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第36話【ただの佐倉さん】

居酒屋の明かりは、いつも通り白かった。


厨房からは油の匂いが流れてくる。焼き鳥の煙。洗い場の水音。客の笑い声。


何も変わっていない。


美緒は、制服のエプロンを結び、ホールに出た。


名札には、佐倉、と書かれている。


第13妻でもない。下位妻でもない。匿名掲示板で噂されている第13でもない。ここでは、ただの佐倉さんだった。


それが少しだけ楽だった。


「佐倉さん、生二つ、六番卓」


店長の声に、美緒は顔を上げる。


「あ、はい」


ビールのジョッキを持つ。六番卓へ向かいながら、美緒はポケットの中のスマホを意識していた。


今は見ない。そう決めていた。


でも、見ない理由は仕事だけではなかった。


見れば、また古妻ノートを開いてしまう。乃亜とのチャットを見返してしまう。美緒ちゃんは悪くないよ、というその文字に救われたくて、また見てしまう。


でも、見ればきっと、その後に続いた言葉も目に入る。


気にしない方がいい。猫のスタンプ。短い「おやすみ」。


全部が、本物なのか、形だけなのか、分からなくなる。


美緒はジョッキをテーブルに置いた。


「お待たせしました」


客はテレビを見ながら、軽く頷いただけだった。


誰も、美緒を見ていない。


それが楽なはずなのに、なぜか胸の奥が空いた。


誰にも見られたくない。でも、誰にも見られないのも怖い。


その矛盾を抱えたまま、仕事に戻る。


注文を取る。皿を下げる。グラスを洗う。会計をする。


体は動く。でも、頭の奥ではずっと、匿名の言葉が残っていた。


第13。居酒屋勤務。匂わせ。名前呼ばれた。子ども狙い。


名前のない悪意は、画面を閉じても消えなかった。


ポケットの中でスマホが震えた。


美緒は反射的に手を伸ばしかけて、止めた。


勤務中。今は見ない。


そう思っても、指先がそちらへ向かう。


「美緒ちゃん」


横から声がした。


宮原だった。トレーを片手に持って、美緒の顔を覗き込んでいる。


「また魂抜けてる」


美緒は、すぐに手を下ろした。


「抜けてません」


「抜けてるって。今、七番卓に持ってくやつ、四番に行こうとしてた」


美緒は手元の皿を見る。確かに、伝票には七番卓と出ていた。


「あ……すみません」


「俺に謝られても」


宮原は軽く笑った。


「なに、炎上でもした?」


その一言で、美緒の足が止まった。


炎上。


宮原は冗談で言ったのだと思う。いつもの軽口。美緒がスマホを気にしているから、適当に言っただけ。


何も知らない。古妻ノートも、妻向け掲示板も、下位妻グループも、何も知らない。


それなのに、言葉だけが当たった。


美緒は、うまく息ができなかった。


本当に炎上しているわけではない。名前も出ていない。顔も出ていない。


でも、匿名の場所で、自分が少しずつ燃えている気がする。煙が立っている。


千紗の言葉が戻ってくる。


火のないところに煙は立たないって言うしね。


「してません」


美緒は、少し強く言った。


宮原が目を瞬かせる。


「え、冗談じゃん」


「知ってます」


「顔こわ」


「仕事してください」


「してるしてる」


宮原は、少し困ったように笑った。


「いや、マジで大丈夫?」


その声だけ、少しだけ普通だった。軽くない。


美緒は、その普通さに余計に揺れた。


大丈夫?乃亜もそう聞いた。麻衣も、琴葉も、似たようなことを言った。


でも、宮原の大丈夫?には何の背景もない。制度も知らない。序列も知らない。匿名投稿も知らない。ただ、目の前の佐倉美緒が変だと思って言っている。


その単純さが、少しだけ近かった。


でも、今はそれすら怖い。


「大丈夫です」


美緒は言った。


宮原は少し顔をしかめる。


「大丈夫って顔じゃないけどね」


「大丈夫です」


もう一度言うと、宮原はそれ以上踏み込まなかった。


「そっか」


軽く肩をすくめる。


「じゃあ、七番卓。俺、四番行くから」


そう言って、宮原は厨房の方へ戻っていった。


美緒は、七番卓へ料理を運んだ。


何とか笑顔を作る。


「お待たせしました」


客は何も気づかない。美緒は仕事を続けた。


その後も、何度かスマホが震えた。見なかった。見ないでいる間、胸の中で通知音だけが増えていく。


誰だろう。下位妻グループだろうか。乃亜だろうか。古妻ノートの更新通知だろうか。


考えないようにするほど、考えてしまう。


勤務が終わる頃には、身体よりも頭の方が疲れていた。


更衣室で制服を脱ぐ。ロッカーの扉の内側に貼られたシフト表を見る。


佐倉。そこにも、佐倉と書かれている。


妻になっても、何も変わらない名前。変わらない日常。でも、画面の中だけでは、勝手に名前のない形にされている。


美緒は、私服に着替えて、ようやくスマホを取り出した。


通知が並んでいる。下位妻グループ。乃亜。莉央。香澄。


それから、古妻ノートの検索履歴。


美緒は、どれも開かなかった。


開けば、また戻ってしまう。画面の中へ。名前のない悪意の中へ。


美緒はスマホをバッグにしまい、自宅へ向かった。


帰り道の空気は冷たかった。


駅前の光も、コンビニの明かりも、会社帰りの人たちの足音も、全部いつも通りだった。


世界は、美緒が妻だと知らない。世界は、美緒が匿名で傷ついていることも知らない。


誰も知らない。


それは安全なのかもしれない。でも、孤独でもあった。

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