表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
47/80

第47話【今日、何してた?】

ホテルを出ると、夜の空気が少し冷たかった。


美緒は、しばらく入口の前で立ち止まった。自動扉が背後で静かに閉まる。


さっきまで、同じ部屋に天城蓮がいた。


疲れた顔をしていた。ジャケットを脱いで、シャツの首元を少し緩めていた。ペットボトルの水を飲んで、ソファに深く座っていた。


テレビの中の人ではなかった。舞台挨拶で笑う人でもなかった。


少し疲れていて、少し弱っていて、少しだけ本音を漏らした人だった。


その顔を、自分は見た。


美緒は、バッグの持ち手を握りしめた。


お前といると楽だ。


その言葉が、まだ耳の奥に残っている。


他の人には言えないことも、あるし。


こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。


お前だけかもしれない。


かもしれない、だった。そう分かっている。断定ではない。約束でもない。蓮は疲れていて、少し弱っていて、その場の空気で言っただけかもしれない。


でも、美緒の中では、そこだけが強く残った。


お前だけ。自分だけ。


第13妻。下位妻。居酒屋勤務。匿名の悪意。そういう言葉が、少しだけ遠くなる。


今の美緒は、そのどれでもなかった。


蓮が楽だと言ってくれた相手。他の人には言えないことを聞いた相手。テレビではない顔を見せられた相手。


その事実が、胸の奥で甘く広がっていく。


美緒は駅へ向かって歩き出した。


夜の街は、いつも通りだった。


信号待ちの人。コンビニの明かり。自転車のベル。駅前の居酒屋から漏れる笑い声。


何も変わっていない。誰も、美緒が今どこから帰ってきたのか知らない。


そのことが、少しだけ甘かった。


古妻ノートにも、下位妻グループにも、匿名掲示板にも、まだこの夜はない。美緒だけが持っている。


そう思うと、スマホを取り出すのが少し怖くなった。画面を開けば、また別の世界が入ってくる。


それが嫌だった。


美緒は、スマホをバッグに入れたまま歩いた。


電車に乗る。車内はそれほど混んでいなかった。窓の外に、夜の街の光が流れていく。ガラスには、自分の顔が薄く映っている。


美緒はその顔を見た。少しだけ、違って見えた。


さっきまで蓮の前にいた自分。蓮に、楽だと言われた自分。お前だけかもしれない、と言われた自分。


窓に映る佐倉美緒は、いつもと同じ顔をしている。でも、内側だけが変わっていた。


初めて呼ばれた夜の帰り道を思い出した。


あの時も、夜の電車に乗った。蓮に呼ばれて、名前を呼ばれて、胸がいっぱいだった。


あの時は、呼ばれたことが証だった。


今日は違う。今日は、弱さを見せてもらった。


蓮の疲れた顔。制度の顔みたいに扱われるのがしんどいという言葉。ちゃんとしてる天城蓮でいなきゃいけない、という声。


その弱音を、自分は聞いた。


璃子が言っていた。あなたは大事にされているのよ。


その意味が、今なら分かる気がした。


蓮は、誰にでも見せる顔ではない顔を、自分に見せてくれた。誰にでも言うわけではない言葉を、自分にくれた。


お前といると楽だ。


その一文だけで、美緒の中にあった黒いものが少しずつ溶けていく。


匿名投稿の文字。下位妻グループを開けない怖さ。乃亜を疑ってしまった罪悪感。配偶登録解除の画面。凛に送れなかった文章。


全部が消えたわけではない。でも、甘いものに覆われていく。今は、見えない。見えなくていい。


美緒は、バッグの中からスマホを取り出した。


蓮とのチャットを開く。


最後のメッセージは、短い。


天城 蓮:

「今日は来てくれてありがとう」


面会の後、部屋を出る前に届いたものだった。


美緒は、その文を何度も読んだ。


呼ばれたのは自分なのに。璃子が整えてくれた時間なのに。蓮は、ありがとうと言った。


自分が行ったことで、蓮も少し楽になったのかもしれない。そう思った。


美緒は返信欄に指を置いた。


佐倉美緒:

「こちらこそ、ありがとうございました」


それだけ打つ。硬い。でも、送った。


すぐに既読はつかなかった。


蓮はもう次の仕事かもしれない。疲れて眠ってしまったのかもしれない。


そう考えても、今日はそれほど苦しくなかった。


お前といると楽だ。


その言葉がある。既読がつかなくても、その言葉が消えるわけではない。


美緒は、チャット画面を閉じようとして、やめた。もう一度、蓮の名前を見る。


天城 蓮。


対象者ではなく。夫でもなく。推しでもなく。その全部が混ざった名前。


美緒は、スマホを胸の近くに引き寄せた。


自分は、まだ妻でいていい。そう思った。


第13妻でも。下位妻でも。外では佐倉美緒のままでも。


蓮が楽だと言ってくれるなら。まだ、ここにいていい。


電車が揺れた。


周りの人は何も知らない。隣に立つ会社員も。座席で眠っている学生も。


誰も知らない。


自分が、天城蓮の疲れた顔を見てきたことを。


その秘密が、身体の中で静かに光っている。


家に着くと、部屋は暗かった。


美緒は電気をつけ、靴を脱ぎ、バッグを置いた。


ベッド。小さなテーブル。洗濯かご。畳みきれていない服。飲みかけの水。


いつもの部屋。


ここには、蓮の気配はない。さっきまでの個室の空気もない。


それでも、美緒の中には残っていた。


お前といると楽だ。


他の人には言えない。


こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。


美緒はベッドに座った。スマホを開く。


璃子とのチャットを見る。


久我璃子:

