第53話【下の方同士】
下位妻グループを開くのが怖かった。
それでも、美緒は開いた。
通知は、まだ増えている。
古妻ノート。妻向け掲示板。知らないアカウント。まとめサイト。配偶者用アプリ。その中に、下位妻グループの通知も混ざっていた。
第9妻から第13妻まで。
桐谷麻衣。小野寺千紗。白石琴葉。三枝乃亜。佐倉美緒。
その名前の並びを見ただけで、胸の奥が苦しくなる。
最初にこのグループへ入った時、美緒は少し救われた。
下の方同士、気楽にやろ。
乃亜がそう言ってくれた。
麻衣が明るく笑って、千紗が少し刺して、琴葉がやわらかく止めて、乃亜が近くにいてくれた。
妻になったのに、外では佐倉美緒のまま。天城姓を名乗れない。職場でも、給与明細でも、配送名義でも、何も変わらない。
その痛みを、ここでは笑いにできた。自分だけじゃない。そう思えた。
でも今、その画面を開く指が震えている。
美緒は、ゆっくりトークを開いた。
一番上に、麻衣のメッセージがあった。
桐谷麻衣:
「とりあえず、落ち着こ」
桐谷麻衣:
「こういうの、反応したら負けだから」
麻衣らしい言葉だった。軽くする。大丈夫なことにしようとする。
いつもの麻衣なら、それで少し救われたかもしれない。でも今は、軽すぎた。
反応したら負け。
それは正しいのかもしれない。でも、反応しなくても、自分の名前に近いものが広がっている。自分に似た画像が回っている。第13妻という番号が、知らない人たちに見られている。
反応しない間に、もっと遠くまで流れていくだけなのかもしれない。
千紗のメッセージが続いていた。
小野寺千紗:
「でも、ここまで出たら反応しないわけにもいかないでしょ」
少し間を置いて、もう一通。
小野寺千紗:
「……ごめん、今言うことじゃないね」
美緒は、その文を見つめた。
千紗は何かを言いたかったのだと思う。だから言ったじゃん。匂わせは危ないって。でも、言わなかった。言わなかったことが、逆に刺さった。
琴葉からのメッセージもあった。
白石琴葉:
「美緒ちゃん、大丈夫?」
白石琴葉:
「本当に、無理しないで」
美緒は、その文字を見て、少しだけ目を伏せた。
琴葉は優しい。たぶん、本当に心配してくれている。
でも、その優しさすら今は届かない。
琴葉も、下位妻グループの一人だ。そう思ってしまう自分がいた。琴葉が何かをしたとは思っていない。でも、この画面の中にいる。この画面の中にいるというだけで、もう完全には安全に見えない。
美緒は、さらに下を見た。
乃亜の名前があった。
三枝乃亜:
「大丈夫?」
それだけだった。
美緒は、息を止めた。
大丈夫?
それは、乃亜が前にも送ってくれた言葉だった。
でも、今のその一文は、前より遠く見えた。
短い。近くない。
最初の頃の乃亜なら、もっと近かった。大丈夫?の後に、何かが続いた気がする。
今は、大丈夫?だけ。
それが優しさなのか。距離なのか。様子見なのか。分からなかった。
美緒は、乃亜の名前の横にある既読表示を見た。
グループ全体に既読がついている。乃亜は見ている。でも、それ以上は何も言わない。
「私は知らない」とも言わない。「違うよ」とも言わない。
ただ、大丈夫?と聞いている。
美緒は、スマホを握る手に力を入れた。
乃亜を疑いたくなかった。
疑うくらいなら、知らない誰かのせいにしたかった。匿名の誰か。古妻ノートの誰か。店内で偶然会話を聞いていた誰か。画像を加工した誰か。
そういう、顔のない人のせいにしたかった。乃亜の顔を浮かべたくなかった。
でも、昨日のカフェの声が戻ってくる。
分かるって言わないでよ。もう、そっちにいるくせに。仲間だと思ってたの、私だけだったんだね。
その言葉に似た投稿が、匿名SNSに出ていた。そして今朝、流出が起きた。
関係ないかもしれない。たぶん、関係ない。そう思いたかった。
美緒は、グループチャットに何か打とうとした。
「みんな、心配かけてごめんなさい」
打って、止まる。
違う。謝ることなのだろうか。自分は流していない。画像も、情報も、名前も、何も流していない。自分は被害者のはずだ。
でも、謝りたくなる。
下位妻グループに迷惑をかけたから。天城蓮に迷惑をかけたから。璃子に迷惑をかけたから。妻コミュニティ全体を燃やしたから。
