第41話【あなたは悪くないわ】
「来てくれてよかった」
璃子の声は静かだった。大きくも、明るくもない。でも、その一言だけで、美緒の肩の力が少し抜けた。
ホテルラウンジの奥の席は、周りの声が遠かった。
白いカップ。小さな銀のスプーン。水滴のついていないグラス。柔らかい照明。
下位妻たちと飲んだ居酒屋とは、何もかも違っていた。
あそこでは、麻衣が笑っていた。千紗が刺した。琴葉がやわらかく止めた。乃亜が近くにいてくれた。
ここには、その近さがない。
代わりに、整った静けさがある。
その静けさの真ん中に、久我璃子がいた。
「顔、少し疲れているわね」
璃子は、美緒の顔を見てそう言った。
美緒は、その瞬間、泣きそうになった。
疲れている。
自分でも分かっていた。
でも、その言葉を誰かから静かに言われると、急に本当になる。
乃亜にも、大丈夫?と聞かれた。麻衣にも、休んだ方がいいと言われた。莉央にも、きついよね、と言われた。香澄にも、スクショを保存しておいてくださいと言われた。
でも璃子の声は、違った。
責めていない。急かしていない。探ってもいない。ただ、見ている。
そう感じた。
「すみません、急に」
美緒は頭を下げた。
「いいの」
璃子は、カップに手を添えたまま微笑んだ。
「一人で抱えなくていいって、言ったでしょう」
その言葉で、美緒の胸の奥がまた少し緩んだ。
美緒は席に座った。スタッフが水を置いていく。美緒はグラスに手を伸ばしたが、飲まなかった。
何から話せばいいのか分からない。
匿名投稿のこと。下位妻グループが怖くなったこと。乃亜を疑いたくないのに、疑いが消えないこと。蓮からの一文で、配偶登録解除の画面を閉じてしまったこと。
全部が絡まっている。
どこからほどけばいいのか分からなかった。
璃子は急かさなかった。
美緒が黙っていても、黙ったまま待っていた。
その沈黙が、怖くなかった。
美緒は、少しずつ話し始めた。
「古妻ノートに、投稿があって」
声が小さくなる。
璃子はうなずいた。
「見たのね」
「はい」
美緒はグラスの縁を見つめた。
「名前は出てないんです。でも、第13とか、居酒屋とか、匂わせとか……名前を呼ばれたとか」
言葉にすると、また画面の文字が戻ってきた。
第13。居酒屋勤務。匂わせ。名前呼ばれた。第一さんに拾われた。子ども狙い。
「私のことだって、分かるんです」
美緒は、そこで一度息を止めた。
言ってしまった。
画面の中で見ていたものを、声にしてしまった。
璃子は眉をひそめなかった。驚いた顔もしなかった。ただ、静かに聞いていた。
「怖かったわね」
璃子が言った。
美緒は、唇を噛んだ。
怖かった。
それだけだった。
それだけの言葉が、どうしてこんなに深く入ってくるのだろう。
「誰が見ているのか分からないのは、一番疲れるもの」
璃子の声は、変わらず穏やかだった。
「見ない方がいいって、みんな言ってくれました」
美緒は言った。
「でも、見ないと、何を言われているか分からなくて」
「そうね」
璃子はうなずいた。
「分からないままにしておく方が、怖い時もあるわ」
美緒は顔を上げた。
その言葉は、香澄の言葉とは違った。
香澄は正しかった。スクショは残る。保存しておいた方がいい。下位グループだから安全とは思わない方がいい。全部、正しかった。
でも、香澄の正しさは、美緒を温めなかった。
璃子の言葉は違う。
見てしまう自分を、責めなかった。
「下位妻グループも、怖くなってしまって」
美緒は、そこまで言ってから、言い過ぎたかもしれないと思った。
璃子は第一妻だ。妻コミュニティを管理する側にいる人。下位妻グループが怖いなんて言えば、誰かを悪く言っているように聞こえるかもしれない。
でも、璃子は表情を変えなかった。
「そう」
「誰かが悪いって、決めたいわけじゃないんです」
美緒は慌てて続けた。
「麻衣さんも、琴葉さんも、千紗さんも、乃亜ちゃんも、みんな……最初は本当に優しくて」
最初は。
その言葉が、自分で言っていて少し痛かった。
「乃亜ちゃんには、今でも相談したいです。でも、疑いたくないのに、疑ってしまって」
喉の奥が詰まる。
「私、最低ですよね」
璃子は、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置いた。
