第42話【誰にも言わないでね】
璃子の言葉を信じたい。
蓮が自分を見ていることも。自分が大事にされていることも。まだ妻でいていいことも。
自分ではもう、うまく判断できない。
だから、璃子の言葉に預けたかった。
ラウンジの静けさが、少しずつ身体に馴染んでいく。
外の席では、誰かが小さな声で話している。カップがソーサーに触れる音がする。スタッフが足音を立てずに通り過ぎる。
美緒の前には、まだ手をつけていない水があった。
璃子は、少しだけカップに視線を落とした。
それまでずっと、美緒の話を受け止めてくれていた人が、初めて自分の内側へ目を向けたように見えた。
「美緒さん」
璃子が言った。
「はい」
美緒は、背筋を少し伸ばした。
璃子はすぐには続けなかった。小さな間があった。
その沈黙だけで、美緒は何か大事なことを言われるのだと分かった。
「誰にも言わないでね」
璃子は、静かに言った。
美緒は息を止めた。
誰にも言わないでね。
その一言が、胸の奥にまっすぐ入ってきた。
第一妻が、自分にだけ話してくれる。
そう感じた。
第13妻の美緒に。下位妻の自分に。まだ入ったばかりで、何も分からなくて、匿名投稿ひとつで崩れそうになっている自分に。
久我璃子が、秘密を預けようとしている。
美緒は、思わずうなずいた。
「言いません」
声が少し硬かった。璃子は、その硬さを責めるような顔をしなかった。ただ、少しだけ目元をやわらかくした。
「私も、怖かったの」
美緒は、すぐには意味が分からなかった。
璃子が怖かった。
第一妻が。妻コミュニティの一番上にいる人。落ち着いていて、何もかも分かっているように見える人。あなたは大事にされているのよ、と言ってくれた人。
その璃子が、怖かったと言う。
「若い子が現れるたびに」
璃子はゆっくり続けた。
「もう終わりかもしれないって思ったわ」
美緒は、何も言えなかった。
若い子。
その言葉の中に、自分も入っているのだと分かった。
天城蓮の周りへ、後から後から入ってくる妻たち。璃子は、その一人一人を見てきたのだ。
「蓮は優しい人だから」
璃子の声は穏やかだった。
「惹かれる人がいるのも、分かってしまうでしょう」
美緒は、天城蓮の顔を思い出した。
少し疲れた笑顔。短い言葉。美緒、と呼んだ声。最近、無理してない?という一文。
優しい人。
そう思いたかった。璃子の口からそう言われると、蓮の優しさが本物のように見える。
「でも、責めていたら」
璃子は、カップの縁に指を添えた。
「きっと蓮は離れていった」
その言葉は、静かだった。
静かなのに、少しだけ重かった。
責めていたら、離れていった。
美緒は、その意味を考えた。
第一妻でも、責められないのだ。
夫に若い妻が増えても。別の人に優しくしても。自分の知らないところで、誰かを呼んでいても。
責めたら、離れていく。
第一妻でさえ、そう思っていた。
その事実に、美緒の胸が少し冷えた。
でも同時に、璃子が近くなった気もした。
勝者ではない。
璃子も怖かった。
蓮が離れていくことを恐れていた。
「だから私は、受け入れる方を選んだの」
璃子は言った。
受け入れる方。
若い妻を。新しい妻を。蓮が優しくする相手を。
受け入れる。
それは、強い人の言葉に聞こえた。
でも、強いだけではなかった。
諦めにも似ていた。
自分を守るための形にも見えた。
「若い頃は、見られることで仕事をしていたから」
璃子は、少しだけ笑った。
「見られなくなる怖さも、少しは知っているつもり」
美緒は、その言葉に胸をつかまれた。
見られることで価値がある時間。
それが少しずつ遠くなっていく感覚。
美緒には、まだ全部は分からない。
でも、怖いのだろうと思った。
「若い子が入ってくるたびに」
璃子は、視線を少し窓の方へ向けた。
「自分が過去になる気がした」
その言葉に、美緒は胸を押されたようになった。
第一妻なのに。一番最初に選ばれた人なのに。
璃子は、自分が過去になることを恐れていた。
美緒は、さっきまで自分が第13妻として苦しんでいたことを思い出した。
下位妻。呼ばれ待ち。居酒屋勤務。第一さんに拾われた子。
自分は下にいるから苦しいのだと思っていた。
でも、上にいても苦しい。
第一妻でも怖い。
美緒は、そのことを初めて実感した。
「子ども狙いって、書かれていて」
気づくと、美緒はそう言っていた。
璃子が、静かに美緒を見る。
美緒は、手元のグラスに視線を落とした。
「私、そんなつもりで言ったわけじゃなくて」