消した。
「私は何も流してません」
また止まる。
言えば、疑われていることを前提にしてしまう。誰もまだ、美緒が流したとは言っていない。少なくとも、下位妻グループでは。
でも、そう言わなければいけない気がする時点で、もうここは安全ではなかった。
消した。グループチャットには何も送れなかった。
画面の向こうでは、麻衣がまた何かを送っている。
桐谷麻衣:
「美緒ちゃん、今は見ない方がいいかも」
桐谷麻衣:
「ほんと、こういうの見ると削られるから」
千紗:
「見ないで済むならね」
白石琴葉:
「美緒ちゃん、返信しなくて大丈夫だよ」
三枝乃亜:
既読。
乃亜は、もう何も言わなかった。
美緒は、乃亜との個別チャットを開いた。
最後の会話が残っている。
三枝乃亜:
「今日、何してた?」
三枝乃亜:
「大丈夫?」
その後、美緒は返信できなかった。昨日の夜、蓮と会ったことを言えなかった。璃子が整えてくれた面会のことを言えなかった。お前といると楽だ、と言われたことを言えなかった。
そのあと、カフェで会って、壊れた。
美緒は、入力欄を見つめた。
「これ、乃亜ちゃんじゃないよね」
打った瞬間、指が止まる。
送れない。こんなもの、送れるわけがない。
消した。
「信じていいよね」
その文字を見た時、目の奥が熱くなった。
信じていいよね。本当は、それを聞きたかった。
乃亜ちゃんじゃないよね。何もしてないよね。私のこと、まだ仲間だと思ってくれてるよね。
でも、それも送れなかった。
信じたいなら、そんなことは聞かない。聞いた時点で、もう信じきれていないことになる。
消した。入力欄が白くなる。
画面の中の乃亜は、何も言わない。美緒も、何も送れない。
沈黙だけが、二人の間に残っている。
美緒は、個別チャットを閉じた。
また古妻ノートを開いてしまう。
見ない方がいい。分かっている。でも、見てしまう。
新しい投稿が増えていた。
「第13、下位グループでも浮いてたらしい」
「分かるって言われた側、きつかっただろうな」
「第一さん側に拾われたら、もう戻れないのに」
美緒は、画面を見つめた。
昨日の会話に近い。近すぎる。
美緒が言ったこと。乃亜が言ったこと。二人の間にあった温度。
それが、匿名の言葉になっている。
でも、完全に同じではない。少しずれている。少し盛られている。少し面白がられている。
だからこそ、余計に怖かった。
本当に乃亜が書いたなら、もっとそのままになるのではないか。誰か別の人が聞いて、勝手に書いたのかもしれない。それとも、乃亜が誰かに話して、それが変わったのかもしれない。あるいは、全部偶然で、誰かがそれらしく書いただけかもしれない。
分からない。
分からないまま、美緒の頭は勝手に乃亜の顔を探してしまう。
乃亜を疑いたくなかった。
最初に、下の方同士、と笑ってくれた人。嫉妬で動けなかった夜、大丈夫?とだけ聞いて、深追いしないでいてくれた人。匿名の悪意に削られた時、美緒ちゃんは悪くないよ、と言ってくれた人。
その人を疑うくらいなら、自分が悪いと思う方がまだ楽かもしれなかった。
でも、自分が悪いと思っても、疑いは消えない。
美緒は、下位妻グループをもう一度開いた。
麻衣の明るさは、空回りしている。千紗は何かを言いたげにしている。琴葉は優しい。乃亜は、既読だけを増やしている。
かつての居場所が、画面の中で遠くなる。
同じ下にいるはずだった人たちが、今は全員、少しずつ別の場所にいるように見えた。
美緒は、グループの入力欄に指を置いた。
何も打てなかった。
言えば、燃えるかもしれない。言わなければ、疑われるかもしれない。助けを求めれば、迷惑になるかもしれない。黙っていれば、認めたように見えるかもしれない。
どれを選んでも、間違いになる。
スマホがまた震えた。
配偶者用アプリからだった。
【重要:外部流出事案に関する対応】
その文字を見た瞬間、美緒は下位妻グループの画面を閉じた。
公式の通知が来ている。もう、下位妻たちだけで笑って流せることではない。
下の方同士。
その言葉は、確かに美緒を救ってくれた。
でも今は、どこにもない。
下位妻グループの画面には、既読だけが増えていた。




