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第38話【最近、無理してない?】

天城蓮からの通知は、まだ開けなかった。


【天城 蓮さんからメッセージがあります】


その文字だけが、画面の上に残っている。


美緒は、しばらくスマホを両手で持ったまま動けなかった。


開けば、何かが変わるかもしれない。そう思った。


でも、何が書かれているのか分からない。


短い連絡かもしれない。事務的な確認かもしれない。妻コミュニティの件で、何か注意されるのかもしれない。


それとも、本当に蓮からの言葉なのかもしれない。


美緒は通知を開けずに、スマホを伏せた。


画面が暗くなる。部屋も暗かった。


ベッド。小さなテーブル。洗濯かご。畳みきれない服。飲みかけの水。


いつもの部屋だった。


ここには、天城蓮の妻であることを示すものは何もない。写真もない。指輪もない。一緒に住んでいる気配もない。天城姓の郵便物もない。


あるのは、配偶者用アプリだけ。


その中にだけ、美緒は妻として存在している。


外では佐倉美緒。居酒屋でも佐倉さん。給与明細も佐倉美緒。配送名義も佐倉。シフト表も佐倉。


妻になっても、世界は何も変わらなかった。


変わったのは、スマホの中だけだった。


そのスマホの中も、今は怖い。


美緒は、また画面をつけた。


通知欄には、蓮の名前がある。その下に、下位妻グループ。乃亜。莉央。香澄。


名前が並んでいる。


どれも開けなかった。


開けば、またどこかにつながる。


下位妻グループを開けば、麻衣がいる。千紗がいる。琴葉がいる。乃亜がいる。


最初は救いだった場所。


下の方同士、気楽にやろ。


乃亜の声を思い出す。


あの時は、本当に救われた。


妻になったのに孤独だった。第13妻という番号だけがあって、どう振る舞えばいいのか分からなかった。上位妻も中位妻も遠くて、自分だけが下の方に置かれたように感じていた。


