第34話【スクショは残るから】
スマホを伏せても、画面の中の文字は消えなかった。
名前は出ていない。でも、美緒には自分のことだと分かる。
違うと言うには似すぎている。自分だと認めるには、名前がない。
それが一番怖かった。
下位妻グループは開けない。乃亜にも送れない。璃子にも相談できない。
それでも、誰かに何か言ってほしかった。
大丈夫。気にしなくていい。あなたは悪くない。
そう言ってほしかった。でも、その言葉を誰に求めればいいのか分からない。
その時、配偶者用アプリに通知が来た。
藤堂香澄。第6配偶者。
説明会で、資料を淡々と読んでいた人。スクショは残りますから、と静かに言った人。
美緒は、少しだけ迷ってからメッセージを開いた。
藤堂香澄:
「古妻ノートの件、見ました」
美緒は、息を止めた。
見ました。その一文だけで、身体が少し冷える。
香澄は知っている。あの投稿を見ている。自分のことだと分かっている。
美緒は、返信できなかった。
香澄から続けてメッセージが来る。
藤堂香澄:
「まず、該当投稿のスクリーンショットは保存しておいてください」
感情の言葉はなかった。
大丈夫ですか、でもない。つらかったですね、でもない。
スクリーンショットを保存してください。その事務的な文が、画面に置かれていた。
美緒は少しだけ呆然とした。
あんなものを、保存する。自分のことを、匿名の悪意に変えた文章を。残す。
藤堂香澄:
「削除される可能性があります」
藤堂香澄:
「後から確認できる状態にしておいた方がいいです」
正しい。香澄の言うことは、たぶん正しい。
でも、その正しさが冷たかった。
佐倉美緒:
「保存した方がいいんですか」
打ってから、自分でも変な質問だと思った。香澄は、そう言っている。でも聞かずにはいられなかった。
すぐに返事が来た。
藤堂香澄:
「はい」
短い。次の文。
藤堂香澄:
「見たくないと思いますが、必要です」
必要。その言葉で、美緒の胸が少し沈んだ。
見たくない気持ちより、必要かどうかが先に来る。
香澄は、そういう人なのだと思った。美緒をいじめているわけではない。突き放しているわけでもない。たぶん、助けようとしている。ただ、助け方が冷たい。
藤堂香澄:
「下位グループだから安全、とは思わない方がいいです」
美緒の指が止まった。
下位グループ。
そこにいた人たちの名前が浮かぶ。麻衣。千紗。琴葉。乃亜。
最初は救いだった。下の方同士、気楽にやろ。乃亜の言葉。麻衣の明るさ。琴葉のやわらかさ。千紗の刺す言葉まで含めて、あの場所は美緒の居場所だった。
その場所を、安全とは思わない方がいい。
香澄は、淡々とそう言う。
美緒は、喉の奥が少し狭くなるのを感じた。
佐倉美緒:
「誰かが書いたってことですか」
送ってから、すぐに後悔した。聞きたくない答えだった。
香澄からの返事は少し遅れた。
藤堂香澄:
「断定はできません」
藤堂香澄:
「ただ、グループ内でしか出ていない情報に近いものが含まれているなら、可能性としては考える必要があります」
可能性。考える必要。
その言い方は、どこまでも感情を避けていた。
美緒は、スマホを握る手に力を入れた。
誰かが書いたのかもしれない。誰かが直接書いたわけではなくても、誰かが話したのかもしれない。悪気なく漏らしたのかもしれない。どれも、可能性。
美緒は、下位妻グループの画面を思い出した。
名前は……呼ばれました。優しかったです。そんな大げさなことじゃないです。
自分が送った言葉。その時は、言いたかった。全部は言えない。でも、少しだけ分かってほしかった。
美緒は思う。
自分が悪かったのかもしれない。
匂わせたから。呼ばれたことを隠しきれなかったから。名前を呼ばれたと書いたから。璃子に気にかけられたことを、うまく小さくできなかったから。
話しすぎたのかもしれない。
藤堂香澄:
「ここでは、言葉にしたものから外に出ます」
説明会で聞いたような文だった。でも今は、資料の中のルールではなかった。自分の部屋の中に、直接届いた言葉だった。
ここでは、言葉にしたものから外に出る。
美緒は、その文を何度も読んだ。
おめでとうございます。名前は……呼ばれました。優しかったです。大げさなことじゃないです。
そして、妻として正式に登録される前のSNS。
詳しくは言えないけど、人生って何があるかわからない。
全部、言葉にした。全部、どこかへ出ていった。
佐倉美緒:
「私が悪いんでしょうか」
送るつもりはなかった。でも、気づいたら送信していた。
香澄からは、すぐには返ってこなかった。
少しして、返事が来た。
藤堂香澄:
「悪い、悪くないの話だけではありません」
慰めではなかった。でも、断罪でもなかった。
藤堂香澄:
「守られたいなら、まず規約を読んでください」
その言葉は、冷たかった。でも、たぶん正しい。
守られたいなら。
美緒は守られたかった。匿名の悪意から。自分の言葉が外に出ていく怖さから。でも、守られるためには、まず規約を読む。それがこの場所なのだ。
感情より先に手続き。痛みより先に証拠。不安より先に規約。
美緒は、スマホを膝の上に置いた。
