第51話【仲間だと思ってたの、私だけだったんだね】
「私は?」
乃亜の声は大きくなかった。
でも、それまでのどの言葉よりも重かった。
美緒は、乃亜を見た。
第12妻。
少しだけ先に妻になった人。
下位妻グループで最初に近くに来てくれた人。
美緒ちゃんは悪くないよ、と言ってくれた人。
乃亜は、誰に見てもらっているのだろう。
誰に守られているのだろう。
第一妻に個別で呼ばれたわけではない。
天城蓮から「無理してない?」と聞かれたわけでもない。
疲れた顔を見せてもらったわけでもない。
乃亜は、美緒の隣にいた。
でも、美緒が苦しくなった時、最終的に美緒を救ったのは乃亜ではなかった。
蓮だった。
璃子だった。
美緒は、その事実を初めて真正面から見た。
「乃亜ちゃんも、大事だよ」
やっと出た言葉は、薄かった。
言った瞬間、自分でも分かった。
軽い。
あまりにも軽い。
乃亜は小さく笑った。
「そういうの、もういい」
「でも、本当に」
「本当でも、もういい」
乃亜は、紙ストローの袋を指で回した。
「美緒ちゃんは、つらかったら蓮さんが見てくれる」
美緒は、何も言えない。
「第一さんが守ってくれる」
乃亜の声が少し震える。
「上の人たちが、どうしたらいいか教えてくれる」
その一つ一つが、美緒には否定できなかった。
「私は?」
乃亜は、もう一度言った。
今度は少しだけ、笑うように。
でも、笑えていなかった。
「私は、美緒ちゃんがつらい時、隣にいたつもりだった」
美緒は、息を吸った。
「いたよ」
それは本当だった。
「乃亜ちゃんは、いてくれた」
「でも、美緒ちゃんはもう、私の隣にはいないじゃん」
その言葉で、美緒は何も返せなくなった。
乃亜は、ゆっくりスマホを手に取った。伏せていた画面を上に向ける。
けれど、何かを見るわけではなかった。
ただ、もう席を立つ準備をしているように見えた。
美緒は焦った。
「待って」
乃亜は、顔を上げない。
「待って。私、ちゃんと話したい」
「もう話したよ」
「まだ」
「まだ何を話すの?」
乃亜の声は、少しだけ低くなった。
「昨日、蓮さんと何を話したか?」
美緒の身体が固まる。
乃亜は、美緒の顔を見て、すぐに分かったように目を伏せた。
「ほら」
その一言が痛かった。
美緒は否定したかった。
言えないのには理由がある。
乃亜を傷つけたくなかった。
蓮の弱音を、勝手に話すわけにはいかなかった。
あの夜は、美緒だけの大事なものだった。
どれも本当だった。
でも、乃亜には届かない。
「言えないなら、いいよ」
乃亜は言った。
「そういうの、聞きたいわけじゃないし」
「乃亜ちゃん」
「仲間だと思ってたの、私だけだったんだね」
美緒は、息を止めた。
仲間だと思ってたの、私だけだったんだね。
その言葉は、鋭くはなかった。
鋭ければ、まだ言い返せたかもしれない。
でも、それは静かだった。
静かに、諦めた声だった。
美緒は、すぐに否定しなければいけなかった。
違う。
私も仲間だと思ってた。
乃亜ちゃんは大事だよ。
本当に大事だった。
でも、声が出なかった。
言ったところで、また壊れる気がした。
仲間だよ、と言えば、じゃあどうして話してくれなかったの、と返ってくる。
大事だよ、と言えば、大事ならどうして隠したの、と聞かれる。
どの言葉も、乃亜に届く前に壊れてしまう。
乃亜は、席を立った。
椅子の脚が床をこする音がした。
美緒は、その音でやっと顔を上げた。
「乃亜ちゃん」
乃亜はバッグを肩にかけた。
「もういい」
それだけ言った。
「待って」
美緒は立ち上がりかけた。
でも、足が動かなかった。
立ったところで、何を言えばいいのか分からなかった。
ごめん。
違う。
そんなつもりじゃない。
乃亜ちゃんは大事。
その全部を、さっき使った。
全部、届かなかった。
乃亜は、美緒を見なかった。
「じゃあね」
その言葉だけ残して、店の出口へ向かう。
美緒は追えなかった。
乃亜の背中が、店内の人影にまぎれていく。
入口の自動扉が開く。
