第52話【流出の朝】
スマホの振動で、目が覚めた。
最初は、アラームだと思った。
美緒は布団の中で手を伸ばし、枕元のスマホを探した。指先に触れた本体は、まだ震えている。
一度ではない。短く止まって、また震える。少し間を置いて、また震える。
通知が続いている。
美緒は、寝ぼけた目で画面を見た。
その瞬間、眠気が消えた。
通知欄が埋まっていた。
下位妻グループ。配偶者用アプリ。古妻ノート。妻向け掲示板。知らないアカウントからのメンション。まとめサイトらしい通知。検索アラート。
数が多すぎた。
何が起きているのか、最初は分からなかった。
ただ、いくつかの文字だけが、朝の薄い光の中で浮き上がって見えた。
天城蓮。第13妻。流出。非公表妻。私的画像。居酒屋勤務。
美緒は、息を止めた。
画面の文字を、もう一度見る。
「天城蓮、第13妻流出か」
「非公表妻の私的画像?」
「複数婚スター、また炎上」
「下位妻の匂わせが原因?」
「居酒屋勤務の一般人配偶者って本当?」
「第13妻、第一さんに拾われてた子?」
「天城蓮の非公表妻、特定進む」
美緒は、スマホを持つ手に力を入れた。
名前はない。佐倉美緒とは書かれていない。
でも、分かる。分かってしまう。
第13妻。非公表妻。居酒屋勤務。下位妻。第一さんに拾われた子。匂わせ。
その断片は、何度も見てきた。あの匿名の悪意が始まってからずっと、自分の周りに貼りついていた言葉だった。
でも、今朝のそれは違った。
昨日までの匿名の嫌味ではない。噂でもない。
流出。
その言葉だけで、身体の奥が冷えた。
美緒は、通知の一つを開こうとして、指を止めた。
見たくない。でも、見なければ何が起きているのか分からない。
あの時と同じだった。見ない方がいい。それは分かっている。でも、見ないでいる方が怖い。
美緒は、古妻ノートの通知を開いた。
トップに、いくつもの投稿が並んでいた。
「第13、やっぱり出たね」
「非公表妻って言っても、こういうの出るんだ」
「居酒屋の子、これ本人?」
「第一さんが拾ったって噂の下位妻でしょ?」
「前から匂わせてたし、まあ燃えるよね」
美緒は、画面をスクロールできなかった。
サムネイルが見えた。小さく、粗い画像。顔ははっきりしない。ぼやけている。切り取られている。加工されているようにも見える。
でも、服の色に見覚えがあった。
ホテルの個室の照明に似ていた。
あの夜。璃子が整えてくれた、蓮との面会。柔らかい照明。低いテーブル。ジャケットを脱いだ天城蓮。
その記憶が、一瞬で戻ってくる。
違う。そう思った。
あれは、こんなふうに見られるものではない。あの夜は、美緒だけのものだった。
蓮が疲れた顔を見せてくれた夜。お前といると楽だ、と言ってくれた夜。
それなのに。
美緒は、画像を開けなかった。サムネイルだけで、指が冷たくなる。
完全な嘘だと言い切りたかった。こんなの違う。加工だ。自分ではない。あの夜ではない。
そう思いたい。
でも、完全な嘘とも言い切れない断片がある。
服。照明。髪の長さ。部屋の色。蓮に似た影。自分に似た輪郭。
全部が曖昧だった。曖昧だから、否定できない。
美緒は、スマホを膝の上に置いた。
呼吸が浅い。
部屋の中は、いつも通りだった。
ベッド。小さなテーブル。飲みかけの水。畳みきれていない服。洗濯かごに入った居酒屋の制服。
何も変わっていない。
でも、スマホの中では、世界が変わっていた。
通知がまた来る。下位妻グループ。
美緒は、反射的に画面を見た。
麻衣:
「ちょっと、みんな見た?」
千紗:
「これ、まずくない?」
琴葉:
「美緒ちゃん、大丈夫?」
乃亜:
既読。
乃亜の名前が、そこにあった。ただ、既読だけ。言葉はない。
美緒は、胸の奥がまた冷えるのを感じた。
乃亜。昨日、カフェで別れた人。
分かるって言わないでよ。もう、そっちにいるくせに。仲間だと思ってたの、私だけだったんだね。
その言葉が、昨日の夜には匿名SNSに流れていた。
そして今、流出。
関係ないかもしれない。乃亜が何かした証拠はない。
