛は、今度こそ黙った。


美緒は、笑った。笑わないで、と言ったのに、自分が先に笑ってしまった。


「ファンの妄想だって分かってるけど」


「美緒」


「でも今、その夢が叶うかもしれないんだよ」


凛は、美緒の顔をじっと見ていた。


その目の中には、祝福だけではないものがあった。驚き。心配。理解できなさ。それでも、目の前の友達を傷つけたくないという迷い。


美緒には、それが分かった。


分かったけれど、それでも今は、否定されたくなかった。凛にだけは、よかったねと言ってほしかった。


世界中が分からなくてもいい。凛だけは、最初に聞いてくれた人でいてほしかった。


「美緒」


凛は、ゆっくり口を開いた。


「私、正直、すぐには分かんない」


美緒の喉が、少し詰まった。


「うん」


「相手が天城蓮で、もう奥さんが十二人いて、そこに美緒が入るって聞いて、普通にびっくりしてる」


「うん」


「でも」


凛は、少し困ったように笑った。


「美緒、本当に嬉しそう」


その言葉で、美緒の目の奥が熱くなった。


「嬉しいよ」


「うん。分かる」


凛は、完全には分かっていない顔でそう言った。


でも、それでよかった。完全に分からなくても、凛は逃げなかった。


凛はテーブルの上で、自分のグラスを少し持ち上げた。


「じゃあ……おめでとう、でいいんだよね?」


美緒は、うなずいた。


「うん」


声が震えた。


凛はグラスを軽く掲げた。


「おめでとう、美緒」


その言葉は、派手ではなかった。


花束もない。指輪もない。家族への挨拶もない。誰かが写真を撮ってくれるわけでもない。


駅前のファミレスで、少し疲れた親友が、水の入ったグラスを持ち上げてくれているだけだった。


それでも美緒には、十分だった。


「ありがとう」


美緒もグラスを持ち上げた。


氷が、小さく鳴った。


その音が、胸の奥でずっと残りそうな気がした。


凛の「おめでとう」は、思っていたより静かだった。


もっと大きな声で言われたら、たぶん美緒は笑えた。


もっと明るく言われたら、たぶん冗談みたいに受け取れた。


けれど凛は、いつもの声で言った。


だから余計に、本当のことのように聞こえた。


「ありがとう」


美緒は、もう一度そう言った。


グラスの中で、氷がゆっくり回っていた。ファミレスの白い照明が、その角に反射している。


隣の席では、高校生らしい二人組がポテトを分け合っていた。奥の席では、母親と小さな子どもがパフェを食べている。レジの方からは、電子音と店員の声が聞こえた。


世界は、何も変わっていない。


それなのに美緒だけが、さっきからずっと、別の場所に立っているみたいだった。


「これから、どうなるの?」


凛が聞いた。


責める声ではなかった。けれど、ただの好奇心でもなかった。


美緒はスマホを見た。


配偶者用アプリの画面は、さっきから何度も開いていた。仮登録の確認ページ。事務所からの案内。本人確認の完了表示。全部、何度も見た。何度も見たのに、まだ信じられなかった。


「たぶん、今日中に完了通知が来るって」


「今日中」


凛はその言葉を繰り返した。


「うん」


今日中。


その言い方が、少し事務的で、少しだけおかしかった。


結婚なのに。夢みたいなことなのに。画面の中では、全部が手続きだった。


本人確認。同意確認。登録予定者。対象者。管理事務所。非公表範囲。


冷たい言葉ばかりが並んでいるのに、美緒はその一つ一つを、何度も指でなぞりたくなった。


自分の名前が、そこにある。


それだけでよかった。


「美緒」


凛が、少しだけ身を乗り出した。


「無理はしないでね」


美緒は笑った。


「大丈夫だよ」


その言葉は、自然に出た。


本当に大丈夫だと思っていた。


怖くないわけではない。分からないことは多い。凛の顔を見れば、自分が普通ではない場所に行こうとしていることも分かる。


それでも、今は怖さより嬉しさの方が大きかった。


ずっと遠くにいた人の人生に、自分の名前が入る。その他大勢ではなくなる。ただ好きでいるだけの人ではなくなる。


そのことが、美緒の胸の奥を、静かに満たしていた。


その時、スマホが鳴った。


短い通知音だった。


いつもの音のはずなのに、店内のすべての音が一瞬遠ざかったように聞こえた。


凛も、反射的にスマホを見る。


美緒は画面を伏せたまま、すぐには動けなかった。


通知が来た。たぶん、そうだ。


来てほしいと思っていた。ずっと待っていた。


でも、実際に鳴ると、指が少し震えた。


「美緒?」


凛の声で、美緒はようやくスマホを手に取った。


画面を上に向ける。


配偶者用アプリからの通知だった。


【配偶者登録が完了しました】


文字を読んだ瞬間、息が止まった。


美緒は、通知を開いた。白い画面が表示される。そこに、淡々と文字が並んでいた。


【配偶者登録が完了しました】


【登録番号:第13配偶者】


【対象者:天城 蓮】


【氏名:佐倉 美緒】


美緒は、画面から目を離せなかった。


第13配偶者。対象者、天城蓮。氏名、佐倉美緒。


何度も読んだ。一つずつ、心の中で声にした。


登録番号。対象者。氏名。


ただの項目だった。役所の書類みたいで、事務所の管理画面みたいで、そこには愛しているとも、愛されているとも書かれていない。


それでも美緒には、その四行が祝福の言葉のように見えた。


「……ほんとに、登録されたんだ」


凛が、小さく言った。


美緒はうなずいた。


声が出なかった。


泣きそうだった。泣くほどのことなのか、自分でも分からなかった。だって画面に出ているのは、機械的な通知だけだ。


花束もない。指輪もない。天城蓮本人の声もない。おめでとう、という言葉すら、アプリにはない。


それでも、美緒は泣きそうだった。


自分の名前が、あの人のところにある。


佐倉美緒。


天城ではない。


そのことを、この時の美緒はまだ痛みとして受け取らなかった。むしろ、自分の名前がそのまま登録されたことが嬉しかった。


佐倉美緒という名前が、天城蓮の人生の中に置かれた。それだけで、今までの自分ごと拾われたような気がした。


「私」


美緒は、ようやく声を出した。


「本当に、あの人の妻になったんだ」


凛は画面を見ていた。その目が、「第13配偶者」という文字で少し止まったのが分かった。


第十三。十二人の次。


凛には、きっとその数字が気になるのだと思う。


美緒にも、見えていないわけではなかった。


でも今は、その数字すら甘かった。


一番ではない。最初でもない。ただ一人でもない。


それでも、その他大勢ではない。


美緒は画面を胸の近くに引き寄せた。


「おめでとう」


凛が、もう一度言った。さっきより少しだけ、声が小さかった。


美緒は笑った。


「ありがとう」


ファミレスの白い照明の下で、スマホの画面だけが少し青く光っていた。


その光の中に、自分の名前がある。


佐倉美緒。第13配偶者。


美緒は、画面を閉じなかった。


閉じてしまったら、夢まで消えてしまいそうだった。


だからしばらく、ただ見ていた。


本当に、妻になった。


そう思った。


そのことが、怖いくらい嬉しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