第47話【今日、何してた?】
ホテルを出ると、夜の空気が少し冷たかった。
美緒は、しばらく入口の前で立ち止まった。自動扉が背後で静かに閉まる。
さっきまで、同じ部屋に天城蓮がいた。
疲れた顔をしていた。ジャケットを脱いで、シャツの首元を少し緩めていた。ペットボトルの水を飲んで、ソファに深く座っていた。
テレビの中の人ではなかった。舞台挨拶で笑う人でもなかった。
少し疲れていて、少し弱っていて、少しだけ本音を漏らした人だった。
その顔を、自分は見た。
美緒は、バッグの持ち手を握りしめた。
お前といると楽だ。
その言葉が、まだ耳の奥に残っている。
他の人には言えないことも、あるし。
こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。
お前だけかもしれない。
かもしれない、だった。そう分かっている。断定ではない。約束でもない。蓮は疲れていて、少し弱っていて、その場の空気で言っただけかもしれない。
でも、美緒の中では、そこだけが強く残った。
お前だけ。自分だけ。
第13妻。下位妻。居酒屋勤務。匿名の悪意。そういう言葉が、少しだけ遠くなる。
今の美緒は、そのどれでもなかった。
蓮が楽だと言ってくれた相手。他の人には言えないことを聞いた相手。テレビではない顔を見せられた相手。
その事実が、胸の奥で甘く広がっていく。
美緒は駅へ向かって歩き出した。
夜の街は、いつも通りだった。
信号待ちの人。コンビニの明かり。自転車のベル。駅前の居酒屋から漏れる笑い声。
何も変わっていない。誰も、美緒が今どこから帰ってきたのか知らない。
そのことが、少しだけ甘かった。
古妻ノートにも、下位妻グループにも、匿名掲示板にも、まだこの夜はない。美緒だけが持っている。
そう思うと、スマホを取り出すのが少し怖くなった。画面を開けば、また別の世界が入ってくる。
それが嫌だった。
美緒は、スマホをバッグに入れたまま歩いた。
電車に乗る。車内はそれほど混んでいなかった。窓の外に、夜の街の光が流れていく。ガラスには、自分の顔が薄く映っている。
美緒はその顔を見た。少しだけ、違って見えた。
さっきまで蓮の前にいた自分。蓮に、楽だと言われた自分。お前だけかもしれない、と言われた自分。
窓に映る佐倉美緒は、いつもと同じ顔をしている。でも、内側だけが変わっていた。
初めて呼ばれた夜の帰り道を思い出した。
あの時も、夜の電車に乗った。蓮に呼ばれて、名前を呼ばれて、胸がいっぱいだった。
あの時は、呼ばれたことが証だった。
今日は違う。今日は、弱さを見せてもらった。
蓮の疲れた顔。制度の顔みたいに扱われるのがしんどいという言葉。ちゃんとしてる天城蓮でいなきゃいけない、という声。
その弱音を、自分は聞いた。
璃子が言っていた。あなたは大事にされているのよ。
その意味が、今なら分かる気がした。
蓮は、誰にでも見せる顔ではない顔を、自分に見せてくれた。誰にでも言うわけではない言葉を、自分にくれた。
お前といると楽だ。
その一文だけで、美緒の中にあった黒いものが少しずつ溶けていく。
匿名投稿の文字。下位妻グループを開けない怖さ。乃亜を疑ってしまった罪悪感。配偶登録解除の画面。凛に送れなかった文章。
全部が消えたわけではない。でも、甘いものに覆われていく。今は、見えない。見えなくていい。
美緒は、バッグの中からスマホを取り出した。
蓮とのチャットを開く。
最後のメッセージは、短い。
天城 蓮:
「今日は来てくれてありがとう」
面会の後、部屋を出る前に届いたものだった。
美緒は、その文を何度も読んだ。
呼ばれたのは自分なのに。璃子が整えてくれた時間なのに。蓮は、ありがとうと言った。
自分が行ったことで、蓮も少し楽になったのかもしれない。そう思った。
美緒は返信欄に指を置いた。
佐倉美緒:
「こちらこそ、ありがとうございました」
それだけ打つ。硬い。でも、送った。
すぐに既読はつかなかった。
蓮はもう次の仕事かもしれない。疲れて眠ってしまったのかもしれない。
そう考えても、今日はそれほど苦しくなかった。
お前といると楽だ。
その言葉がある。既読がつかなくても、その言葉が消えるわけではない。
美緒は、チャット画面を閉じようとして、やめた。もう一度、蓮の名前を見る。
天城 蓮。
対象者ではなく。夫でもなく。推しでもなく。その全部が混ざった名前。
美緒は、スマホを胸の近くに引き寄せた。
自分は、まだ妻でいていい。そう思った。
第13妻でも。下位妻でも。外では佐倉美緒のままでも。
蓮が楽だと言ってくれるなら。まだ、ここにいていい。
電車が揺れた。
周りの人は何も知らない。隣に立つ会社員も。座席で眠っている学生も。
誰も知らない。
自分が、天城蓮の疲れた顔を見てきたことを。
その秘密が、身体の中で静かに光っている。
家に着くと、部屋は暗かった。
美緒は電気をつけ、靴を脱ぎ、バッグを置いた。
