第49話【最近、上の人と仲いいよね】
駅前のカフェは、前と同じ場所にあった。
大きなチェーン店。
入口の横には、季節限定の甘い飲み物のポスターが貼られている。
普通の場所だった。
妻コミュニティも、配偶者用アプリも、古妻ノートも関係ない。
天城蓮の名前も、第一妻の名前も、誰も口にしていない。
それなのに、美緒には少し息苦しかった。
ここには前にも来た。
下位妻グループに入って少し経った頃、乃亜と二人で話した場所だった。
あの時は、安いコーヒーが少し嬉しかった。
テーブルが小さくて、椅子も硬くて、周りの声も近かったけれど、それが逆に楽だった。
上の人たち怖いよね。
乃亜はそう言って笑った。
下の方同士、気楽にやろ。
その言葉に、美緒は救われた。
妻になったのに孤独だった。
第13妻になったのに、どう振る舞えばいいのか分からなかった。
上位妻は遠く、自分だけが一番下にいるように感じていた。
その時、乃亜は近かった。
第12妻。
美緒より一つだけ前にいる人。
少しだけ先輩で、でも遠すぎない人。
乃亜が隣にいることが、あの頃の美緒には本当に救いだった。
美緒は店内を見回した。
奥の席に、乃亜はもういた。
窓際の二人席。
テーブルの上には、アイスコーヒーが置かれている。
氷は少し溶けていた。
紙ストローの袋が、きれいに折られている。
乃亜はスマホを伏せていた。
美緒に気づくと、少しだけ手を上げた。
笑っている。
でも、その笑顔は前と違った。
軽くない。
美緒は、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
「ごめん、待たせた?」
席に近づいて、できるだけ普通に言った。
乃亜は首を横に振る。
「ううん」
短い返事。
美緒は向かいに座った。
メニューを見ようとして、もう注文する気分ではないことに気づく。
「あ、何か買ってくるね」
「うん」
乃亜の声は静かだった。
美緒はレジへ行き、ホットのカフェラテを頼んだ。
待っている間も、背中に乃亜の視線があるような気がした。
本当に見ているかは分からない。
でも、そう感じた。
カップを持って席に戻る。
テーブルに置くと、紙カップのふたが少し震えた。
「昨日、ちゃんと寝れた?」
乃亜が先に言った。
美緒は、カップを両手で包んだ。
「うん。少しは」
嘘だった。
ほとんど眠れなかった。
でも、眠れなかった理由を言えない。
蓮の言葉を何度も思い出していたから。
お前といると楽だ。
こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。
その夜を、乃亜には言えない。
「そっか」
乃亜は、またそう言った。
朝のチャットと同じ言葉だった。
そっか。
それだけ。
その短さが、美緒の胸を少し圧迫する。
「乃亜ちゃんは?」
美緒は、無理に聞いた。
「寝れた?」
乃亜は、少し笑った。
「普通」
普通。
その言葉も、どこか遠い。
以前なら、もっと何か言った気がする。
寝れたわけないじゃん。
てかさ、麻衣さんまた変なスタンプ送ってきて。
そんなふうに、軽く言えた気がする。
今は、会話の間に薄いガラスがある。
美緒は、そのガラスを破らないように、でも壊したくて、言葉を探した。
「昨日は、ごめんね」
「何が?」
乃亜がすぐに聞き返した。
責める口調ではない。
でも、やわらかくもなかった。
美緒は少し詰まる。
「返信、ちゃんとできなくて」
「ああ」
乃亜は、ストローを少し動かした。
氷が小さく鳴る。
「忙しそうだったから」
美緒は、カップを握った。
忙しそう。
朝にも言われた。
その言葉が、また刺さる。
「忙しいっていうか……」
そこまで言って、止まる。
蓮と会っていた。
それを言うなら、今しかないのかもしれない。
でも言えない。
乃亜を傷つける。
同時に、言わないことも、すでに乃亜を傷つけている。
それも分かっている。
美緒は、言葉を濁した。
「ちょっと、いろいろあって」
乃亜は笑った。
小さく。
でも、その笑いは冷たかった。
「いろいろね」
美緒は顔を上げた。
乃亜は、伏せていたスマホに視線を落としたままだった。
「最近、上の人と仲いいよね」
突然だった。
美緒は息を止めた。
上の人。
璃子。
芽衣子。
莉央。
香澄。
そして、蓮。
その全部が、乃亜の言葉の中に入っている気がした。
「そんなことないよ」
美緒は反射的に言った。
声が少し早かった。
乃亜が、ゆっくりこちらを見る。
「そんなことあるよ」
美緒は、返せなかった。
乃亜は続けた。
「第一さんとも話してるんでしょ」
美緒の手が、カップの上で止まる。
「それは……相談に乗ってもらって」
「うん」
乃亜はうなずいた。
「蓮さんとも会ってるんでしょ」
美緒は、すぐに返事ができなかった。
その沈黙で、答えたようなものだった。
乃亜の目が少し揺れた。
でも、すぐに表情を戻した。
「やっぱり」
「違うの」
美緒は言った。
「違うって、何が?」
