第48話【会える?】
朝になっても、蓮の言葉は消えなかった。
お前といると楽だ。
他の人には言えないことも、あるし。
こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。
美緒は、ベッドの上でスマホを握ったまま、その三つの言葉を何度も思い返していた。
昨夜は、あまり眠れなかった。
眠れなかったのに、つらくはなかった。眠るのがもったいない気がした。
目を閉じると、ホテルの小さな個室が浮かぶ。柔らかい照明。低いテーブル。ジャケットを脱いだ天城蓮。少し疲れた顔。テレビでは見たことのない、弱った声。
その顔を、自分だけが見た。
そう思うたび、胸の奥が甘くなった。
本当は、蓮は「お前だけかもしれない」と言った。
かもしれない。
断定ではない。その場の疲れで、少し弱って、そう言っただけかもしれない。
でも美緒には、「お前だけ」の部分だけが残っていた。
第13妻。下位妻。居酒屋勤務。匿名の悪意。
そんな言葉が、昨夜だけは遠かった。
自分は、蓮の弱音を聞いた人だった。
蓮が楽だと言ってくれた人だった。
美緒は、スマホを開いた。
蓮とのチャットには、昨夜のやり取りが残っている。
天城 蓮:
「今日は来てくれてありがとう」
佐倉美緒:
「こちらこそ、ありがとうございました」
そのあと、蓮からの返信はない。
でも今日は、それほど苦しくなかった。
返信がないことよりも、あの部屋で聞いた言葉の方が強かった。
お前といると楽だ。
その一文があるだけで、待てる気がした。
美緒は、しばらくその画面を見つめていた。
それから、そっと閉じた。
次に、乃亜とのチャットが目に入る。
胸の奥が、少しだけ重くなった。
三枝乃亜:
「今日、何してた?」
三枝乃亜:
「大丈夫?」
昨夜、返信できなかったメッセージ。
既読はつけてしまっている。
今日、何してた?
大丈夫?
どちらも、普通の言葉だった。
乃亜らしい、短い言葉。
前なら、すぐ返せた。
でも今は、何を打っても嘘になる気がした。
美緒は、入力欄に指を置いた。
佐倉美緒:
「昨日はちょっと用事があって」
打って、止まる。
用事。
それは嘘ではない。でも、何も言っていないのと同じだった。
消す。
佐倉美緒:
「蓮さんと少し話してた」
打った瞬間、指が止まった。
これが一番近い。
でも、送れない。
送ったら、乃亜はどう思うだろう。
よかったね、と言ってくれるかもしれない。
何話したの?と、普通に聞くかもしれない。
そのどれにも、美緒はちゃんと返せない。
お前といると楽だって言われた。
そう言えば、乃亜を傷つける。
言わなければ、また隠すことになる。
美緒は、その文も消した。
入力欄が白くなる。
乃亜に言えないことが、また一つ増えた。
呼ばれたこと。
璃子に相談したこと。
蓮と会ったこと。
蓮の弱音を聞いたこと。
お前といると楽だ、と言われたこと。
最初は、乃亜に一番話したかった。
下の方同士、気楽にやろ。
乃亜はそう言ってくれた。
下位妻グループに入ったばかりの美緒に、一番近い距離でいてくれた。
琴葉が呼ばれた時も、隣にいてくれた。
匿名投稿の時も、美緒ちゃんは悪くないよ、と言ってくれた。
乃亜は味方だった。
今も、味方だと思いたい。
でも、味方に言えないことが増えている。
そのことが、もう答えのようで怖かった。
スマホが震えた。
美緒は小さく肩を揺らした。
乃亜からだった。
三枝乃亜:
「昨日、大丈夫だった?」
美緒は、しばらく画面を見ていた。
昨日。
どこを指しているのだろう。
返信できなかったこと。
何をしていたか分からなかったこと。
最近ずっと、何かを隠していること。
乃亜は、どこまで気づいているのだろう。
美緒は返信を打った。
佐倉美緒:
「うん。ちょっと疲れてただけ」
送信する。
すぐに既読がついた。
短い沈黙。
その沈黙が、前より長く感じた。
以前の乃亜なら、すぐにスタンプを送ってくれた気がする。
笑っている猫。
ゆるいキャラクター。
気にしすぎ、と軽く流す言葉。
でも、今は何も来ない。
美緒はスマホを握った。
少しして、返事が来た。
