第50話【分かるって言わないで】
「だから――」
美緒は、そこで一度息を吸った。
乃亜は、向かいの席で美緒を見ていた。
駅前のカフェのざわめきは、さっきより遠くなっていた。隣の席で学生たちが笑っている。レジの方から、カップを置く音がする。
でも、美緒には、乃亜の目だけが見えていた。
少し赤い目。笑おうとして、笑えなくなった顔。怒っているようで、泣きそうにも見える顔。
美緒は、関係を戻したかった。
戻せると思いたかった。
下の方同士、気楽にやろ。
そう言ってくれた乃亜のところへ、戻りたかった。
だから、言った。
「分かるよ」
乃亜の表情が止まった。
美緒は、それに気づかなかった。気づく余裕がなかった。
「私も、呼ばれる前は同じだったから」
言った瞬間、空気が少し変わった。
音が消えたわけではない。誰かがこちらを見たわけでもない。
でも、テーブルの上の冷めかけたカフェラテと、乃亜のアイスコーヒーの間に、何か硬いものが落ちたようだった。
乃亜は、黙っていた。
美緒は、すぐに続けた。
沈黙が怖かったから。
「乃亜ちゃんの気持ちも、分かる」
「呼ばれないの、つらいし」
「周りが上に行ってるみたいに見えるのも、怖いし」
「自分だけ置いていかれる感じも……」
言いながら、美緒は必死だった。
自分は乃亜を下に見ているわけではない。乃亜を傷つけたいわけではない。同じだったと言いたい。一人じゃないと言いたい。
でも言葉は、どんどん別の形になっていく。
自分でも、少しだけ分かった。
けれど、止められなかった。
「でも、大丈夫だよ」
美緒は言った。
璃子の声が、頭の奥で重なっていた。
怖い時は、怖いと言っていいの。
一人で決めないで。
あなたは悪くないわ。
あなたは大事にされているのよ。
美緒は、その言葉に救われた。
だから、乃亜にも渡したかった。
「まだ慣れてないだけだと思う」
「乃亜ちゃんも、きっと見てもらえるよ」
その瞬間、乃亜が小さく笑った。
笑い声ではない。
息が抜けたような、乾いた音だった。
美緒は言葉を止めた。
「乃亜ちゃん……?」
乃亜は、カップの中の氷を見ていた。氷はほとんど溶けて、コーヒーは薄くなっている。
しばらくして、乃亜は顔を上げた。
「分かるって言わないでよ」
声は静かだった。
大きくない。
でも、美緒の胸にまっすぐ刺さった。
「え……」
「分かるって、言わないで」
乃亜はもう一度言った。
美緒は、すぐに言い返せなかった。
分かるよ。
その言葉は、慰めのつもりだった。
美緒自身も、苦しかった。呼ばれない夜を知っていた。琴葉が先に呼ばれた時、祝えなかった。乃亜と同じ場所にいたことがある。
だから言った。
でも、乃亜の顔を見ると、その言葉が届いていないことだけは分かった。
「私、そんな……」
「もう、そっちにいるくせに」
乃亜が言った。
美緒は、息を止めた。
そっち。
その言葉が、テーブルの上に置かれる。
「第一さんと話して」
乃亜の声は揺れていた。
「蓮さんとも会って」
「上の人たちに心配されて」
「中位の人たちからも連絡来て」
ひとつずつ並べられる。
美緒は、何も否定できなかった。
全部、事実だった。
「その美緒ちゃんが」
乃亜は言った。
「私に、分かるって言うの?」
美緒の指が、紙カップのふたに触れた。
冷めたカフェラテの熱が、もうほとんど伝わってこない。
「でも、私は……」
美緒は、必死に言った。
「乃亜ちゃんのことを下に見てるわけじゃない」
「じゃあ、何?」
乃亜の目が、美緒を見る。
「私のこと、まだ下にいる子みたいに見てるでしょ」
「そんなことない」
美緒はすぐに言った。
「私は何も変わってない」
その言葉に、乃亜の顔が歪んだ。
怒りではなく、悲しみに近かった。
「変わったよ」
美緒は、口を閉じた。
乃亜は続ける。
「変わったのに、変わってないふりするから、きついんだよ」
その一文で、美緒の胸の奥が揺れた。
変わった。
自分は変わったのだろうか。
第13妻として登録された時。
下位妻グループに入った時。
自分が呼ばれた時。
名前を呼ばれた時。
璃子に、あなたは大事にされているのよ、と言われた時。
蓮に、お前といると楽だ、と言われた時。
変わったのだ、たぶん。
でも、美緒はそれを認めたくなかった。
認めたら、乃亜の隣には戻れない。
「私は、乃亜ちゃんのこと大事だよ」
美緒は言った。
それは本心だった。
でも、乃亜の表情はやわらがなかった。
「大事って言えば、戻れると思ってる?」
美緒は、言葉を失った。
「違う」
「違わないよ」
乃亜は、少しだけ早口になった。
「美緒ちゃん、今ずっとそうだよ」
「そうって……」
「上から言ってくる」
