第45話【面会予定が調整されました】
蓮と話せる。
その予定が入っただけで、美緒の部屋の空気は少し変わった。
スマホの画面には、配偶者用アプリの通知が表示されている。
【面会予定が調整されました】
【対象者:天城 蓮】
【指定時刻:本日 21:00】
【指定場所:個別案内をご確認ください】
【本通知内容の外部共有は禁止されています】
美緒は、その文字を何度も読んだ。
事務的な言葉だった。でも、その事務的な枠の中に、蓮と会える時間が入っている。
それだけで、胸の奥が少し熱くなった。
少し前に届いた短いメッセージを思い出す。
最近、無理してない? 無理すんなよ。
あの二つの文だけで、美緒は配偶登録解除の画面を閉じた。
璃子は言った。
あなたは大事にされているのよ。少し、蓮とゆっくり話せるようにしておくわ。
そして本当に、予定が入った。
璃子は動いてくれた。美緒のために。
そう思うと、胸の奥にあった不安が、少しだけ甘く変わる。
下位妻グループはまだ開けない。乃亜にも、何も言えていない。古妻ノートの投稿も消えていない。真帆の言葉も残っている。
救われたと思った?それ、たぶん順番。
その声は、まだ完全には消えていない。
でも、今は璃子の言葉の方が強かった。
あなたには、今それが必要だと思うから。
璃子はそう言ってくれた。蓮と話すことが、今の美緒に必要だと分かってくれた。
美緒はスマホを胸の近くに引き寄せた。
大事にされている。その言葉を信じたかった。
美緒はクローゼットを開けた。
何を着ていけばいいのか、しばらく分からなかった。
初めて呼ばれた時は、ただ綺麗に見られたかった。初めて呼ばれる夜で、胸が浮いていた。何を着ても足りない気がして、何度も鏡の前に立った。
今日は違う。
蓮に会えることは嬉しい。でも、ただ嬉しいだけではない。
話さなければいけないことがある。
匿名投稿が怖いこと。下位妻グループを開けないこと。乃亜を疑いたくないのに、疑ってしまうこと。配偶登録解除のページを開いたこと。第13妻でいるのが苦しいこと。でも、妻をやめるのも怖いこと。
本当は、全部話した方がいいのだと思う。璃子も言っていた。
一人で抱えなくていい。一人で決めないで。
だから、蓮にも話していいはずだった。夫なのだから。
美緒はそう思おうとした。
でも、鏡の前に立つと、言葉は少しずつ小さくなっていった。
そんな話をしたら、重いだろうか。
匿名投稿が怖い。下位妻グループが怖い。乃亜を信じられない。離婚申請ページを開いた。
そんなことを、久しぶりに会う相手に全部話す妻。面倒だと思われないだろうか。
第13妻なのに。非公表で、下位で、まだ入ったばかりで。
蓮には、他にも妻がいる。仕事もある。撮影も、取材も、イベントもある。
その中で、自分の不安を全部差し出していいのだろうか。
美緒は、手に取ったブラウスを戻した。少し明るすぎる気がした。
次に、落ち着いた色のワンピースを出す。地味すぎるだろうか。
助けてほしい。でも、可愛いと思われたい。苦しい。でも、重い女だとは思われたくない。
その全部が、同じ身体の中にある。
美緒は、結局、派手すぎないブラウスとスカートを選んだ。
鏡の前で髪を整える。泣いた跡は、もうない。でも、目元は少し疲れて見えた。
リップを塗るか迷って、薄い色を選ぶ。濃すぎると、会いに行く気持ちが出すぎているような気がした。薄すぎると、疲れて見える。
美緒は鏡の中の自分を見た。
佐倉美緒。第13配偶者。天城蓮の妻。
でも、この部屋の中に、その証はスマホしかない。
美緒はバッグにスマホを入れかけて、もう一度取り出した。
乃亜とのチャットを開く。
最後の会話が残っている。
美緒ちゃんは悪くないよ。
その言葉を見ると、胸が少しだけ痛くなる。
乃亜に言うべきだろうか。
今日、蓮さんと会うことになった。璃子さんが調整してくれた。少し話してくるね。
そう送れば、乃亜はどう返すだろう。
よかったね、と言うかもしれない。大丈夫?と聞いてくれるかもしれない。また少し、返事が遅れるかもしれない。
それを想像しただけで、美緒は送れなくなった。
言えば、乃亜を傷つける。言わなければ、隠し事になる。どちらを選んでも、少しずつ離れる。
美緒は、入力欄に何も打たずにチャットを閉じた。
下位妻グループも開かなかった。麻衣の明るさも。千紗の毒も。琴葉の優しさも。乃亜の短い言葉も。今は、全部受け止められる気がしなかった。
美緒は、代わりに璃子とのチャットを開いた。
久我璃子:
「無理に全部を話そうとしなくて大丈夫」
久我璃子:
「ただ、彼の顔を見たら、少し落ち着くと思うわ」
彼の顔を見たら。
その言葉だけで、少し息がしやすくなる。
美緒は返信欄を開いた。
佐倉美緒:
「行ってきます」
それだけ打って、少し迷った。子どもみたいだろうか。でも、璃子に言いたかった。璃子が整えてくれた時間へ行くことを。
美緒は送信した。すぐに既読がつく。
久我璃子:
「いってらっしゃい」
その一文に、美緒はまた少しだけ救われた。
いってらっしゃい。妻の家族みたいな言葉。それを第一妻からもらっている。
美緒はスマホをバッグに入れた。
部屋を出る前に、もう一度鏡を見る。
不安は消えていない。でも、行ける。
今度こそ、話せるかもしれない。匿名投稿のことも。下位妻グループのことも。乃亜のことも。離婚申請ページのことも。
蓮に会えば、何かが分かるかもしれない。蓮が自分を見てくれれば、まだ大丈夫だと思えるかもしれない。
美緒は靴を履き、部屋の電気を消した。
外の空気は少し冷たかった。
駅へ向かう道を歩きながら、バッグの中のスマホを何度も意識した。通知は鳴らない。それでも、美緒は画面を確認しなかった。
今は見たくなかった。古妻ノートも。下位妻グループも。乃亜のチャットも。
今だけは、蓮へ向かう自分でいたかった。
指定された場所は、ホテル内の小さな個室だった。
大きなラウンジの奥にある、目立たない扉。外からは何の部屋か分からない。スタッフは慣れた様子で、美緒の名前を確認した。
「佐倉美緒様ですね」
天城ではない。美緒は小さくうなずいた。
「はい」
案内された廊下は静かだった。絨毯が靴音を吸っていく。照明はやわらかい。
夫婦の家ではない。生活の匂いはない。
それでも、蓮と会う場所だった。璃子が整えてくれた時間。
美緒は扉の前で立ち止まった。
ここで、話す。
そう思った。
怖いことを。言えなかったことを。妻でいるのが苦しいことを。
でも同時に、別の思いもあった。
綺麗に笑いたい。蓮に会った瞬間、暗い話ばかりする妻にはなりたくない。
美緒は、小さく息を吸った。
スタッフが扉を軽くノックする。中から、短い返事が聞こえた。
その声だけで、美緒の胸が鳴った。
天城蓮の声。
美緒は、バッグの持ち手を握りしめた。
話さなければいけないことがある。
でもその前に、会える。その事実だけで、さっきまで抱えていた言葉が少しずつ遠くなる。
扉が開いた。




