第39話【まだ、大丈夫】
美緒は、開いたままだった画面を見た。
配偶登録解除申請ページ。
【対象者:天城 蓮】
【登録番号:第13配偶者】
【氏名:佐倉 美緒】
【申請する】
さっきまで、その画面は出口に見えていた。
怖い出口。
でも、そこへ逃げれば少し楽になれるかもしれない場所。
今は違った。
同じ文字なのに、少しだけ意味が変わっている。
対象者:天城蓮。
その人から、今、メッセージが来た。
登録番号:第13配偶者。
まだ、自分はそこにいる。
美緒は、申請ボタンを見つめた。
押せば終わる。
それはさっきと同じだった。
でも今は、押す理由が少し遠くなっている。
匿名投稿は消えていない。妻コミュニティが怖いことも変わらない。乃亜への疑いも消えていない。
何も解決していない。
それなのに、終わらなくていい気がした。
蓮さんが見てくれていたから。
そう思うと、申請ボタンは触らなくていいものに見えた。
美緒は、画面の左上にある戻るボタンを押した。
確認画面が出る。
【申請ページを離れますか】
【入力内容は保存されません】
入力内容なんて、何もない。
美緒は少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。
申請できなかったことだけが、そこにある。
美緒は【離れる】を押した。
画面が切り替わる。
配偶者用アプリのホーム画面に戻る。
【第13配偶者】
【対象者:天城 蓮】
【佐倉 美緒】
美緒は、その文字を見つめた。
第13配偶者。
まだ、そこにいる。
まだ、終わっていない。
それが嬉しいのか、怖いのか、もう分からなかった。
でも、息は少しだけ楽になった。
それが正しいのかどうかは分からない。
自分を守るためには、押した方がよかったのかもしれない。凛に送った方がよかったのかもしれない。璃子に相談した方がよかったのかもしれない。
でも、今は。
今だけは。
美緒は、天城蓮のチャットをもう一度開いた。
天城 蓮:
「無理すんなよ」
その一文を読み返す。
たった一文。
それだけで、離婚申請ページを閉じてしまった。
そのことが、少し怖かった。
でも、怖さよりも先に、救われた気がした。
美緒は、スマホを胸の近くに引き寄せた。
まだ、大丈夫。
そう思おうとした。
まだ、大丈夫。
蓮さんは、見てくれている。
何も解決していないのに、その言葉だけが、身体の中へすっと入っていく。
下位妻グループを開くのは、まだ怖い。乃亜に何を返せばいいのかも分からない。匿名投稿も、たぶん明日また見る。凛には、まだ何も送れない。
でも、もう少しだけここにいられる。
第13配偶者として。
天城蓮の妻として。
美緒は、画面を暗くした。
部屋がまた静かになる。スマホの黒い画面に、自分の顔がぼんやり映った。
佐倉美緒。
第13妻。
まだ妻でいる人。
美緒は、その顔を見ながら、璃子の言葉を思い出した。
一人で抱えなくていいから。
分からないことは、一人で決めなくていい。
説明会の会場で、璃子はそう言ってくれた。
あの時、美緒は本当に救われた。
今なら、相談できるかもしれない。
蓮から連絡が来た。
でも、まだ怖い。
匿名投稿が消えない。下位妻グループに戻れない。乃亜を疑いたくないのに、疑ってしまう。
そう言えば、璃子は何と言ってくれるだろう。
美緒は、配偶者用アプリの連絡先一覧を開いた。
久我璃子。
その名前を見つける。
第一妻。
妻コミュニティの一番上にいる人。優しくて、落ち着いていて、何もかも分かっているように見える人。
美緒は、その名前を見つめた。
すぐには送らなかった。
でも、凛の画面よりは開きやすかった。
普通の世界へ助けを求めるより、制度の中の優しさへ戻る方が、今の美緒には近かった。
そのことが、少し怖かった。
美緒は、璃子とのチャットを開いた。
入力欄は空白だった。
何を書けばいいのか、まだ分からない。
それでも、美緒は思った。
一人で抱えなくていい。
蓮さんも、璃子さんも、見てくれている。
そう信じられるなら、まだ、大丈夫。
美緒は、空白の入力欄を見つめたまま、しばらく動けなかった。




