第44話【楽な方へ歩いた】
美緒は、ロビーの隅へ少し移動した。
外へ出るには、まだ少し時間が必要だった。
真帆の言葉が、胸の中に残っている。
救われたと思った?
それ、たぶん順番。
あなたにだけ優しいわけじゃないから。
その一つ一つが、璃子の言葉の上に薄く重なってくる。
でも、美緒はそれ以上に、璃子の声を思い出そうとした。
あなたは大事にされているのよ。
一人で決めないで。
今すぐならなくていいの。
璃子の声を、上から重ねる。
真帆の声を消すように。
スマホが震えた。
美緒は反射的に画面を見た。
久我璃子。
胸が少し跳ねる。
通知を開く。
久我璃子:
「今日はありがとう」
久我璃子:
「少し、蓮とゆっくり話せるようにしておくわ」
美緒は、画面を見つめた。
息が止まった。
少し、蓮とゆっくり話せるようにしておくわ。
その一文で、真帆の言葉が少し遠のいた。
蓮と話せる。
天城蓮と。
少し前に届いた短いメッセージ。
最近、無理してない?
無理すんなよ。
あの一文だけで、美緒は配偶登録解除の画面を閉じた。
でも、まだ足りなかった。
本当に見てくれているのか。本当に大事にされているのか。自分はまだ、妻でいていいのか。
蓮と話せるなら。
今度こそ、少しは聞けるかもしれない。
美緒は、返信欄を開いた。
佐倉美緒:
「え……いいんですか」
すぐに既読がつく。
璃子から返事が来た。
久我璃子:
「あなたには、今それが必要だと思うから」
美緒は、その文を何度も読んだ。
あなたには、今それが必要。
璃子は分かってくれている。
美緒が何を必要としているのか。蓮と話すことが、今の美緒にとってどれだけ大きいのか。
美緒は、真帆の言葉を思い出した。
救われたと思った?
それ、たぶん順番。
違う。
美緒は心の中で否定した。
これは順番ではない。璃子さんは、私のために動いてくれている。少なくとも、今は。
美緒は、そう信じたかった。
佐倉美緒:
「ありがとうございます」
それだけ送った。
他に何を書けばいいのか分からなかった。
璃子からは、少し間を置いて返事が来た。
久我璃子:
「無理に全部を話そうとしなくて大丈夫」
久我璃子:
「ただ、彼の顔を見たら、少し落ち着くと思うわ」
美緒は、その文を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
彼の顔を見たら。
天城蓮の顔。
画面越しではなく。通知でもなく。短い文字でもなく。
会って、話す。
美緒は、その想像だけで少し息がしやすくなった。
真帆の声は、まだ完全には消えていない。
あなたにだけ優しいわけじゃないから。
救われたと思った?
それ、たぶん順番。
それでも、璃子の言葉の方が今は強かった。
少し、蓮とゆっくり話せるようにしておくわ。
あなたには、今それが必要だと思うから。
美緒は、スマホを胸の近くに引き寄せた。
第1妻が、自分のために動いてくれる。
夫と話せる時間を作ってくれる。
それは、ただの順番ではない。
そう思いたかった。
ホテルの自動扉が開く。
外の空気は少し冷たかった。
美緒はゆっくり歩き出した。
下位妻グループは、まだ開けない。
乃亜にも、まだ何も言えない。
古妻ノートの投稿も、消えていない。
真帆の言葉も、胸に残っている。
でも、蓮と話せる。
璃子が作ってくれた時間で。
そのことだけで、美緒はまた少し前に進める気がした。
救われたのかもしれない。
あるいは、また戻されているだけなのかもしれない。
美緒には、まだ分からなかった。
ただ今は、璃子の言葉を信じる方が楽だった。
そして美緒は、楽な方へ歩いた。