ベッド。小さなテーブル。洗濯かご。畳みきれていない服。飲みかけの水。
いつもの部屋。
ここには、蓮の気配はない。さっきまでの個室の空気もない。
それでも、美緒の中には残っていた。
お前といると楽だ。
他の人には言えない。
こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。
美緒はベッドに座った。スマホを開く。
璃子とのチャットを見る。
久我璃子:
「ただ、彼の顔を見たら、少し落ち着くと思うわ」
本当にそうだった。璃子の言う通りだった。
蓮の顔を見たら、少し落ち着いた。いや、少しどころではなかった。
離婚申請ページを開いた自分が、もうずいぶん遠く感じる。
あの時は本当に怖かった。妻でいるのが苦しくて、でも妻をやめるのも怖くて、指が画面の上で止まっていた。
今は違う。あの画面には、もう戻らなくていい。少なくとも、今夜は。
美緒は、璃子に何か送ろうか迷った。
会えました。ありがとうございました。蓮さん、少し疲れていました。でも、私に弱音を話してくれました。
そこまで考えて、指が止まる。
蓮の弱音を、璃子に送っていいのだろうか。
璃子が整えてくれた時間ではある。でも、あの部屋で聞いた言葉は、美緒だけのものにしたかった。
誰にも言わないでね。
璃子が言った言葉を思い出す。璃子が自分に秘密を預けてくれたように、蓮の弱音も、自分の中に置いておきたい。
美緒は、璃子への返信欄を閉じた。
次に、乃亜とのチャットが目に入った。
開くつもりはなかった。でも、指が触れてしまった。
画面が開く。
三枝乃亜:
「美緒ちゃんは悪くないよ」
美緒は、その文字を見つめた。
乃亜。最初に近くに来てくれた人。匿名投稿の時、悪くないと言ってくれた人。
その乃亜に、今日のことを言えない。
蓮と会ったこと。璃子が調整してくれたこと。お前といると楽だ、と言われたこと。他の人には言えないと言われたこと。こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれないと言われたこと。
言いたい。言いたかった。
でも、乃亜には言えない。言えば、乃亜を傷つける。この夜を汚されたくない。そして、たぶん、自分が上に行ったことを認めたくないから。
美緒は、入力欄に指を置いた。
佐倉美緒:
「今日、蓮さんと少し話しました」
そこまで打って、止まる。
続きはどうするのだろう。
大丈夫だった?何話したの?よかったね。
乃亜がそう返してきたら。美緒は、どこまで言うのだろう。
言えない。それを言った瞬間、美緒は乃亜の前で完全に違う場所へ行ってしまう気がした。
消す。
入力欄が空になる。美緒は、その白い空白をしばらく見つめた。
乃亜に言えないことが、また一つ増えた。
その時、乃亜から通知が来た。
三枝乃亜:
「今日、何してた?」
美緒は、息を止めた。
今日、何してた?
何でもない質問だった。普通なら、仕事だった、と返せる。ちょっと用事、とごまかせる。
でも今は、その質問がまっすぐ刺さった。
今日、何してた?
蓮と会っていた。璃子が整えてくれた場所で。天城蓮と二人で話していた。
蓮は疲れていた。弱音を吐いた。自分に、楽だと言ってくれた。
そう答えられたら、どれだけ楽だろう。でも、送れなかった。
美緒は入力欄を開いた。
佐倉美緒:
「ちょっと用事があって」
打つ。消す。
佐倉美緒:
「璃子さんに」
そこまで打って、すぐ消した。璃子の名前を出したら、もう隠せない。
美緒は、スマホを握ったまま動けなかった。
既読はつけてしまった。乃亜には、見えている。美緒が読んだこと。読んだのに、返さないこと。
少しして、乃亜からもう一通来た。
三枝乃亜:
「大丈夫?」
美緒の胸が痛んだ。
大丈夫。乃亜は、まだ心配してくれている。
それなのに、美緒は何も返せない。返せば、嘘になる。本当のことを言えば、壊れる気がする。
美緒は、画面を暗くした。
返信しなかった。ベッドの上で、スマホを伏せる。
部屋は静かだった。
蓮の声が、まだ残っている。
お前といると楽だ。他の人には言えない。こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。
その言葉は甘かった。甘くて、温かくて、身体の奥に沈んでいく。
でも、伏せたスマホの向こうには、乃亜の未返信が残っている。
今日、何してた?
大丈夫?
美緒は、目を閉じた。
蓮の言葉を抱きしめたい。でも、乃亜の言葉がそこに影を落とす。
言えば傷つける。言わなければ、隠し事になる。どちらを選んでも、もう同じ場所には戻れない。
美緒は、布団の上で小さく息を吐いた。
今夜のことは、秘密にしたい。
そう思った。
蓮のために。自分のために。そして、乃亜を傷つけないために。
その三つは、同じようで、少しずつ違っていた。
美緒は、その違いに気づかないふりをした。
スマホは、もう震えなかった。
それが少しだけ、怖かった。