その時、乃亜は近かった。


麻衣の明るさも、琴葉のやわらかさも、千紗の刺すような言葉さえ、あの場所にいる証みたいに思えた。


でも今は、開けない。


誰かが見ているのかもしれない。誰かが書いたのかもしれない。直接書いたわけではなくても、どこかで話したのかもしれない。悪気なく漏らしたのかもしれない。


第13。居酒屋勤務。匂わせ。第一さんに拾われた。子ども狙い。名前呼ばれたって浮かれてるらしい。


断片が、頭の中で何度も戻ってくる。


名前はない。


でも、美緒には分かる。あれは自分のことだ。


名前がないから、余計に逃げられない。


美緒は、乃亜との個別チャットを開きかけた。


開かなかった。


乃亜は言ってくれた。


美緒ちゃんは悪くないよ。


その言葉は、今も画面のどこかに残っている。見れば救われるかもしれない。でも、見ればまた疑ってしまう。


あの言葉は本心だったのか。慰めるための言葉だったのか。それとも、これ以上聞かれたくないから、そう言っただけなのか。


そんなふうに考えてしまう自分が嫌だった。


乃亜を疑いたくない。


そう思えば思うほど、乃亜の顔が浮かんでしまう。


美緒はチャットを閉じた。


香澄のメッセージが目に入った。


スクショは、残るから。


下位グループだから安全、とは思わない方がいいです。


ここでは、言葉にしたものから外に出ます。


香澄の言葉は正しかった。


たぶん、全部正しい。


でも、その正しさは美緒を温めなかった。


香澄の言葉を思い出すと、自分が失敗したことだけが浮かんでくる。


匂わせたから。呼ばれたことを隠しきれなかったから。名前を呼ばれたと書いたから。第一妻に優しかったと書いたから。


自分が悪かったのかもしれない。


そう思うと、胸の奥がまた冷える。


莉央の言葉も戻ってくる。


どこかに残したくなるんだよね。


それも本当だった。


妻になったのに、外では佐倉美緒のまま。何も変わっていないみたいで怖かった。だから、どこかに残したかった。


詳しくは言えないけど。夢みたい。好きでいるって、報われることもあるんだね。


その時は、ただ消えたくなかった。妻になったことを、世界のどこかに置きたかった。


でも、残したものは残る。


残したくなる。


残るから怖い。


二つの言葉が、美緒の中でぶつかっていた。


美緒は、配偶者用アプリを開いた。


本当は、蓮からのメッセージを開くためだった。


でも、指は通知ではなく、メニューの方へ動いた。


相談窓口。規約。コミュニティ管理。通知設定。登録情報。


冷たい項目が並んでいる。


その中に、以前は見ないようにしていた項目があった。


【配偶登録解除】


美緒は、そこに目を止めた。


妻をやめるための項目。


そんなものが、アプリの中に普通にある。


妻になる時と同じように。呼び出し通知と同じように。規約や相談窓口と同じように。そこにある。


美緒は、ゆっくり指を近づけた。


押した。


画面が切り替わる。白い背景に、黒い文字が並ぶ。


【配偶登録解除申請ページへ進みます】


【申請後、対象者側確認および事務所確認が行われます】


【配偶登録解除後、一部コミュニティ機能へのアクセスは制限されます】


美緒は、その文字を読んだ。


何度も読んだ。


離婚。妻卒。配偶登録解除。


どの言葉を使っても、画面の中では手続きだった。


胸が壊れそうなことも。眠れない夜も。乃亜を疑ってしまったことも。古妻ノートで自分の断片を見つけたことも。蓮からの通知を開けないことも。


全部、ここでは関係ない。


申請後。確認。制限。


それだけ。


美緒は画面を下へ送った。


【対象者:天城 蓮】


その名前で、指が止まる。


天城蓮。推し。夫。対象者。


画面の中では、蓮は対象者だった。


そこにあるのは、あの人の声でも、手でも、少し疲れた笑顔でもない。


対象者。


冷たい言葉だった。


その下に、次の行がある。


【登録番号:第13配偶者】


第13配偶者。


美緒は、その文字を見つめた。


登録完了通知を見た時、この番号は祝福だった。


第13。十二人の次。その他大勢から抜け出した証。天城蓮の人生のどこかに、自分の名前が入った証。


あの時、美緒は本当に幸せだった。


怖いくらい嬉しかった。


でも今、同じ番号は、終わらせる手続きの中にある。


削除される対象。制限されるアクセス。解除される登録。


同じ文字なのに、温度が違う。


美緒は、さらに下を見た。


【氏名:佐倉 美緒】


そこで、胸の奥が痛んだ。


妻になった時も、佐倉美緒だった。妻でいる間も、佐倉美緒だった。妻でなくなる手続きでも、佐倉美緒だった。


天城の名前は、どこにもない。


天城美緒にはならなかった。職場でも。書類でも。アプリでも。解除画面でも。ずっと、佐倉美緒。


美緒は画面を見つめた。


自分は、本当に妻だったのだろうか。


それとも、登録番号だけの存在だったのだろうか。


第13配偶者。


その番号の中にだけ、自分は妻としていた。外の世界では、何も変わっていなかった。


それなのに、この番号を失うのが怖い。


何も変わっていなかったなら、何を失うのだろう。


でも、失うものはあった。


下位妻グループ。配偶者用アプリ。呼ばれるかもしれない夜。天城蓮から通知が来るかもしれない時間。自分はその他大勢ではない、という感覚。名前を呼ばれた夜の記憶。第一妻に気にかけられたという小さな光。


外から見れば、何もない。


でも、美緒の中では、それが全部だった。


美緒は、画面の下にあるボタンを見た。


【申請する】


白い画面の中で、そのボタンだけが少し濃く見えた。


押せば、楽になるのかもしれない。


下位妻グループを見なくていい。匿名投稿を探さなくていい。乃亜を疑わなくていい。琴葉を羨まなくていい。千紗の言葉に傷つかなくていい。麻衣の軽さに揺れなくていい。璃子の言葉にすがらなくていい。香澄の正しさに冷たくならなくていい。莉央の共感に逃げなくていい。


