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第46話【私にしか見せない顔】

最初に見えたのは、柔らかい照明だった。


ホテルの奥にある小さな個室。ソファと低いテーブル。壁際に置かれた水のボトル。窓には厚いカーテンが引かれている。


生活の匂いはなかった。


夫婦の部屋ではない。誰かの家でもない。使う人が変われば、すぐに別の時間へ戻せる場所。


それでも、そこに天城蓮がいた。


美緒は、足を止めた。


蓮はソファに深く座っていた。テレビやイベントで見る時の、背筋の伸びた笑顔ではなかった。髪も服も整っている。でも、表情が少し薄い。


目の下に疲れがあった。ジャケットは脱いで、隣に置かれている。シャツの首元が少しだけ緩められていた。腕時計のベルトを、指で何度か触っている。


その人が、今は少し疲れて見えた。それだけで、美緒の胸がいっぱいになった。


「来てくれてありがとう」


蓮が言った。声は、テレビよりも少し低かった。


美緒は慌てて頭を下げる。


「こちらこそ……ありがとうございます」


何に対してのありがとうございますなのか、自分でもよく分からなかった。呼んでくれて。会ってくれて。見てくれて。まだ妻でいさせてくれて。


その全部が、言葉の中に詰まってしまう。


蓮は、少しだけ笑った。


「座って」


「あ、はい」


美緒は向かいのソファに座った。


距離は近すぎない。でも、初めて呼ばれた時よりは少し落ち着いている。


あの時は、呼ばれたこと自体に舞い上がっていた。名前を呼ばれた。少し仕事のことを聞かれた。それだけで、世界が変わった気がした。


今日は違う。話さなければいけないことがある。


匿名投稿。下位妻グループ。乃亜。離婚申請ページ。


美緒は、バッグを膝の上で握った。


蓮がペットボトルの水を手に取る。


「璃子から聞いた」


その一言で、美緒の胸が少し鳴った。


璃子から。やっぱり、璃子が動いてくれたのだ。


「少し話した方がいいって」


蓮はそう言って、水を一口飲んだ。


美緒は、小さくうなずいた。


「璃子さんには……本当に、助けていただいて」


「うん」


蓮は、疲れたように笑った。


「璃子はそういうの、ちゃんとしてるから」


その言い方は、少し軽かった。けれど美緒には、璃子への信頼のようにも聞こえた。


璃子が言っていた。あなたは大事にされているのよ。


今、美緒はその言葉の続きにいる。蓮と話せるように整えられた、この部屋にいる。


美緒は、膝の上の手に力を入れた。


「私……」


口を開く。蓮がこちらを見る。


その目を見た瞬間、言葉が止まった。


少し疲れている。でも、ちゃんとこちらを見ている。それだけで、胸が詰まる。


「匿名のことで……」


そこまで言って、止まった。


何を言えばいいのだろう。


古妻ノートで、第13とか、居酒屋勤務とか書かれました。下位妻グループが怖くなりました。乃亜を疑いたくないのに、疑ってしまいます。配偶登録解除のページを開きました。