その言葉に、美緒は小さく息をのんだ。
上から。
そんなつもりはなかった。
本当に、そんなつもりはなかった。
「分かるよ、とか」
乃亜は、指で紙ストローの袋を押さえた。
「大丈夫だよ、とか」
「まだ慣れてないだけだよ、とか」
「きっと見てもらえるよ、とか」
言われた言葉が、一つずつ返ってくる。
さっきまで美緒が乃亜を安心させるために使った言葉。
それが乃亜の口から出ると、全部違って聞こえた。
冷たい。
軽い。
遠い。
下にいる人へ向けて、上から落とされる言葉みたいだった。
「全部、上から降ってくる言葉なんだよ」
乃亜は言った。
美緒は、何も返せなかった。
上から降ってくる言葉。
その響きで、美緒は璃子を思い出した。
ホテルのラウンジ。白いカップ。やわらかい照明。静かな声。
あなたは悪くないわ。
あなたは大事にされているのよ。
怖い時は、怖いと言っていいの。
一人で決めないで。
あの時、美緒は救われた。
璃子の言葉は、確かに上から降ってきた。でも、それは冷たくなかった。優しかった。包むようだった。
美緒は、その優しさを乃亜にも渡したかった。
でも、乃亜には違うものとして届いた。
美緒は、そのことが怖くなった。
「その言い方」
乃亜が、ぽつりと言った。
「第一さんに似てきたね」
美緒の胸が、ぎゅっと縮んだ。
「璃子さんは関係ないでしょ」
反射的に出た。
思っていたより強い声だった。
乃亜が、美緒を見る。
「あるよ」
「ないよ」
「ある」
乃亜の声も、少しだけ強くなった。
「美緒ちゃん、最近ずっとそうだよ」
「璃子さんに言われたこと、そのまま持ってきてるみたい」
「そんなこと……」
「あるよ」
乃亜は、遮った。
「あなたは悪くないとか」
美緒の息が止まる。
「一人で抱えなくていいとか」
「まだ決めなくていいとか」
「大事にされてるとか」
乃亜は、言葉を一つずつ置いていく。
まるで、璃子の声が別の形で戻ってきたみたいだった。
「美緒ちゃんは、それで救われたのかもしれない」
乃亜は言った。
「でも、それを私に向けないで」
美緒は、何も言えなかった。
「私は、第一さんに救われたいわけじゃない」
乃亜の声が、少し震えた。
「美緒ちゃんに、隣にいてほしかっただけ」
その言葉で、美緒の胸が痛んだ。
隣。
乃亜は隣にいてくれた。
下位妻グループに入ったばかりの頃も。
琴葉が呼ばれた時も。
匿名投稿の時も。
でも美緒は、いつの間にか隣ではなく、別の場所から乃亜に声をかけていたのかもしれない。
「私は……」
美緒は、どうにか言葉を探した。
「乃亜ちゃんの隣にいたいよ」
乃亜は、首を横に振った。
「もういないじゃん」
静かな声だった。
それが一番痛かった。
「昨日、何してたかも言えないでしょ」
美緒は、唇を噛んだ。
「言ったら、乃亜ちゃんが傷つくと思って」
「それも上からだよ」
乃亜が、すぐに言った。
美緒は、目を見開いた。
「傷つくかどうか、私が決めることじゃん」
乃亜の声が、初めて少し荒れた。
「美緒ちゃんが勝手に、私が傷つくだろうからって決めて」
「私には言わなくて」
「それで大事って言われても」
言葉が途切れる。
乃亜は、息を吸った。
「何を大事にしてるのか、分かんないよ」
美緒は、何も言えなかった。
何を大事にしているのか。
乃亜を傷つけたくなかった。
蓮の弱音を、勝手に話すわけにはいかなかった。
あの夜を、自分だけの大事なものにしておきたかった。
どれも本当だった。
でも、どれも乃亜には届かない。
乃亜は、紙ストローの袋をもう一度指で押さえた。きれいに折られていたそれは、何度も触られて、端が少しだけ潰れていた。
「美緒ちゃんは、もうそっちにいるんだよ」
「違う」
美緒は反射的に言った。
でも、その否定はさっきより弱かった。
「違わないよ」
乃亜は、美緒を見た。
その目は、怒っているというより、疲れていた。
「蓮さんは見てくれたんでしょ」
美緒の胸が小さく鳴る。
天城蓮。
昨夜の個室。
疲れた顔。
低い声。
お前といると楽だ。
その言葉が、また身体の奥で甘く光った。
でも今、その光は乃亜の前で罪悪感に変わる。
「第一さんも守ってくれたんでしょ」
乃亜は続けた。
「璃子さんは……」
美緒は言いかけて、止まった。
璃子は守ってくれた。
少なくとも、美緒にはそう見えた。
あなたは悪くないわ。
あなたは大事にされているのよ。
一人で決めないで。
少し、蓮とゆっくり話せるようにしておくわ。
璃子は美緒を救ってくれた。そして、本当に蓮との時間を整えてくれた。
それを、乃亜の前でどう言えばいいのだろう。
「私は?」
乃亜が言った。
その一言で、美緒の呼吸が止まった。