「ただ、彼の顔を見たら、少し落ち着くと思うわ」


本当にそうだった。璃子の言う通りだった。


蓮の顔を見たら、少し落ち着いた。いや、少しどころではなかった。


離婚申請ページを開いた自分が、もうずいぶん遠く感じる。


あの時は本当に怖かった。妻でいるのが苦しくて、でも妻をやめるのも怖くて、指が画面の上で止まっていた。


今は違う。あの画面には、もう戻らなくていい。少なくとも、今夜は。


美緒は、璃子に何か送ろうか迷った。


会えました。ありがとうございました。蓮さん、少し疲れていました。でも、私に弱音を話してくれました。


そこまで考えて、指が止まる。


蓮の弱音を、璃子に送っていいのだろうか。


璃子が整えてくれた時間ではある。でも、あの部屋で聞いた言葉は、美緒だけのものにしたかった。


誰にも言わないでね。


璃子が言った言葉を思い出す。璃子が自分に秘密を預けてくれたように、蓮の弱音も、自分の中に置いておきたい。


美緒は、璃子への返信欄を閉じた。


次に、乃亜とのチャットが目に入った。


開くつもりはなかった。でも、指が触れてしまった。


画面が開く。


三枝乃亜:

「美緒ちゃんは悪くないよ」


美緒は、その文字を見つめた。


乃亜。最初に近くに来てくれた人。匿名投稿の時、悪くないと言ってくれた人。


その乃亜に、今日のことを言えない。


蓮と会ったこと。璃子が調整してくれたこと。お前といると楽だ、と言われたこと。他の人には言えないと言われたこと。こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれないと言われたこと。


言いたい。言いたかった。


でも、乃亜には言えない。言えば、乃亜を傷つける。この夜を汚されたくない。そして、たぶん、自分が上に行ったことを認めたくないから。


美緒は、入力欄に指を置いた。


佐倉美緒:

「今日、蓮さんと少し話しました」


そこまで打って、止まる。


続きはどうするのだろう。


大丈夫だった?何話したの?よかったね。


乃亜がそう返してきたら。美緒は、どこまで言うのだろう。


言えない。それを言った瞬間、美緒は乃亜の前で完全に違う場所へ行ってしまう気がした。


消す。


入力欄が空になる。美緒は、その白い空白をしばらく見つめた。


乃亜に言えないことが、また一つ増えた。


その時、乃亜から通知が来た。


三枝乃亜:

「今日、何してた?」


美緒は、息を止めた。


今日、何してた?


何でもない質問だった。普通なら、仕事だった、と返せる。ちょっと用事、とごまかせる。


でも今は、その質問がまっすぐ刺さった。


今日、何してた?


蓮と会っていた。璃子が整えてくれた場所で。天城蓮と二人で話していた。


蓮は疲れていた。弱音を吐いた。自分に、楽だと言ってくれた。


そう答えられたら、どれだけ楽だろう。でも、送れなかった。


美緒は入力欄を開いた。


佐倉美緒:

「ちょっと用事があって」


打つ。消す。


佐倉美緒:

「璃子さんに」


そこまで打って、すぐ消した。璃子の名前を出したら、もう隠せない。


美緒は、スマホを握ったまま動けなかった。


既読はつけてしまった。乃亜には、見えている。美緒が読んだこと。読んだのに、返さないこと。


少しして、乃亜からもう一通来た。


三枝乃亜:

「大丈夫?」


美緒の胸が痛んだ。


大丈夫。乃亜は、まだ心配してくれている。


それなのに、美緒は何も返せない。返せば、嘘になる。本当のことを言えば、壊れる気がする。


美緒は、画面を暗くした。


返信しなかった。ベッドの上で、スマホを伏せる。


部屋は静かだった。


蓮の声が、まだ残っている。


お前といると楽だ。他の人には言えない。こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。


その言葉は甘かった。甘くて、温かくて、身体の奥に沈んでいく。


でも、伏せたスマホの向こうには、乃亜の未返信が残っている。


今日、何してた?


大丈夫?


美緒は、目を閉じた。


蓮の言葉を抱きしめたい。でも、乃亜の言葉がそこに影を落とす。


言えば傷つける。言わなければ、隠し事になる。どちらを選んでも、もう同じ場所には戻れない。


美緒は、布団の上で小さく息を吐いた。


今夜のことは、秘密にしたい。


そう思った。


蓮のために。自分のために。そして、乃亜を傷つけないために。


その三つは、同じようで、少しずつ違っていた。


美緒は、その違いに気づかないふりをした。


スマホは、もう震えなかった。


それが少しだけ、怖かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