外の光が一瞬入る。
乃亜の姿が、見えなくなる。
美緒は、椅子に座ったままだった。
テーブルの上には、冷めたカフェラテと、ほとんど溶けたアイスコーヒーが残っていた。
乃亜が折った紙ストローの袋も、そこにあった。
美緒は、それを見つめた。
仲間だと思ってたの、私だけだったんだね。
その言葉が、ずっと耳の奥に残っていた。
美緒は被害者だった。
匿名で書かれた。
第13と呼ばれた。
居酒屋勤務と匂わされた。
下位妻グループが怖くなった。
誰を信じていいか分からなくなった。
それは本当だった。
でも今、乃亜を傷つけたのは美緒だった。
その二つが同時にある。
美緒には、それをどう扱えばいいのか分からなかった。
しばらくして、美緒は店を出た。
外はもう夕方だった。
駅前の人通りは多い。会社帰りの人。買い物袋を持った人。スマホを見ながら歩く人。
誰も、美緒と乃亜が何を話したか知らない。
誰も、美緒が今、何を失ったのか知らない。
美緒は、電車に乗って部屋へ戻った。
帰り道の記憶は、あまり残っていなかった。
部屋に入る。
電気をつける。
ベッド。
小さなテーブル。
洗濯かご。
畳みきれない服。
飲みかけの水。
いつもの部屋。
美緒は、バッグを床に置き、ベッドに座った。
スマホを取り出す。
乃亜とのチャットを開きかけて、やめた。
何か送るべきだと思った。
でも、何を。
「ごめん」
違う。
「ちゃんと話したい」
もう話した、と言われる。
「乃亜ちゃんは大事」
軽い。
「仲間だと思ってる」
今さらだった。
美緒は、チャットを閉じた。
代わりに、開いてはいけない場所を開いた。
古妻ノート。
見ない方がいい。
分かっている。
でも、見てしまう。
検索欄に、天城蓮、と入れる。
関連投稿が並ぶ。
いつもの噂。
天城蓮の撮影目撃。
第一妻の服装。
中位妻の誰かのイベント参加。
美緒はスクロールした。
そして、指が止まった。
次の投稿。
「下位妻の仲間ヅラ、きつい」
さらにその下。
「第一さん側に拾われたら、もう戻れないのにね」
美緒の手が震えた。
さっきの会話と、近すぎる。
乃亜の言葉。
分かるって言わないでよ。
もう、そっちにいるくせに。
変わったのに、変わってないふりするから、きついんだよ。
それらに似た言葉が、匿名の画面に並んでいる。
名前はない。
美緒とも、乃亜とも書かれていない。
でも、美緒には分かった。
これは、さっきの会話に近い。
近すぎる。
投稿時刻を見る。
ついさっき。
乃亜と別れた後だった。
美緒は、スマホを握ったまま動けなくなった。
乃亜が書いたのだろうか。
そう思った瞬間、すぐに否定した。
違う。
乃亜は違う。
乃亜は、そんなことをしない。
でも。
さっき、乃亜はスマホを持っていた。
店を出ていった。
その後、投稿が出た。
内容は近い。
近すぎる。
他に誰が知っているのだろう。
あの会話を。
美緒が「分かるよ」と言ったことを。
乃亜が「そっちにいるくせに」と言ったことを。
店内の誰かが聞いていたのかもしれない。
偶然、近くに妻界隈の誰かがいたのかもしれない。
それとも、乃亜が誰かに話したのかもしれない。
分からない。
分からないから、怖い。
美緒は投稿を閉じようとした。
でも、指は動かなかった。
もう一つ、投稿が増えた。
「仲間だと思ってたの、私だけだったんだろうな」
美緒は、息が止まった。
乃亜の言葉、そのまま。
仲間だと思ってたの、私だけだったんだね。
美緒は、スマホを膝の上に落とした。
乃亜を疑いたくない。
でも、疑わずにはいられなかった。
涙は出なかった。
泣くより先に、身体の中が冷えていた。
乃亜が書いたのかもしれない。
乃亜ではないのかもしれない。
どちらでも、もう壊れている気がした。
美緒は、暗くなっていく画面を見つめた。
自分は、乃亜を傷つけた。
そして、その傷が、匿名の場所へ流れている。
誰が書いたのかは分からない。
でも、美緒と乃亜の間にあったものが、すでに外へ出ていた。




