第35話【疑いたくない人】
下位妻グループを開くまでに、ずいぶん時間がかかった。
アプリの一覧には、いつもの名前がある。
【下位配偶者グループ】
第9妻から第13妻まで。桐谷麻衣。小野寺千紗。白石琴葉。三枝乃亜。佐倉美緒。
最初にその画面を見た時、美緒は少し救われた。
ここには、自分と同じ人たちがいる。妻になったのに天城姓を名乗れない人。外では旧姓のまま働く人。呼ばれない夜を、笑ってやり過ごす人。
その場所が、今は怖い。
誰かがあの投稿を見ているかもしれない。誰かが、書いているのかもしれない。誰かが直接書いたのではなくても、どこかで話したのかもしれない。悪気なく漏らしたのかもしれない。
考えすぎだと思いたい。
でも、投稿の中には、下位妻グループでしか話していないことに近い言葉があった。
名前呼ばれた。第1さん。居酒屋勤務。匂わせ。
美緒は、しばらくアイコンを見つめた。
開けば、いつもの会話があるかもしれない。麻衣が明るくしてくれる。琴葉がやわらかく止めてくれる。乃亜が、大丈夫?と聞いてくれる。
そう思うと、少しだけ開きたくなる。
でも、その同じ人たちの中に、疑いの影が落ちている。
美緒は唇を噛み、ようやく画面を開いた。
最後の会話から、少し時間が空いていた。
麻衣のスタンプ。千紗の短い言葉。琴葉の「無理しないでね」。乃亜の「今日はもう寝な」。見慣れた流れ。
そこへ、美緒は文字を打った。
佐倉美緒:
「古妻ノートの投稿、見ました」
送信する。
すぐに既読が一つ増えた。二つ。三つ。
その数字が増えるたびに、胸の奥が冷たくなる。
見られている。自分の言葉が、また誰かの画面に残る。
もう何も書かない方がいいのかもしれない。そう思った時、麻衣から返事が来た。
桐谷麻衣:
「あー、あれね」
桐谷麻衣:
「見ない方がいいよ、ああいうの」
桐谷麻衣:
「匿名なんてだいたい適当だし」
麻衣の言葉は明るかった。いつもの麻衣だった。場を軽くするための言い方。深刻になりすぎないように、笑える形へ持っていこうとする癖。
前なら、その軽さに救われたと思う。今も、少しは救われた。
でも、軽すぎるとも思った。
匿名なんてだいたい適当。
でも、そこに書かれた断片は、美緒の近くまで来ていた。居酒屋勤務。名前呼ばれた。第1さん。全部が適当なら、どうしてこんなに近いのだろう。
千紗が続けた。
小野寺千紗:
「でも、火のないところに煙は立たないって言うしね」
美緒の指が止まった。
画面の中の一文が、まっすぐ刺さる。
自分には、火があったのだろうか。
以前の匂わせ投稿。呼ばれた夜の報告。名前を呼ばれたことを言ったこと。第一妻に優しかったと書いたこと。
自分で火をつけたのだろうか。だから煙が立っているのだろうか。
琴葉がすぐに入った。
白石琴葉:
「千紗さん、そういう言い方は……」
小野寺千紗:
「ごめん。責めてるわけじゃない」
少し間が空いて、もう一通。
小野寺千紗:
「ただ、何かしら出たから拾われてるんでしょ」
美緒は、息を止めた。
何かしら出たから。
美緒が何も言わなければ。何も書かなければ。何も残さなければ。あの投稿はなかったのかもしれない。
でも、何も残さなければ、自分が妻になったことはどこに残ったのだろう。
琴葉がまた送る。
白石琴葉:
「美緒ちゃんのせいって意味じゃないと思うよ」
白石琴葉:
「でも、今は見ない方がいいかも」
琴葉の言葉は優しかった。ちゃんと美緒の方を向いている。
それでも、救いきれない。
見ない方がいい。香澄も、莉央も、麻衣も、琴葉も、みんな似たようなことを言う。
でも、見なければ、自分がどんな形にされているのか分からない。見ても傷つく。見なくても怖い。
乃亜から、少し遅れてメッセージが来た。
三枝乃亜:
「美緒ちゃん、大丈夫?」
その一文で、美緒の胸が少しだけ緩んだ。
最初に近くに来てくれた人。琴葉が呼ばれた夜、隣を歩いてくれた人。美緒が祝えなかったことを、責めなかった人。
その乃亜が、大丈夫?と聞いてくれている。
美緒は、すぐに返そうとして、指が止まった。
大丈夫です。いつものように、そう打てばいい。
でも、今は大丈夫ではなかった。
それでも、グループの中では本当のことを言えない。この中の誰かが、投稿とつながっているかもしれない。
そう思ってしまった時点で、もう何もまっすぐには言えなかった。
佐倉美緒:
「大丈夫です」
送信する。嘘だった。自分でも分かるくらい、薄い嘘だった。
麻衣がすぐに返す。
桐谷麻衣:
「大丈夫じゃなさそう」
桐谷麻衣:
「でもほんと、ああいうの見てると病むよ」
桐谷麻衣:
「今日はスマホ置こ」
千紗:
「置けたら苦労しないでしょ」
琴葉:
「でも、少し休んだ方がいいと思う」
乃亜:
「うん。無理しないで」
画面の中では、みんな心配してくれている。少なくとも、そう見える。
それなのに、美緒はその画面を安心して見られなかった。
