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第37話【蓮から来た】

部屋に着くと、美緒は靴を脱ぎ、そのまま玄関で少し立っていた。


電気をつける。いつもの部屋が現れる。


ベッド。小さなテーブル。洗濯かご。畳みきれていない服。飲みかけの水。


何も変わっていない。


美緒はバッグを置き、ベッドに座った。


スマホを取り出す。


下位妻グループは開かなかった。乃亜のチャットも開かなかった。古妻ノートも見なかった。


代わりに、配偶者用アプリを開いた。


なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。


規約。サポート。相談窓口。通知設定。コミュニティ管理。


冷たい項目が並んでいる。


初めて規約を読んだ時のことを思い出す。外部共有禁止。スクリーンショット禁止。個別連絡内容の共有制限。トラブル時は上位配偶者または管理担当へ報告。


あの時は、まだ遠かった。


今は違う。全部が、自分の周りにある。


美緒は、相談窓口の項目に触れた。


【相談窓口】


【妻間トラブル、外部発信、匿名投稿、個別接触内容の扱いに関する相談】


そこまで読んで、指が止まる。


相談すれば、何かが動くのだろうか。誰が書いたのか分かるのだろうか。下位妻グループの誰かが聞かれるのだろうか。乃亜が、聞かれるのだろうか。


美緒は、画面を戻した。


相談したい。でも、相談したら戻れなくなる気がした。


次に目に入ったのは、別の項目だった。


【配偶登録解除】


美緒は、その文字を見た。


配偶登録解除。妻ではなくなる手続き。


美緒は、息を止めた。


妻をやめる。


その選択肢が、画面の中にあった。


押せば、楽になるのかもしれない。


下位妻グループを見なくていい。誰が書いたのか疑わなくていい。古妻ノートで第13という文字を見なくていい。乃亜を疑わなくていい。


天城蓮の妻でなければ、匿名の第13でもなくなる。ただの佐倉美緒に戻れる。


そう思った。


でも、その瞬間、胸の奥が冷えた。


ただの佐倉美緒。それは、何者なのだろう。


居酒屋のシフト。佐倉という名札。宮原の軽口。古い部屋。誰にも言えないまま終わった夢。


それだけなのだろうか。


そこで、美緒は気づいた。


さっきから、自分はずっと、下位妻グループのことばかり考えていた。


古妻ノートに何を書かれたのか。誰が漏らしたのか。乃亜を疑ってしまうこと。璃子に相談すべきかどうか。


その全部に振り回されていた。


でも、その中心にいるはずの人のことを、ちゃんと考えていなかった。


天城蓮。


美緒は、画面の文字を見つめたまま、唇を噛んだ。


自分は、妻コミュニティに入りたかったわけではない。第一妻に気に入られるために、ここに来たわけでもない。


蓮の妻になりたかった。


その他大勢ではなくなりたかった。誰かにちゃんと愛されたかった。いつか、あの人の子どもが欲しいと思っていた。


その夢の真ん中には、いつも蓮がいたはずだった。


それなのに今の自分は、誰にどう見られているかばかり考えている。


蓮を好きだという気持ちが、いつの間にか横に置かれていた。


そのことに気づいた瞬間、美緒は恥ずかしくなった。


何をしているのだろう。


押せば、逃げられるのかもしれない。


でも、押したら蓮の妻ではなくなる。それだけは、怖かった。


匿名投稿も怖い。下位妻グループも怖い。乃亜を疑ってしまう自分も怖い。


でも、蓮の妻でなくなることは、もっと怖かった。


美緒は、画面を閉じようとした。


その時、スマホが震えた。


手の中で、小さく音が鳴る。


美緒は反射的に通知欄を見た。


表示された名前を見て、息が止まった。


天城 蓮。


画面には、短い通知が出ていた。


【天城 蓮さんからメッセージがあります】


美緒は、その文字を見つめた。


さっきまで冷たかった部屋の空気が、少しだけ変わった気がした。


匿名の言葉。妻卒手続き。乃亜への疑い。宮原の軽口。


その全部が、少し遠くなる。


まだ本文は開いていない。何が書かれているのかも分からない。


ただ、蓮から来た。


その事実だけで、美緒は一瞬、息ができるような気がした。

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