第13妻ではなくなれば、もう第13と書かれても関係ない。


でも、押したら。


天城蓮の妻ではなくなる。


美緒は、指を画面に近づけた。


ほんの少し触れれば、画面は進む。


押せば、何かが終わる。


そう思った。


でも、指は動かなかった。


美緒は、申請ボタンから指を離した。


押せない。


逃げたいのに、押せない。


そのことが、また惨めだった。


誰かに言いたかった。


もう無理かもしれない、と。


でも、誰に。


下位妻グループには言えない。乃亜には、言いたい。でも言えない。璃子にもまだ言えない。相談すれば、何かが記録に残るかもしれない。紬や香澄の正しさが、また美緒の不安に名前をつけるかもしれない。


莉央なら分かってくれるかもしれない。でも、莉央の共感は少し危うい。残したくなるよね、という言葉は救いだった。でも、残るから怖い、という現実も一緒に来た。


美緒は、スマホの画面を切り替えた。


凛とのチャットを開く。


高瀬凛。


最初に、やっと結婚できたよ、と言った相手。


戸惑いながらも、祝ってくれた人。美緒が本気で幸せそうだったから、否定しないでいてくれた人。


チャット欄には、少し前のやり取りが残っている。仕事の愚痴。天気の話。凛が送ってきたコンビニスイーツの写真。美緒が返した短いスタンプ。


普通の世界の言葉だった。


妻コミュニティでも、配偶者用アプリでも、古妻ノートでもない。佐倉美緒として話せる場所。


美緒は入力欄を開いた。


「ちょっとしんどい」


打った。すぐに消した。


軽すぎる。でも、足りる言葉を探すと、どんどん重くなる。


もう一度打った。


「やめた方がいいのかな」


やめる。何を。妻を。天城蓮の妻でいることを。夢だったものを。


美緒は消した。


凛にそんなことを送ったら、凛はきっと心配する。


それは分かる。


凛なら、たぶんちゃんと考えてくれる。


でも、それが怖かった。


普通の世界の人に、ちゃんと心配されるのが怖い。自分がどれだけおかしい場所にいるのか、はっきりしてしまう気がした。


美緒は、また入力欄に指を置いた。


「私、幸せなはずなのに」


打って、止まった。


幸せなはず。


そうだ。幸せなはずだった。


推しと結婚できた。天城蓮の妻になれた。名前も呼ばれた。第一妻にも気にかけられた。


それなのに、今、美緒は配偶登録解除の画面を開いている。


そのことが、どうしようもなく惨めだった。


美緒は、その文も消した。


凛には言えない。


やっと結婚できたよ、と言った。


あの時の美緒は本当に幸せだった。誰かにちゃんと愛されたかった、と言った。いつか、あの人の子どもが欲しいと思っていた、と言った。


凛は少し驚いていた。でも笑わなかった。


その凛に、今さら何と言えばいいのだろう。


やめた方がいいのかな。もう妻でいるのが怖い。乃亜を疑いそうになっている。でも、妻をやめるのも怖い。


言えない。


凛に言ったら、あの夜の自分まで間違いになる気がした。


美緒は、最後にもう一文打った。


「やっと結婚できたって言ったのに、ごめん」


打った瞬間、目の奥が熱くなった。


ごめん。


誰に謝っているのか分からなかった。


凛に。


あの時の自分に。


推しの妻になりたいと願っていた自分に。


美緒は、その文をしばらく見つめた。


送れば、凛はきっと返してくれる。すぐではないかもしれない。でも、きっと返してくれる。


普通の世界の善意で。


それは、たぶん一番まともな救いだった。


でも、美緒は送れなかった。


惨めさを、普通の世界に持ち出せなかった。


美緒は、文章を消した。


入力欄が空白になる。


その白さが、少しだけ怖かった。


凛とのチャットを閉じる。


画面は、配偶者用アプリに戻った。


【配偶登録解除申請ページへ進みます】


【対象者:天城 蓮】


【登録番号:第13配偶者】


【氏名:佐倉 美緒】


【申請する】


さっきと同じ画面。


何も変わっていない。


押せない。凛にも送れない。下位妻グループにも戻れない。乃亜にも相談できない。璃子にもまだ届けない。


どこにも行けない。


そう思った瞬間、スマホが震えた。


手の中で、小さく音が鳴る。


美緒は反射的に画面を見た。


通知が、上から降りてきていた。


送信者の名前を見て、息が止まる。


天城 蓮。


画面の上に、メッセージが表示される。


天城 蓮:

「最近、無理してない?」

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