この中に、情報を知っている人がいる。それは当たり前だった。
美緒が自分で話したから。名前を呼ばれたこと。第一妻に気にかけられたこと。職場のこと。ここにいる人たちは知っている。
知っているから、慰めてくれる。知っているから、疑えてしまう。
美緒は、グループチャットを閉じた。
戻りたかった場所に戻れない。自分から開いたのに、開いたことで余計に怖くなった。
美緒は、乃亜との個別チャットを開いた。
最後に残っているのは、猫のスタンプ。それから、前に乃亜が送ってくれた短い言葉。
美緒ちゃんが呼ばれてよかった。
美緒は、その文字を見つめた。
乃亜を疑いたくなかった。疑うなら、知らない誰かがよかった。匿名の誰か。外にいるファンの誰か。自分を見たこともない人。
でも、匿名の言葉の中には、下位妻グループで見た言葉に似たものが混ざっていた。
乃亜も知っている。名前を呼ばれたこと。第一妻に気にかけられたこと。美緒が何を話したか。
だからこそ、疑いたくない。
美緒は入力欄に指を置いた。
佐倉美緒:
「乃亜ちゃん」
送る。すぐに既読がついた。
三枝乃亜:
「うん」
その短さに、少しだけ安心する。近い。まだ、近い。
佐倉美緒:
「これ、私のことですよね」
送信する。少し間が空いた。
その間に、美緒の呼吸が浅くなる。
数秒後、返事が来た。
三枝乃亜:
「たぶん、そう見えるよね」
美緒は、その文を何度も読んだ。
そう見える。断定ではない。でも、否定でもない。
乃亜は嘘をついていない。だからこそ、少し怖かった。
美緒は、もう一文送った。
佐倉美緒:
「誰が書いたんでしょう」
送ってから、心臓が強く鳴った。
これは、質問の形をしている。でも、本当は違う。
乃亜ちゃんじゃないよね、と聞いているのと同じだった。
美緒は、送った直後に後悔した。
乃亜からの返事は、すぐには来なかった。
その沈黙の間に、美緒はいくつものことを考えた。
乃亜が怒ったのかもしれない。疑われたと気づいたのかもしれない。本当は、何かを知っているのかもしれない。
返信が来た。
三枝乃亜:
「分からない」
短い。それだけだった。
分からない。そうだ。分からないのだ。
誰が書いたのか。誰が話したのか。誰が見ているのか。何も分からない。
美緒は続けた。
佐倉美緒:
「私、何か悪いことしましたか」
今度は、指が震えた。送信する。
既読。少し間。
乃亜:
「美緒ちゃんは悪くないよ」
その言葉を見た瞬間、美緒の目の奥が熱くなった。
言ってほしかった言葉だった。
香澄は言ってくれなかった。悪い、悪くないの話だけではありません、と言った。それは正しかった。でも、今の美緒が欲しい言葉ではなかった。
莉央は分かってくれた。きついよね、と言ってくれた。でも、悪くないとは言わなかった。
乃亜は言った。
美緒ちゃんは悪くないよ。
美緒は、その文字を何度も読んだ。
佐倉美緒:
「ありがとうございます」
送る。乃亜から、すぐに返事が来る。
三枝乃亜:
「匿名なんて、暇な人が適当に書いてるだけだよ」
三枝乃亜:
「気にしない方がいい」
その文面は優しかった。
でも、美緒は少しだけ止まった。
気にしない方がいい。麻衣も、琴葉も、似たことを言った。
正しい。でも、その言葉は少し定型文みたいだった。
本当に乃亜がそう思っているのか。それとも、美緒を安心させるために言っているのか。それとも、これ以上この話を続けたくないのか。
分からなかった。
美緒は、自分がまた乃亜の言葉を疑っていることに気づいた。
嫌だった。
乃亜は慰めてくれている。悪くないと言ってくれた。気にしない方がいいと言ってくれた。個別でちゃんと返してくれている。
それなのに、完全には安心できない。なぜなら、乃亜も知っているから。
疑いたくない人ほど、疑う材料を持っている。そのことが、苦しかった。
三枝乃亜:
「今日はもう見ないで寝よ」
少し間を置いて、笑っている猫のスタンプ。
いつもの乃亜だった。近い。軽い。深入りしすぎない。美緒が好きだった乃亜の距離。
でも今は、その軽さの奥に何があるのか、考えてしまう。
佐倉美緒:
「はい。そうします」
嘘だった。たぶん、また見る。見ない方がいいのに、きっと見る。
でも、乃亜にそう言われたから、そう返した。
乃亜:
「おやすみ」
美緒:
「おやすみなさい」
そこで会話は終わった。
画面には、乃亜の言葉が残っている。
美緒ちゃんは悪くないよ。
美緒は、その文をもう一度読んだ。
救われたかった。だから、救われたことにしたかった。
乃亜は味方でいてくれた。そう思いたかった。
でも画面の向こうで、乃亜がどんな顔をしているのかは分からなかった。
美緒はスマホを伏せた。
暗くなった画面に、自分の顔がぼんやり映る。
下位妻グループには戻れない。でも、乃亜だけは疑いたくない。
そう思うほど、胸の奥の疑いは静かに残った。
名前のない悪意は、誰の顔もしていない。だからこそ、美緒の知っている顔を、ひとつずつ借りていく。