三枝乃亜:
「そっか」
それだけだった。
美緒は、その二文字を見つめた。
そっか。
怒っているわけではない。
責めているわけでもない。
でも、遠い。
遠く感じる。
美緒は、何か追加で送ろうとした。
心配かけてごめん。
また今度話すね。
どれも、乃亜を安心させるふりをした嘘になる。
また沈黙が落ちる。
画面の中で、乃亜の名前の下に入力中の表示が出た。
消えた。
また出た。
消えた。
それだけで、美緒の胸が苦しくなった。
乃亜も、言葉を選んでいる。
前は、こんなふうではなかった。
もっと雑に送れていた。
もっと軽く話せていた。
いつから、こんなに一文ずつ怖くなったのだろう。
通知が来る。
三枝乃亜:
「最近、忙しそうだね」
美緒は、息を止めた。
忙しそう。
ただの言葉なのに、胸の奥に刺さった。
忙しい。
仕事が忙しいわけではない。
璃子と会っていた。
蓮と会っていた。
その全部を乃亜には言えていない。
美緒は、返信を打った。
佐倉美緒:
「まあ、少しだけ」
送る。
曖昧な返事だった。
自分でも分かる。
でも、これ以上は言えなかった。
既読がつく。
また、少し間が空く。
その間に、美緒は何度も画面を見た。
乃亜は何を考えているのだろう。
美緒が隠していることに気づいているのだろうか。
璃子が面会を整えたことを、誰かから聞いたのだろうか。
考えるほど、息が浅くなる。
でも、本当は分かっていた。
乃亜が何も知らなくても、これはもう伝わっている。
美緒が話さないこと。
それ自体が、乃亜を遠ざけている。
通知が来た。
三枝乃亜:
「会える?」
美緒は、画面を見つめた。
会える?
その一文に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
乃亜が会おうと言ってくれている。
まだ、終わっていない。
そう思った。
直接会えば、戻れるかもしれない。
チャットでは言えないことも、顔を見れば言えるかもしれない。
蓮と会ったことは全部言えなくても、少しなら話せるかもしれない。
美緒は、すぐに返信した。
佐倉美緒:
「うん」
少しだけ迷ってから、もう一文送る。
佐倉美緒:
「会いたい」
送信してから、美緒はスマホを胸の近くに引き寄せた。
本当に、会いたかった。
乃亜に会いたかった。
下位妻グループに入ったばかりの頃みたいに、隣にいてほしかった。
琴葉が呼ばれてつらかった時みたいに、深追いせずにいてほしかった。
そして、できれば。
昨夜のことを、言わなくても分かってほしかった。
それが無理なことだと、どこかでは分かっていた。
言わなければ、分かるはずがない。
でも、全部を言えば傷つける。
美緒は、その間で止まっていた。
乃亜から返事が来る。
三枝乃亜:
「じゃあ、今日の夕方」
三枝乃亜:
「前に行った駅前のカフェでいい?」
美緒は、その場所を思い出した。
下位妻グループに入って少し経った頃、乃亜と二人で話した場所。
安いコーヒー。
小さな丸テーブル。
上の人たち怖いよね、と笑った時間。
あの時は、そこが救いだった。
乃亜が近くにいることが、確かに嬉しかった。
佐倉美緒:
「うん。行く」
送信する。
三枝乃亜:
「じゃあ、あとで」
それで会話は終わった。
美緒は、画面をしばらく見つめていた。
あとで。
その言葉が、少しだけ救いに見えた。
まだ、あとで会える。
まだ、話せる。
まだ、戻れるかもしれない。
美緒はスマホを置き、鏡の前に立った。
目元は少し疲れている。
昨夜眠れなかったせいだ。
でも、表情はどこか浮いていた。
蓮の言葉が、まだ身体の内側で光っている。
お前といると楽だ。
その光を、乃亜の前では隠さなければいけない。
美緒は、鏡の中の自分を見た。
隠したいわけではない。
乃亜を傷つけたくないだけだ。
そう思った。
でも、隠すこともたぶん、乃亜を傷つけている。
美緒は、そのことに薄く気づいていた。
薄く気づいていたからこそ、胸の奥が痛かった。
それでも、会えば戻れると思いたかった。
乃亜なら、分かってくれる。
その期待が、もう少しだけ、美緒を支えていた。




