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第1話 【夢あるんだか、ないんだか】

推しの妻になれた。


それは、佐倉美緒にとって人生で一番幸せな出来事だった。

相手は、国民的俳優・天城蓮。

複数配偶登録制度が認められた近未来の日本で、美緒は彼の“第13妻”になる。


けれど、夢の中身は思っていたものと違っていた。


妻なのに、名乗れない。

妻なのに、公表されない。

妻なのに、呼ばれる夜を待つしかない。

そして夫には、自分以外にも妻がいる。


これは、「推しの妻になりたい」と願った女性が、

本当にその夢を叶えてしまった後の物語です。

グラスの縁に残った水滴を、佐倉美緒は布巾で拭き取っていた。


十八時半を過ぎたあたりから、店内の空気は少しずつ変わっていた。仕事帰りのスーツ姿の客が二組、奥の座敷に入っている。カウンターには常連の男が一人でビールを飲んでいた。


壁のテレビでは、ニュース番組が流れていた。


「複数配偶登録制度の施行から十二年が経過し、政府は今年度、登録世帯への育児支援や住宅補助の拡充を検討しています」


アナウンサーの声が、店のざわめきに少し混ざって届いた。


「またその話か」


カウンターの客が、箸を持ったままテレビを見上げた。


「少子化対策ってやつだろ。複数婚だっけ」


「登録婚な。正式名称はもっと長かった気がする」


「名前が長い制度って、だいたいろくでもないよな」


隣の男が笑った。


美緒は、黙ってグラスを棚に戻した。


テレビの話題は、制度を利用する著名人世帯が「新しい家族形成の先進事例」として紹介されている、という内容に移っていた。画面の下を、見慣れた言葉が流れていく。


登録世帯。育児支援。住宅補助。制度利用の偏り。


ニュースの中では、どれも硬い言葉だった。


けれど客たちの口に入ると、途端に軽くなる。


「男女平等って言ってたけどさ、結局モテる男に女が集まってるだけじゃん」


「まあ、少子化対策としてはそっちの方が効率いいんだろ」


「効率って言い方、最悪だな」


笑い声が起きた。


美緒は、次のグラスを手に取った。指先が少しだけ熱い。


「でも政府は褒めてるじゃん。次世代家族モデルとか言って」


「あれだろ、天城蓮とか」


「天城蓮なんて、もう十二人いるんだろ?」


「十二人って、家族じゃなくて部署だろ」


天城蓮。


その名前だけ、店の音の中で少し大きく聞こえた。


美緒は、グラスを拭く手を止めなかった。


止めなかったつもりだった。


けれど布巾は、同じ場所を何度もなぞっていた。


「元アイドルって強いよな。四十手前でもまだ女ファンすごいし」


「今は俳優だろ。ドラマも映画も出てるし」


「でも結局、推しと結婚できるかもって思わせる商売なんじゃないの」


「言い方」


また笑いが起きる。


美緒は、笑わなかった。


笑えなかったわけではない。むしろ、口元は少し緩みそうになった。


誰も知らない。


この店の中にいる誰も、知らない。


テレビで語られているその制度が、客たちに笑われているその制度が、自分の人生にもう触れていることを。


もうすぐ、自分もその十二人の次に入る。


「天城蓮のとこ、子どももいるんだろ?」


「第何妻かの子だっけ」


「第一妻にはいないって聞いたけどな」


「そういうの外から言うことじゃないだろ」


「でもネットじゃ普通に言われてるじゃん」


第一妻。子ども。十二人。


その言葉が、グラスの内側に反射するみたいに美緒の中に残った。


十二人の次、という事実が、胸の奥をきゅっと縮める。


怖いのとは違う。


たぶん、嬉しいのに似ていた。


「奥さんでも普通に働いてる人いるらしいよ」


「マジで? 夢ないな」


「全員が養われてるわけじゃないんだろ。呼ばれる時だけ呼ばれるとか」


「夢あるんだか、ないんだか分かんねえな」


美緒は少しだけ目を伏せた。


夢。


その言葉だけは、笑い声に混ざってほしくなかった。


「美緒ちゃん」


背後から声をかけられて、振り返った。


宮原悠斗が、空になったジョッキを片手に立っていた。いつものように、少し近い。


「手、止まってる」


「止まってません」


宮原はテレビをちらっと見て、それから美緒を見た。


「また天城蓮?」


「またって何ですか」


「好きだねえ」


悪びれずに笑う。


「いや、分かるよ。顔いいもんね。俺じゃ勝てないわ」


「勝負してたんですか」


「してないけど、負けた気分にはなる」


美緒はグラスを棚に戻した。


「はいはい、仕事してください」


「冷た」


「宮原くん、そういうの他の子にも言ってますよね」


「言ってないって」


「距離近いです」


そう言うと、宮原は笑いながら一歩だけ下がった。


この人は何も知らない。


天城蓮のことも。


十二人の次に、自分の名前が入ることも。


その名前を、今夜どうしても誰かに聞いてほしいと思っていることも。


美緒は布巾を畳み直した。


テレビの音は、もう別のニュースに変わっていた。


それでも耳の奥には、さっきの言葉だけが残っていた。


夢あるんだか、ないんだか分かんねえな。


美緒は、小さく息を吸った。


夢はある。


少なくとも今の美緒には、そう思えた。


ファミレスの照明は、夜にしては少し白すぎた。


窓の外では、駅前のバスロータリーを人が流れていく。会社帰りの人たちが、スマホを見ながら信号を待っていた。


その中から、高瀬凛が小さく手を上げて入ってきた。


「ごめん、待った?」


凛はコートを脱ぎながら、美緒の向かいに座った。薄いベージュのブラウス、会社用の黒いパンツ。髪は少し崩れていて、目元には疲れが残っていた。


「ううん。私も今来たところ」


本当は、二十分前からいた。


水の入ったグラスは、もう半分ほど減っている。ストローの袋は、何度も折って開いてを繰り返したせいで、端が少し裂けていた。


凛はメニューを開きかけて、美緒の顔を見た。


「で、なに。急に会いたいって言うから、何かあったのかと思った」


美緒は、膝の上で手を握った。


何から言えばいいか、来る途中で何度も考えていた。ちゃんと順番に話そうと思っていた。制度のこと。天城蓮のこと。まだ非公表であること。誰にも言えないこと。


でも、凛の顔を見た瞬間、用意していた言葉はほとんど意味をなくした。


美緒は、笑った。


「やっと結婚できたよ」

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