全部、重い。


蓮は忙しい。この顔を見れば分かる。たくさんの仕事をして、たくさんの人に見られて、妻たちのことも、子どもたちのことも抱えている。


その人に、自分の不安を全部置いていいのだろうか。


蓮は、ペットボトルをテーブルに置いた。


「ごめんな」


美緒は顔を上げた。


「え」


「最近、ちゃんと見れてなかったかもしれない」


その言葉で、美緒の胸が強く鳴った。


ちゃんと見れてなかったかもしれない。


謝罪の形をしていた。でも、はっきりした謝罪ではない。何に対してなのかも、少し曖昧だった。


それでも、美緒には十分だった。


蓮さんは、気づいてくれている。そう思った。


「そんなこと……」


美緒はすぐに言った。


「蓮さん、忙しいですし」


自分でも驚くくらい、早く出た言葉だった。


責めるつもりはなかった。責めたら、蓮が離れていく気がした。


璃子の声が、頭の奥で静かに響く。


責めていたら、きっと蓮は離れていった。だから私は、受け入れる方を選んだの。


美緒は、その言葉を思い出していた。


自分も、そうしなければいけない。蓮を責める側ではなく、受け入れる側でいたい。


「忙しいのは、まあ」


蓮は少し笑った。


「忙しいな」


冗談のような言い方だった。でも、その笑いはすぐに薄くなった。


蓮は背もたれに身体を預け、天井を見るように少し顔を上げた。


「疲れた」


ぽつりと、その言葉が落ちた。


美緒は、息を止めた。


テレビの中で、完璧に笑う人。舞台挨拶で、何を聞かれても穏やかに答える人。ファンに向かって手を振る人。制度利用著名人として、新しい家族の象徴みたいに扱われる人。


その人が、今、美緒の前で疲れたと言った。


美緒は、さっきまで用意していた言葉を忘れた。


匿名投稿のこと。下位妻グループのこと。乃亜のこと。離婚申請ページのこと。


全部が少し遠のく。


今、目の前にいるのは、疲れた蓮だった。


「蓮さん……」


名前を呼ぶだけで、声が小さくなる。


蓮は視線を戻した。


「誰に何を言ってもさ」


少し間があく。


「結局、蓮さんなら大丈夫って言われるんだよな」


美緒は何も言えなかった。


「俺だって、全部ちゃんとできてるわけじゃないんだけど」


蓮は軽く笑った。でも、その笑いは自嘲に近かった。


「制度の顔みたいに扱われるの、たまにしんどい」


美緒の胸が痛くなった。


制度の顔。


客たちが居酒屋で話していた言葉を思い出す。天城蓮なんて、もう十二人いるんだろ。制度利用著名人世帯。新しい家族形成の先進事例。


あの時、美緒はまだ、その会話の中に入れることが嬉しかった。天城蓮の人生に、自分も入る。そう思っていた。


でも蓮は、その全部を背負わされている人でもある。


「どこに行っても」


蓮は続けた。


「ちゃんとしてる天城蓮でいなきゃいけないし」


その言葉は、静かだった。大げさな愚痴ではない。誰かを責める声でもない。本当に少し漏れた、という感じだった。


だからこそ、美緒には刺さった。


ちゃんとしてる天城蓮。


その言葉の外側に、今の蓮がいる。


疲れていて、ジャケットを脱いでいて、ペットボトルの水を飲んで、少しだけ弱音を吐く蓮。


テレビではない顔。ファンに見せる顔ではない顔。


妻たち全員に見せる顔なのかは分からない。


でも今、美緒はその顔を見ている。


美緒は、自分の不安を言えなくなった。


言えば、この疲れた人にまた何かを背負わせることになる。


それは嫌だった。


蓮を支えたい。そう思った。


さっきまで助けてほしかったのに。今は、支える側にいたかった。


「蓮さんは、ちゃんとしてます」


美緒は言った。


言ってから、少しだけ浅い言葉だと思った。でも、他に何を言えばいいか分からなかった。


「少なくとも、私は……そう思ってます」


蓮が、美緒を見る。


その視線に、美緒の心臓が跳ねた。


「私、蓮さんのこと、ちゃんと分かってるわけじゃないと思います」


美緒は、言葉を選びながら続けた。


「でも、蓮さんが全部一人で受け止めなくていいっていうか」


自分で言いながら、璃子の言葉に似ていると思った。


一人で抱えなくていい。


その言葉を、今度は美緒が蓮に向けている。


少し恥ずかしくなった。でも、蓮は笑わなかった。


「……そう言ってくれると、助かる」


低い声だった。


美緒は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


助かる。蓮がそう言った。自分の言葉で、少しでも楽になってくれたのかもしれない。


そう思うだけで、美緒の中にあった黒いものが、少し甘く溶けていく。


蓮は、しばらく黙っていた。それから、少しだけ目を伏せる。


「お前といると楽だ」


美緒は、息を止めた。


その言葉が、部屋の中に静かに残った。


蓮は、何か特別な台詞を言ったつもりではないのかもしれない。疲れていて、少し弱っていて、ただ目の前にいる美緒にそう言っただけかもしれない。


でも、美緒には、世界が少し止まったように感じた。


お前といると楽だ。自分といると。蓮さんが。楽。


美緒は、膝の上の手を握った。


「私で……いいんですか」


聞いてしまった。重い。そう思った。でも、もう言葉は出ていた。


蓮は少しだけ笑った。


「そういうとこ」


「え」


「そんなに構えなくていい」


蓮の声はやわらかかった。


「他の人には言えないことも、あるし」


美緒は、蓮を見つめた。


他の人には言えないこと。その中に、自分がいる。


美緒は、その意味をゆっくり受け取った。


上位妻にも。中位妻にも。下位妻にも。ファンにも。事務所にも。


他の人には言えないことを、自分には言ってくれる。そう思った。そう思いたかった。


蓮は、少しだけ視線を外した。


「こういう顔を見せられるのは」


間があった。


「お前だけかもしれない」


美緒の胸の奥が、音を立てて崩れた。


お前だけかもしれない。


それは断定ではない。かもしれない。曖昧で、逃げ道のある言葉。


でも、美緒には十分だった。いや、十分すぎた。


お前だけ。その部分だけが、強く残った。


第13妻。下位妻。居酒屋勤務。名前のない悪意。


そういう言葉が、頭の奥から少しずつ遠ざかる。


今の美緒は、それらではなかった。


蓮が楽だと言ってくれる人。他の人には言えないことを聞いた人。こういう顔を見せられるのはお前だけかもしれない、と言われた人。


それだけで、身体の中にあった不安が甘く変わっていく。


「私でよければ」


美緒は言った。声が震えないようにした。


「いつでも、聞きます」


蓮は、少しだけ笑った。


「ありがとう」


その一言で、美緒はまた救われた気がした。


相談しに来たはずだった。助けてほしかった。匿名投稿が怖い。下位妻グループが怖い。乃亜を疑いたくない。妻でいるのが苦しい。でも妻をやめるのも怖い。そう言うつもりだった。


でも今、美緒は言わなかった。


言えなかったのではない。言わなくていい気がした。


自分の不安よりも、蓮の疲れた顔の方が大事だった。


蓮さんを支えたい。蓮さんにとって楽な人でいたい。


そう思った。


その思いが、あまりにも甘かった。


美緒は、目の前の蓮を見つめた。


この顔を見せてもらえた。この弱音を聞かせてもらえた。自分は、ちゃんと大事にされている。


璃子さんが言っていたことは、本当だった。


あなたは大事にされているのよ。


その言葉が、蓮の声と重なる。


お前といると楽だ。他の人には言えない。こういう顔を見せられるのは、お前だけかもしれない。


美緒は、胸の奥でその言葉を何度も繰り返した。


もう、離婚申請ページのことは言えなかった。


言わなくてもいいと思った。


蓮さんが、自分を必要としてくれている。


その感覚だけで、今は十分だった。

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