声が少し小さくなる。
いつか、あの人の子どもが欲しい。
凛に言った言葉。
ファンの妄想だと分かっている。笑わないでよ、と言った。でも本当だった。
子どもという言葉は、その全部につながっていた。
でも、匿名投稿では違うものになった。
子ども狙い。蓮の子ほしい系。怖い。
「そんなふうに言われるようなことだったのかなって」
璃子は、すぐには答えなかった。少しだけ間があった。
その間に、美緒は思い出した。
久我璃子には、子どもがいない。
急に、身体が固くなる。
「すみません」
思わず言った。
璃子は、首を横に振った。
「謝らなくていいの」
その声は、少しだけ遠かった。
怒ってはいない。傷つけられた顔でもない。
でも、何も感じていないわけではない。
美緒には、そう見えた。
璃子は、カップを持ち上げた。少しだけ口をつけて、静かに置く。
「子どもは」
璃子は言った。
「誰のお腹から生まれたかだけじゃないと思うの」
美緒は、顔を上げた。
璃子の表情は穏やかだった。
でも、その穏やかさの下に、何か硬いものがある気がした。
「家族だから」
璃子は続けた。
「みんなで育てる家族も、あっていいと思っていて」
その言葉は綺麗だった。整っていた。
でも璃子の声で聞くと、それはただの建前ではなかった。
建前にしようとしている痛みに聞こえた。
「そう思うようにしているの」
璃子は、少しだけ目を伏せた。
その一言で、美緒は息を止めた。
そう思うようにしている。
そう思っている、ではない。
努力している。自分に言い聞かせている。そうでなければ立っていられない。
そういう響きがあった。
「そう言える形にしておかないと」
璃子は、静かに言った。
「壊れてしまうから」
何が、とは言わなかった。
家族が。璃子自身が。天城蓮の家が。
どれも当てはまる気がした。
美緒は、何も言えなかった。
第一妻でも、傷つく。第一妻でも、怖い。第一妻でも、そう思うようにしなければ続けられない。
そのことが、美緒の中でゆっくり広がっていく。
璃子は勝者ではなかった。
少なくとも、美緒にはそう見えた。
若い妻が入るたびに怖かった人。見られなくなる怖さを知っている人。子どもがいないことを、きっと何度も飲み込んできた人。それでも受け入れる方を選んだ人。
この人は、制度に守られているだけの人ではない。
制度の中で、傷つきながら立っている人だ。
そう思った瞬間、美緒の中で、璃子への信頼がまた深くなった。
璃子さんも怖かった。
璃子さんも傷ついた。
それでもここにいる。
なら、自分ももう少しここにいていいのかもしれない。
「璃子さんは」
美緒は、小さく聞いた。
「ずっと、そうしてきたんですか」
璃子は少しだけ笑った。
「ずっと、ではないわ」
その笑みは、少し疲れていた。
「今でも、うまくできない時はあるもの」
美緒は、その答えに胸をつかまれた。
うまくできない時がある。
第一妻でも。
久我璃子でも。
誰にも言わないでね。
その言葉が、もう一度戻ってくる。
これは、自分だけに見せてくれた弱さなのだ。
美緒は、そう受け取った。
受け取りたかった。
「でも」
璃子は続けた。
「責めるより、受け入れる方が、私は楽だったの」
楽。
正しいから、ではない。
優しいから、でもない。
楽だった。
璃子は、自分を守るためにも受け入れたのだ。
美緒は、その人間らしさに、さらに惹かれた。
璃子が遠すぎない人に見えた。
第一妻で、上にいて、何もかも整えている人。でも、怖くて、傷ついて、楽な方を選んだ人。それでも、その選び方で家族を続けてきた人。
美緒は、手元のグラスを両手で包んだ。
水はもう、少しぬるくなっていた。
「私も」
声が小さくなる。
「そうなれるんでしょうか」
璃子は、美緒を見た。
すぐには答えなかった。
その間が、やさしかった。
「今すぐならなくていいの」
璃子は言った。
「でも、一人で決めないで」
美緒は、小さくうなずいた。
一人で決めない。
凛には言えなかった。乃亜には言えなかった。蓮には重い女だと思われたくなかった。
でも、璃子には言える。
璃子さんなら、聞いてくれる。そしてどうすればいいか教えてくれる。
そう思った。
それは救いだった。
少なくとも今の美緒には、救いだった。
璃子は、もう一度カップを持ち上げた。そして、ゆっくり置いた。
美緒は何も言えなかった。
第一妻でも、傷つく。
第一妻でも、怖い。
そう知ったことが、美緒を逃がすのではなく、もう少しここにいようと思わせた。