その間も、美緒を責めるものではなかった。
「最低ではないわ」
璃子は静かに言った。
美緒は、顔を上げた。
「怖くなった時に、近くにいる人を疑ってしまうことはあるの」
璃子は、美緒の目を見ていた。
「それは、その人を嫌いだからではなくて、その人が近いからよ」
美緒は、何も言えなかった。
乃亜が近かった。
だから疑ってしまった。
その言い方は、美緒の中の罪悪感を少しだけほどいた。
乃亜を疑った自分は、ひどい。そう思っていた。今も思っている。
でも、璃子の言葉を聞くと、それが少し別の形に見える。
嫌いだからではない。
近いから。
そう思うと、少しだけ呼吸ができた。
美緒は、迷いながら次のことを話した。
「あと」
言葉が出ない。
でも、ここまで来たのだから、言わなければいけない気がした。
「配偶登録解除のページを、開きました」
言った瞬間、心臓が強く鳴った。
璃子が怒るかもしれないと思った。どうして、と聞くかもしれない。手続きの前に相談して、と言われるかもしれない。
でも、璃子は怒らなかった。
「開いたのね」
それだけだった。
美緒は小さくうなずいた。
「押せませんでした」
声が震える。
「蓮さんから、メッセージが来て」
璃子の目が少しだけやわらかくなった。
「最近、無理してない?って」
美緒は、その一文を声にした。
自分で言うと、また胸の奥が熱くなる。
「それだけで、閉じてしまいました」
情けないと思った。
離婚しようとしていたのに。妻でいるのが怖かったのに。匿名の悪意も、下位妻グループの不信も、何も解決していないのに。
たった一文で、戻ってしまった。
「私、たぶん、おかしいんです」
美緒は言った。
「もう無理だと思ったのに、蓮さんから少し連絡が来ただけで、まだ大丈夫って思ってしまって」
璃子は、ゆっくり首を横に振った。
「おかしくないわ」
美緒は、息を止めた。
「あなたは悪くないわ」
その言葉が、静かに落ちてきた。
美緒は、動けなかった。
言ってほしかった。
ずっと。
乃亜も言ってくれた。美緒ちゃんは悪くないよ、と。
でも、乃亜の言葉には、どこかまだ疑いを挟んでしまった。本心なのか。慰めなのか。
璃子の言葉は違った。
第一妻が言う。
あなたは悪くない。
それだけで、罪悪感に少し蓋がされた気がした。
「でも、私、匂わせもしたし」
美緒は小さく言った。
「グループでも、名前を呼ばれたって言いました。第一妻に優しかったっていうのも……たぶん、少し浮かれてました」
言いながら、恥ずかしくなる。
「だから、言われても仕方なかったのかもしれません」
璃子は、美緒の言葉を最後まで聞いた。
「選ばれるって、嬉しいだけじゃないの」
璃子は言った。
美緒は顔を上げる。
「見られることと、晒されることは近いから」
その言葉に、美緒は少し震えた。
見られること。
美緒が欲しかったもの。
その他大勢ではなくなりたかった。天城蓮に見てほしかった。名前を呼ばれた夜を、少しだけ分かってほしかった。
晒されること。
匿名投稿。第13。居酒屋勤務。匂わせ。子ども狙い。
二つは別のものだと思っていた。
でも、近い。
璃子にそう言われると、初めてひとつの線でつながった気がした。
「選ばれた人は、見られるわ」
璃子は続けた。
「嬉しいこともある。怖いこともある。見てほしい時も、見られたくない時もある」
「だから、苦しくなるのは自然なことよ」
自然なこと。
美緒は、その言葉にも救われた。
自分が悪いからではない。弱いからではない。調子に乗ったからだけではない。
選ばれるということ自体が、嬉しいだけではない。
そう言ってもらえると、自分の苦しさが少しだけ正当なものに見えた。
「蓮さんは」
美緒は、恐る恐る聞いた。
「本当に、見てくれているんでしょうか」
聞いてから、すぐに後悔した。
こんなことを第一妻に聞くなんて。
でも、璃子は責めなかった。ただ、少しだけ微笑んだ。
「彼はちゃんと見てるわ」
美緒の胸が鳴った。
「全部を見られる人ではないかもしれない」
璃子は、静かに続けた。
「でも、あなたが無理をしていることには気づいたのでしょう」
美緒は、画面の中の一文を思い出した。
最近、無理してない?
