第54話【見ない方がいい、ではない】
配偶者用アプリの通知は、他の通知と違っていた。
古妻ノートの見出しは、勝手だった。妻向け掲示板の投稿は、ざらざらしていた。知らないアカウントからのメンションは、汚れた指で触られるようだった。
でも、配偶者用アプリの通知は違う。
整っている。正しい。感情がない。その分、冷たかった。
【重要:外部流出事案に関する対応】
【対象者および登録配偶者への影響を最小化するため、当面の間、関連する発信・共有・グループ内投稿を控えてください】
【必要に応じて、管理担当より個別に連絡します】
美緒は、その文面を何度も読んだ。
対象者。登録配偶者。影響を最小化。関連する発信・共有・グループ内投稿を控えてください。
どこにも、美緒の名前はない。でも、美緒のことだった。
自分が中心にいる。そう分かるのに、文面の中では自分は「事案」の一部になっている。
美緒は、スマホを握ったまま動けなかった。
庇えない。
さっきから胸の奥に残っている言葉。
璃子は庇ってくれる。そう思いたかった。
あなたは悪くないわ。あなたは大事にされているのよ。一人で決めないで。
あのラウンジで、璃子はそう言ってくれた。
だから、美緒は璃子のチャットを開こうとした。
その前に、配偶者用アプリから別の通知が来た。
【緊急対応面談のご案内】
【本日 10:30】
【オンライン】
【参加者:朝比奈紬、藤堂香澄、鷹宮怜奈、久我璃子、必要に応じて関係者】
美緒は、息を止めた。
璃子の名前があった。
璃子さんがいれば、大丈夫かもしれない。そう思いたかった。
時間まで、美緒は何もできなかった。
下位妻グループも開けなかった。乃亜の個別チャットも開けなかった。古妻ノートも、もう見たくなかった。
でも、見なくても通知は来る。スマホが震えるたびに、身体が固くなる。
美緒はベッドの上で膝を抱えたまま、時間が来るのを待った。
10時30分。
配偶者用アプリの画面が切り替わる。オンライン面談の待機画面。
自分の名前が表示されている。
佐倉美緒。第13配偶者。
その下に、小さく「参加待機中」と出ていた。
美緒は、自分の顔が画面に映っているのを見た。
顔は洗った。髪も最低限整えた。でも、目元の疲れは隠せなかった。
画面がつながる。
最初に映ったのは、朝比奈紬だった。
第3妻。事務所側に近い人。説明会で、冷たいほど正しく資料を読んでいた人。
紬の背景は白い壁だった。表情は変わらない。
「佐倉さん」
名前を呼ばれた。
「はい」
美緒の声は小さかった。
「現在、外部で確認されている投稿について、事実関係の確認を進めています」
紬は、ゆっくり話した。聞き取りやすい。無駄がない。感情の入り込む隙間がない。
「当面の間、下位配偶者グループおよび共有チャットへの投稿は控えてください」
美緒は、すぐに理解できなかった。
「これは処分ではありません」
その一文で、美緒の胸が冷えた。
処分ではありません。そう言われると、処分のように聞こえた。
「あなたを守るためでもあります」
紬は続けた。
守るため。美緒は、その言葉を画面の中で見つめた。
守るために、黙る。それは、正しいのかもしれない。今、何かを書けば燃える。誰かにスクショを取られる。また断片として使われる。
香澄が言っていた。スクショは残ります。ここでは、言葉にしたものから外に出ます。
だから、黙るのが正しい。
分かる。分かるのに、美緒には、口を塞がれたように感じた。
画面の右側に、藤堂香澄の顔が表示された。
第6妻。いつものように淡々としていた。
「佐倉さん」
「はい」
「流出元がどこであれ、過去の外部発信や匂わせ投稿は材料にされます」
美緒は、唇を噛んだ。
匂わせ投稿。あの夜。
詳しくは言えないけど、人生って何があるかわからない。好きでいるって、報われることもあるんだね。
あの時の自分は、ただ嬉しかった。妻になったのに、どこにも天城姓はなかった。世界のどこにも、妻としての痕跡がなかった。だから、少しだけ残したかった。
でも今、その投稿が材料になる。
「誰かが悪意を持ってつなげれば、断片だけでも輪郭になります」
香澄の声は冷静だった。「今、感情的に反応すると、さらに燃えます」
正しい。本当に、正しい。
「私は、流してません」
やっと、それだけ言った。声が震えた。
「画像も、情報も、私じゃありません」
言いながら、涙が出そうになった。
自分が弁解している。悪いことをしていないのに、悪いことをしていないと証明しようとしている。それが悔しかった。
香澄は、少しだけうなずいた。
「その点も含めて確認中です」
確認中。
美緒は、その言葉を聞いた。
信じます、ではない。分かっています、でもない。確認中。
自分の言葉も、確認されるものになる。
胸の奥が沈んだ。
画面に、もう一人の顔が表示された。
鷹宮怜奈。第2妻。
美緒は、怜奈と直接話す機会はほとんどなかった。上位妻の中でも、子どもがいる人。そのことだけで、美緒には少し遠かった。
怜奈の表情は、硬かった。怒っているようには見えない。でも、やわらかくもなかった。
「佐倉さん」
怜奈は言った。
「あなたを責めたいわけじゃないの」
その言葉を聞いた瞬間、美緒は逆に身構えた。
責めたいわけじゃない。その後には、たいてい痛い言葉が来る。
「でも、子どもたちの学校にも影響が出るかもしれない」
美緒は、息を止めた。
子どもたち。
前に下位妻たちが笑いながら話していた現実。子どもがいる妻は強い。子どもがいれば切れにくい。
その「強さ」が、今は美緒を遠ざける理由になっている。
「ごめんなさい」
怜奈は言った。
「今は距離を置かせて」
美緒は、画面を見つめた。
距離を置く。それは当然だった。
怜奈は母親だ。子どもを守らなければいけない。
怜奈は悪くない。悪くない。
でも、美緒は切り離されている。
子どもを守るために。家を守るために。
「はい」
それしか言えなかった。
最後に、璃子の画面が大きくなった。
久我璃子。
美緒は、思わず息を止めた。
璃子は、いつもと同じように穏やかだった。白いブラウス。整った髪。落ち着いた目。ラウンジで見た時と同じだった。
璃子は少しだけ間を置いてから言った。
「美緒さん」
その声だけで、目の奥が熱くなる。
「怖かったわね」
美緒は、崩れそうになった。
怖かった。その一言だけで、今まで張っていたものが少し緩む。
紬は正しかった。香澄も正しかった。怜奈も正しかった。
でも、美緒が欲しかったのは、まずその言葉だった。
怖かったわね。
美緒は、小さくうなずいた。
「私、何も……」
声が詰まる。
「何も流してません」
璃子は、静かにうなずいた。
「分かっているわ」
その言葉に、美緒は救われそうになった。
璃子だけが、そう言ってくれた。
「でも」
璃子は続けた。
その「でも」で、美緒の胸がまた固まる。
「今は、あなた自身を守るために、少し距離を置きましょう」
距離。また、その言葉だった。
「下位配偶者グループも、妻向け共有チャットも、しばらくは見ない方がいいわ」
璃子はやさしく言った。「見るほど、傷つくから」
それは、優しかった。たぶん、本当に美緒のことを考えてくれている。
でも、美緒には分かった。
見ない方がいい、ではない。見られないようにする、なのだ。