乃亜の声は静かだった。
怒鳴らない。
だから余計に怖い。
美緒は、必死に言葉を探した。
「乃亜ちゃんに言いたくなかったわけじゃなくて」
「じゃあ、何?」
「言いにくかっただけで」
言った瞬間、自分でも失敗したと思った。
乃亜の顔が、ほんの少しだけ固まった。
そして、笑った。
「ほら」
「え……」
「言いにくいんじゃん」
美緒は、言葉を失った。
乃亜の言う通りだった。
言いにくかった。
乃亜に言えば傷つけると思った。
乃亜に言えば、自分がどこか別の場所へ行ってしまったことを認める気がした。
乃亜に言えば、昨日の夜が自分だけの秘密ではなくなる気がした。
だから言えなかった。
でも、乃亜にとっては、その理由がもう痛いのだ。
「そういう意味じゃなくて」
美緒は言った。
「どういう意味?」
乃亜の声はまだ静かだった。
美緒は答えられなかった。
乃亜を大事だと言えば、今さらになる。
傷つけたくなかったと言えば、傷ついた後に聞こえる。
そんなつもりじゃないと言えば、美緒の弁明になる。
どの言葉も、乃亜に届く前に壊れてしまう。
「私には、もう話してくれないんだ」
乃亜が言った。
その言葉は、まっすぐだった。
美緒の胸に刺さった。
「そんなことない」
美緒はすぐに否定した。
「乃亜ちゃんには……本当に、話したかった」
「でも話してないじゃん」
乃亜の返しは早かった。
美緒は、口を閉じた。
その通りだった。
話したかった。
でも、話していない。
乃亜から見れば、それが全てだった。
「私たち」
乃亜は、紙ストローの袋を指で押さえた。
「仲間じゃなかったの?」
美緒は、すぐに顔を上げた。
「仲間だよ」
それだけは、迷わず言えた。
「乃亜ちゃんは大事だよ」
本心だった。
乃亜は大事だ。
本当に。
下位妻グループに入った時、一番最初に近くに来てくれた。
琴葉が呼ばれた時も、隣にいてくれた。
匿名投稿の時も、美緒ちゃんは悪くないよ、と言ってくれた。
乃亜がいなかったら、美緒はもっと早く壊れていたかもしれない。
それは本当だった。
「私、そんなつもりじゃない」
美緒は続けた。
そう言った瞬間、乃亜の目が少しだけ変わった。
「その“そんなつもりじゃない”が一番きつい」
乃亜は言った。
美緒は、何も返せなかった。
そんなつもりじゃない。
本当にそうだった。
乃亜を下に見ているつもりはない。
傷つけたいつもりもない。
仲間じゃないと思ったこともない。
でも、その言葉は乃亜に届かない。
乃亜の痛みではなく、美緒の無罪を守る言葉になってしまう。
美緒は、それに気づいた。
気づいたのに、他の言葉が出てこなかった。
「ごめん」
やっと言えた。
乃亜は、少しだけ首を横に振った。
「謝ってほしいんじゃない」
「でも」
「そういうことじゃない」
乃亜は、カップの中の氷を見つめた。
「美緒ちゃん、最近ずっと遠い」
美緒は、胸の奥が詰まるのを感じた。
「遠くないよ」
「遠いよ」
乃亜は、今度はすぐに返した。
「第一さんと話して、蓮さんと会って、中位の人たちとも連絡して」
ひとつずつ並べられる。
美緒は、何も言えない。
全部、事実だった。
「私には、言いにくいんでしょ」
乃亜は言った。
「それって、もう遠いってことじゃん」
美緒は、唇を噛んだ。
違う。
そう言いたい。
でも、違わない。
言いにくい相手になった。
それは、乃亜が悪いからではない。
美緒が変わったからだ。
でも、そのことを認めたら、もう戻れない気がした。
「乃亜ちゃんを傷つけたくなかったの」
美緒は、やっとそう言った。
乃亜は、少しだけ笑った。
今度の笑いは、泣く前の笑いに見えた。
「それ、もう傷ついてる側に言うことじゃないよ」
美緒は息を止めた。
言葉が届かない。
乃亜を大事だと言えば、今さらになる。
傷つけたくなかったと言えば、傷ついた後に聞こえる。
どの言葉も、乃亜に届く前に壊れてしまう。
美緒は、カップのふたを見つめた。
ラテはもう、少し冷め始めている。
この場所は、前は安心できた。
安いテーブル。
周りの普通の客の声。
小さな丸い席。
乃亜の近さ。
ここでなら、上の人たちのことを笑えた。
呼ばれない夜を、一緒にやり過ごせた。
でも今は、同じテーブルの向こうにいる乃亜が遠い。
美緒は、戻りたかった。
あの頃へ。
下の方同士、と笑えた頃へ。
だから、何か言わなければと思った。
美緒は、顔を上げた。
「乃亜ちゃん」
乃亜が、美緒を見る。
その目は少し赤かった。
美緒は、焦っていた。
焦っていたから、次の言葉を選びきれなかった。
「私、ちゃんと乃亜ちゃんのこと、分かりたい」
そう言った。
乃亜は黙っている。
美緒は、さらに続けようとした。
このままだと終わってしまう。
そう思った。
だから、美緒は言った。
「だから――」
そこで、一度だけ息を吸う。
言葉は、もう喉まで来ていた。
善意の形をして。
救いの形をして。
美緒自身が、璃子から受け取った時には、本当に救いだった言葉として。