昨日の投稿だって、乃亜が書いたとは限らない。店内の誰かが聞いていたのかもしれない。別の妻が、別の経路で知ったのかもしれない。匿名の誰かが、それらしく書いただけかもしれない。
分からない。
分からないのに、乃亜の名前を見るだけで、疑いが浮かぶ。
美緒は、そんな自分が嫌だった。でも、止められなかった。
通知がさらに増える。妻向け掲示板。
「第13の件、管理側動く?」
「非公表妻なのに画像出るの怖すぎ」
「匂わせしてたら狙われるよね」
「第一さん側に行った子って、だいたい燃える」
「下位妻、また荒れそう」
また。また、だ。
美緒は、画面を閉じた。閉じても、文字は頭の中に残る。
第13妻流出。非公表妻の私的画像。下位妻の匂わせが原因。特定進む。居酒屋勤務。
スマホが震えるたびに、身体が小さく跳ねた。
配偶者用アプリの通知が来ていた。
【重要:外部投稿に関する確認】
【現在、関連する外部投稿について確認中です】
【対象者および登録配偶者への影響を最小化するため、当面の間、関連する発信・共有を控えてください】
美緒は、その文面を見た。
対象者。登録配偶者。影響を最小化。発信を控えてください。
そこには、美緒の名前はなかった。でも、自分が中心にいることだけは分かった。
守られるのだろうか。そう思った。
璃子なら、連絡をくれるだろうか。
一人で抱えなくていいから。あなたは悪くないわ。あなたは大事にされているのよ。
その言葉を思い出す。あのラウンジ。白いカップ。璃子の静かな声。
美緒は、璃子とのチャットを開こうとした。
その前に、別の通知が来た。古妻ノート。
「第一さん、さすがにこれは庇えないでしょ」
美緒は、指が止まった。
庇えない。その言葉が胸に刺さる。
璃子は庇ってくれる。そう思いたかった。
でも、画面の中ではもう、璃子の名前まで勝手に使われている。
第一さんが拾った子。第一さん側に行った子。第一さん、庇えないでしょ。
美緒のことだけではない。璃子のことも、蓮のことも、妻コミュニティ全体のことも、勝手に並べられている。
自分が、何か大きなものを汚したような気がした。
違う。私は流したわけじゃない。
美緒は、心の中で言った。私は、流していない。画像も。情報も。蓮とのことも。
誰かが勝手に出した。自分は被害者だ。
そう思う。
でも、すぐに別の声が来る。
匂わせたから。下位妻グループで話したから。乃亜を傷つけたから。第一妻側に行ったから。
だから、こうなったのかもしれない。
美緒は、スマホを握りしめた。
被害者なのに、自分が悪い気もする。その感覚が、一番苦しかった。
また通知。今度は、知らないアカウントからだった。
「佐倉って名前出てるけどマジ?」
美緒は、息を止めた。
佐倉。
ついに、名前が出ていた。フルネームではない。まだ断片だった。
でも、佐倉。
職場でも、給与明細でも、配送名義でも、ずっと使い続けてきた名前。妻になっても、天城にはならなかった名前。
その名前が、こういう形で外へ出ていく。
美緒は、スマホを伏せた。
画面が暗くなる。でも、通知音は止まらなかった。
伏せたスマホが、布団の上でまた震える。
見なくても、震えていることは分かる。自分の名前が、画面の向こうで少しずつ広がっている。
第13妻として。非公表妻として。居酒屋勤務の一般人配偶者として。匂わせた下位妻として。
美緒は、布団の上で膝を抱えた。
朝なのに、部屋の中は暗く感じた。
カーテンの隙間から光は入っている。外では車の音がする。誰かが普通に出勤している。世界は普通に始まっている。
でも、美緒の世界だけが、寝ている間に壊れていた。
スマホがまた震えた。
美緒は、ゆっくり顔を上げた。
見たくない。でも、見なければならない。見なければ、自分がどこまで壊されたのか分からない。
美緒は、もう一度スマホを手に取った。
画面をつける。
通知欄の一番上に、新しい見出しが出ていた。
「天城蓮の第13妻、非公表情報流出か。事務所対応へ」
美緒は、その文字を見つめた。
もう、匿名の噂ではなかった。
自分の知らないところで、自分は"事案"になっていた。




