第43話【それ、たぶん順番】
璃子との面談が終わった後、美緒はしばらく席を立てなかった。
水はもう、すっかりぬるくなっていた。璃子のカップも、ほとんど空になっている。それでも、ラウンジの空気は静かなままだった。
誰にも言わないでね。
私も、怖かったの。
若い子が現れるたびに、もう終わりかもしれないって思った。
子どもは、誰のお腹から生まれたかだけじゃないと思うの。
そう思うようにしているの。
璃子の言葉が、美緒の中で何度も繰り返されていた。
第1妻でも怖い。第1妻でも傷つく。第1妻でも、そう思うようにしなければ立っていられない。
そのことを知っただけで、美緒は少しだけ救われた気がした。
璃子は遠い人ではなかった。
上にいて、整っていて、何もかも分かっているように見える人。でも、本当は怖かった人。若い妻が入ってくるたびに、自分が過去になる気がした人。子どもがいない痛みを、綺麗な言葉に変えて立っている人。
美緒は、その弱さを自分だけに見せてもらえたのだと思った。
誰にも言わないでね。
璃子はそう言った。
それは、美緒に秘密を預ける言葉だった。
下位妻グループではない。
乃亜でもない。
第13妻の美緒に、第1妻が自分の怖さを話してくれた。
そのことが、胸の奥で静かに光っていた。
「今日は、ありがとうございました」
美緒がようやくそう言うと、璃子はやわらかく微笑んだ。
「来てくれてよかったわ」
その声に、美緒はまた少し泣きそうになった。
来てくれてよかった。
下位妻グループにも戻れず、凛にも言えず、乃亜を疑いたくないのに疑ってしまい、離婚申請ページを開いてしまった。
そんな自分でも、ここへ来てよかったのだと思えた。
美緒は頭を下げ、席を立った。
ラウンジを出ると、ホテルのロビーは少しだけ明るく感じた。
来た時は、自分が場違いに思えた。上位妻側の場所。声を落として話す場所。
でも今は、少しだけ違って見えた。
ここは、自分が逃げ込める場所かもしれない。
少なくとも、今の美緒にはそう見えた。
そう思った時、背後から声がした。
「救われたと思った?」
美緒は足を止めた。
振り返る。
少し離れたロビーのソファの近くに、相良真帆が立っていた。
淡い色のジャケット。ゆるく巻かれた髪。どこか退屈そうな目。
第5妻。
説明会の時にも、同じような目で美緒を見ていた人。
第1さん、またお気に入りを作ったんだ。
あの言葉を、美緒はまだ覚えている。
真帆は、笑っていなかった。怒っているわけでもない。見下しているわけでもない。ただ、少し冷めた顔をしている。
「え……」
美緒は、うまく返せなかった。
真帆は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「それ、たぶん順番」
美緒は、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
順番。
璃子が話を聞いてくれたこと。あなたは悪くないわ、と言ってくれたこと。あなたは大事にされているのよ、と言ってくれたこと。誰にも言わないでね、と弱さを見せてくれたこと。
それが、順番。
美緒の胸の奥が、少し冷えた。
「どういう意味ですか」
聞くつもりはなかった。
でも、声が出ていた。
真帆は肩をすくめた。
「そのままの意味」
「私、何かしましたか」
美緒の声は、自分で思ったより硬かった。
真帆は、美緒を責めているようには見えなかった。
でも、その言葉は璃子の優しさに水を差していた。
それが嫌だった。
せっかく、少し息ができるようになったのに。せっかく、璃子を信じられると思ったのに。
「別に」
真帆は言った。
「あなたが何かしたって話じゃない」
「じゃあ、どうして」
「第一さん、ああいうの得意だから」
真帆は、ロビーの奥へ視線を流した。
「下から上がってくる子を見るの」
美緒は、言葉を失った。
下から上がってくる子。
それは、自分のことだろうか。第13妻。下位妻。匿名投稿で傷つき、下位妻グループに戻れず、第一妻に相談した子。
その言い方が嫌だった。
まるで、自分が何かの型にはまっているみたいだった。
まるで、璃子の優しさが、美緒だけへ向けられたものではないみたいだった。
「璃子さんは、本当に優しかったです」
美緒は言った。
真帆は、少しだけ目を細めた。
「知ってる」
その返しが、また嫌だった。
知ってる。
まるで、真帆も知っているみたいに。璃子の優しさを。璃子に救われる感覚を。その後に来る何かを。
「だから言ってるんだけど」
真帆は、声を低くしなかった。大げさにも言わなかった。ただ、普通に言った。
「大丈夫。あの人、あなたにだけ優しいわけじゃないから」
美緒は、胸の奥を押されたようになった。
あなたにだけ優しいわけじゃない。
そんなことは、分かっている。
璃子は第一妻だ。妻コミュニティの管理者だ。下位妻にも、中位妻にも、きっと同じように優しくする。
分かっている。
それでも。
誰にも言わないでね。私も、怖かったの。
あの時の声は、美緒に向けられていた。
美緒だけが見たものだと思いたかった。
「そんな言い方、しないでください」
美緒は言った。声が少し震えていた。
真帆は、美緒のその反応に驚いたようには見えなかった。
「最初はみんな、そう思うのよ」
「みんな?」
美緒は聞き返した。
真帆は答えなかった。
それ以上、説明する気はないようだった。
ただ、バッグを持ち直し、エレベーターの方へ歩き出す。
すれ違いざま、真帆は短く言った。
「気持ちいいでしょ、第一さんに分かってもらえるの」
美緒は、何も言えなかった。
真帆は振り返らなかった。
その背中がロビーの人混みにまぎれていく。
美緒は、その場に立ったままだった。
救われたと思った?
それ、たぶん順番。
言葉だけが残る。
美緒は、ぎゅっとスマホを握った。
嫌だった。
その言い方が嫌だった。
まるで、自分が何かに騙されたみたいに聞こえた。
璃子さんは、そんな人ではない。
そう思った。
少なくとも、美緒に向けてくれた言葉は本物だった。
あなたは悪くないわ。あなたは大事にされているのよ。私も、怖かったの。誰にも言わないでね。
あれを、順番なんて言葉にされたくなかった。
たとえ璃子が、他の妻にも優しくしているとしても。過去に誰かへ似たようなことを言っていたとしても。
それでも、今日の言葉は美緒に向けられたものだった。
美緒はそう思いたかった。
そう思わなければ、さっきまで救われた自分が、急に惨めになる。
璃子の弱さを聞いて、胸を震わせた自分が。
第1妻に秘密を預けられたと思った自分が。
もう少しここにいてもいいと思った自分が。
全部、順番だったことになる。
それは嫌だった。




