第40話【一人で抱えなくていい】
璃子とのチャット画面は、まだ空白のままだった。
久我璃子。
第一妻。妻コミュニティの一番上にいる人。優しくて、落ち着いていて、何もかも分かっているように見える人。
美緒は、その名前を見つめていた。
第40話の最後で、配偶登録解除のページは閉じた。
蓮から来た、短い二つの言葉。
最近、無理してない?
無理すんなよ。
それだけで、美緒は申請ボタンから指を離してしまった。
何も解決していない。
古妻ノートの投稿は消えていない。匿名掲示板の言葉も消えていない。下位妻グループはまだ開けない。乃亜のことも、完全には信じきれていない。凛には、何も送れなかった。
でも、配偶登録解除のページは閉じた。
まだ、大丈夫。
そう思おうとした。
そう思うためには、誰かに支えてほしかった。
蓮の言葉は、美緒を妻の場所に戻した。
けれど、その場所でどう息をすればいいのかは、まだ分からない。
美緒は、璃子の名前をもう一度見た。
一人で抱えなくていいから。
説明会の会場で、璃子はそう言ってくれた。
妻になったのに、妻だと言えないでしょう。璃子はそう言った。美緒が言葉にできなかった痛みに、静かに名前をつけてくれた。
璃子さんなら。
そう思った。
璃子さんなら、分かってくれるかもしれない。
下位妻グループの誰かを疑っていること。乃亜を疑いたくないのに、疑いが消えないこと。匿名の投稿を見るたびに、自分が少しずつ削られていくこと。蓮の一文で離婚申請ページを閉じてしまったこと。
そういう全部を、責めずに聞いてくれるかもしれない。
でも、相談すれば何かが変わる。
香澄の言葉が戻ってくる。
相談内容によっては、記録に残す必要があります。
璃子に相談するということは、ただの愚痴では終わらないのかもしれない。誰かが動くかもしれない。下位妻グループの誰かが疑われるかもしれない。乃亜の名前が、どこかに残るかもしれない。
それも怖かった。
でも、何もしないまま一人でいるのも、もう怖かった。
美緒は、ゆっくり文字を打った。
佐倉美緒:
「突然すみません」
そこで止まる。
硬い。
でも、これ以外に始め方が分からない。
佐倉美緒:
「少し、ご相談したいことがあって」
また止まる。
相談したいこと。
本当は、ひとつではない。
匿名投稿。下位妻グループ。乃亜への疑い。離婚申請ページ。蓮の短いメッセージ。自分がまだ妻でいたいと思ってしまうこと。
全部が絡まっている。
美緒は最後に打った。
佐倉美緒:
「お時間いただくことはできますか」
三つの文章を見直す。
何度も見直す。
重すぎないだろうか。急すぎないだろうか。第一妻にこんなことを送っていいのだろうか。
でも、璃子は言ってくれた。
一人で抱えなくていいから。
美緒は送信した。
既読は、すぐにはつかなかった。
一分。二分。
長く感じた。
蓮の既読を待った時とは違う緊張だった。
蓮の返信は、胸を揺らす。
璃子の返信は、行き先を決めてしまう気がした。
少しして、既読がついた。
美緒は息を止めた。
久我璃子:
「もちろん」
一文。
すぐに、次の文が来る。
久我璃子:
「一人で抱えなくていいから」
美緒は、その文字を見た瞬間、目の奥が熱くなった。
説明会で聞いた言葉と同じだった。
同じ言葉なのに、今はもっと深く入ってきた。
一人で抱えなくていい。
凛には言えなかった。乃亜には言えなかった。蓮には重い女だと思われたくなかった。
でも、璃子なら。
璃子さんなら、受け止めてくれる。
そう思いたかった。
少し間を置いて、もう一通届く。
久我璃子:
「明日、少し会いましょう」
美緒は返信した。
佐倉美緒:
「ありがとうございます」
その夜、美緒は何度か古妻ノートを開きそうになった。
開かなかった。
下位妻グループも見なかった。
乃亜のチャットも開かなかった。
代わりに、璃子のメッセージを何度も読み返した。
もちろん。
一人で抱えなくていいから。
明日、少し会いましょう。
三つの短い文。
蓮の「無理すんなよ」と同じくらい短い。
でも、蓮の言葉とは違う。
蓮の一文は、美緒を妻の場所に戻した。
璃子の言葉は、その場所でどう息をすればいいか教えてくれる気がした。
翌日、美緒は指定されたホテルのラウンジへ向かった。
駅から少し歩いた場所にあるホテルだった。入口のガラスは大きく、ロビーには静かな音楽が流れている。床は磨かれていて、照明はやわらかい。
誰も大きな声で笑っていない。
下位妻たちと飲んだ居酒屋とは、まるで違った。
席と席の間が広い。カップの音も小さい。スタッフの声も、必要な分だけしか聞こえない。
美緒は、自分の靴音が少し大きく聞こえる気がした。
服は何度も迷った。
派手すぎないブラウス。落ち着いた色のスカート。髪はいつもより丁寧に整えた。
それでも、ラウンジの奥へ進むほど、自分が場違いに見える。
ここは、上位妻側の場所だ。
安い居酒屋で、呼ばれない夜を笑う場所ではない。グループチャットでスタンプを送り合う場所でもない。誰かの毒を、誰かが冗談で流す場所でもない。
声を落として、言葉を選び、きれいなカップの向こうで痛みを整理する場所。
美緒は、案内された席の近くで立ち止まった。
奥の席に、久我璃子がいた。
姿勢よく座り、白いカップに手を添えている。派手ではない。でも、そこだけ空気が少し整って見えた。
璃子が顔を上げる。
美緒に気づいて、静かに微笑んだ。
「美緒さん」
その声を聞いた瞬間、美緒の胸が少しだけ緩んだ。
まだ何も話していない。
何も解決していない。
でも、ここまで来た。
一人で抱えなくていい。
その言葉を信じるために、美緒は璃子の前の席へ向かった。
「来てくれてよかった」
璃子は、そう言った。