無理すんなよ。
それだけだった。
でも、璃子が意味を与えると、急に確かなものに見えてくる。
「あなたは大事にされているのよ」
璃子は言った。
その一文で、美緒の中の何かが崩れた。
あなたは大事にされているのよ。
第13妻という番号が、少しだけあたたかくなる。
蓮の短いメッセージは、美緒の中で何度も形を変えていた。
本当に心配してくれたのか。ただの気まぐれだったのか。璃子に言われたからなのか。
分からなかった。
でも、璃子が言うなら。
あなたは大事にされているのよ。
それなら、信じていい気がした。
美緒は、目を伏せた。
泣かないように、手元のグラスを見た。
水面が少し揺れている。
自分の手が震えているのだと、少し遅れて分かった。
「私」
声がかすれる。
「大事にされてるんですか」
「ええ」
璃子は迷わず言った。
「少なくとも、あなたを放っておきたいなら、彼は連絡しないわ」
美緒は、そのまま受け取った。
受け取りたかった。
蓮さんは、放っておきたいわけじゃない。だから、連絡してくれた。
最近、無理してない?
無理すんなよ。
たったそれだけの言葉が、璃子の声を通すと、急に支えになる。
美緒は思った。
璃子さんがそう言うなら、きっとそうなのだ。
自分は調子に乗った悪い妻ではない。匿名で言われるような、ただの匂わせ女ではない。選ばれたから、見られた。見られたから、晒された。怖くなるのは自然なこと。蓮さんはちゃんと見ている。自分は大事にされている。
璃子の言葉が、美緒の中で一つずつ並んでいく。
その並び方は、とてもきれいだった。
自分の中でぐちゃぐちゃになっていたものに、璃子が順番をつけてくれる。
美緒は、その順番に従いたくなった。
「ありがとうございます」
やっと、それだけ言えた。
璃子は、やさしく首を振った。
「謝らなくていいの」
「すみません」
言ってから、美緒は自分で苦笑しそうになった。璃子も、少しだけ笑った。
「そういうところも、疲れている証拠ね」
責める言い方ではなかった。
美緒は、少しだけ笑えた。
本当に少しだけ。
ラウンジの静けさが、今はさっきよりもやわらかく感じた。
下位妻グループの画面は、まだ怖い。古妻ノートの投稿も消えていない。乃亜のことも、完全には信じきれていない。蓮のメッセージも、たった二通だけだ。
何も解決していない。
でも、璃子の前では、少しだけ息ができた。
この人は、分かってくれる。
そう思った。
そう思いたかった。
「美緒さん」
璃子が、ゆっくり名前を呼んだ。
「はい」
「今は、急いで答えを出さなくていいわ」
その言葉は、やさしかった。
でも同時に、道を示す言葉でもあった。
「怖い時は、怖いと言っていいの」
璃子は続けた。
「ただ、一人で決めないで」
美緒は、小さくうなずいた。
一人で決めない。
離婚申請ページを開いた時、美緒は一人だった。凛にも言えなかった。乃亜にも言えなかった。蓮にも重い女だと思われたくなかった。
だから、一人で画面を見ていた。
でも、これからは璃子に聞けばいい。
璃子さんが言うなら。
その考えが、美緒の中に静かに入ってきた。
それは救いだった。
少なくとも今の美緒には、救いに見えた。
美緒は、璃子の前でうなずいた。
「はい」
その返事は、自分で思ったより素直だった。