香澄は悪くない。たぶん、助けようとしてくれている。でも、その正しさは美緒を温めなかった。
少しして、別の通知が来た。
成瀬莉央。
美緒は、香澄とのチャットを閉じ、莉央のメッセージを開いた。
成瀬莉央:
「見た?」
それだけだった。
佐倉美緒:
「見ました」
すぐに返事が来る。
成瀬莉央:
「きついよね」
美緒は、その一文を見て、少しだけ息が抜けた。
きついよね。それだけ。でも、香澄のどの言葉よりも、今の美緒には近かった。
佐倉美緒:
「はい」
莉央から続けてメッセージが来る。
成瀬莉央:
「名前出てないのに、自分だって分かるやつが一番きつい」
そう。それだった。名前が出ていないから、逃げられない。断片が全部自分を向いている。
莉央は、それを分かっている。
佐倉美緒:
「怖いです」
送った瞬間、目の奥が熱くなった。
怖い。その一言を、やっと言えた。
下位妻グループには言えなかった。乃亜にも言えなかった。璃子にも、香澄にも言えなかった。でも、莉央には送れた。
成瀬莉央:
「分かる」
成瀬莉央:
「私も最初、めちゃくちゃ見た」
成瀬莉央:
「見ない方がいいのにね」
美緒は、小さくうなずいた。誰も見ていない部屋で、画面に向かってうなずく。
見ない方がいい。それは分かっている。でも、見てしまう。自分がどんな形で噂されているのか。どこまで知られているのか。知らないままでいる方が怖い。
成瀬莉央:
「あと、匂わせたくなるのも分かるよ」
美緒の指が止まった。
莉央は続ける。
成瀬莉央:
「妻になったのに、外では前の名前のままでしょ」
成瀬莉央:
「何も変わってないみたいで怖いじゃん」
成瀬莉央:
「だから、どこかに残したくなるんだよね」
美緒は、画面を見つめたまま、動けなかった。
どこかに残したくなる。その言葉が、胸の中にまっすぐ入ってくる。
第2話の自分。イベント会場で、周りのファンを見ながら、私はもうあっち側じゃないと思った自分。でもチケット名義も、職場の呼び名も、配送先の名前も、全部佐倉美緒のままだった自分。
妻になったのに、世界のどこにも妻としての痕跡がない。
だから、書いた。
詳しくは言えないけど。夢みたい。好きでいるって報われることもあるんだね。
それは、ただの自慢ではなかった。もちろん、嫉妬されたい気持ちもあった。でも、それだけではなかった。何も残らないのが怖かった。
莉央は、それを知っている。
成瀬莉央:
「浅ましいとかじゃないよ」
成瀬莉央:
「まあ、浅ましさもあるんだけど」
美緒は、少しだけ笑ってしまった。本当に少しだけ。声にならない笑いが出た。
莉央の言葉は、優しいだけではない。でも、その分だけ近かった。
浅ましさもある。そう言ってくれる方が、むしろ楽だった。全部きれいな気持ちではなかった。でも、ただ消えたくもなかった。どれも本当だった。
佐倉美緒:
「私だけじゃないんですね」
莉央から、すぐに返事が来る。
成瀬莉央:
「うん」
成瀬莉央:
「たぶん、みんな一回はやってる」
成瀬莉央:
「やるか、やらないかは別として」
美緒は、その言葉に少し救われた。
自分だけが変だったわけではない。妻になったのに名乗れない。呼ばれたのに言えない。特別になったはずなのに、外の世界では何も変わらない。その苦しさは、他の妻たちにもあったのだ。
美緒は、少しだけ息がしやすくなった。
けれど、莉央の次のメッセージで、その息はまた浅くなった。
成瀬莉央:
「でもね、ここって見てる人多いから」
ここ。妻コミュニティ。古妻ノート。匿名掲示板。下位妻グループ。
どこを指しているのか、分からない。たぶん、全部だ。
成瀬莉央:
「叱られるだけで済むうちは、まだいい方」
美緒の胸が、冷えた。
叱られるだけで済むうちは。
その言葉は、軽く送られてきたのに、重かった。この先に、叱られるだけでは済まないことがある。莉央は、それを知っている。
美緒はスマホを握りしめた。
残したくなる。残るから怖い。その二つが、同じ場所にある。
成瀬莉央:
「忘れられるくらいなら、叱られた方がマシって思う時もあるけどね」
美緒は、その文を読んで、また息を止めた。
忘れられるくらいなら。
分かってしまった。
分かりたくなかったのに、分かってしまった。
呼ばれない夜。通知が来ないスマホ。妻なのに、妻だと言えない日常。その中で、叱られることすら、見られている証に思える時がある。
その感覚に触れてしまったことが、美緒は怖かった。
佐倉美緒:
「怖いですね」
それだけ送った。
莉央からは、少し間を置いて返事が来た。
成瀬莉央:
「うん」
成瀬莉央:
「でも、怖いって思えてるうちは大丈夫だと思う」
本当にそうなのだろうか。美緒には分からなかった。
怖いと思っている。でも、見てしまう。残るのが怖い。でも、何も残らないのも怖い。
自分が何を怖がっているのか、分からなくなっていた。
そのあと、香澄からもう一通メッセージが来た。
藤堂香澄:
「投稿のURLとスクリーンショットは、まとめておいてください」
藤堂香澄:
「今後、必要になる可能性があります」
美緒は、二つの画面を行ったり来たりした。
香澄は、残せと言う。莉央は、残したくなる気持ちを分かると言う。
残ることが怖い。でも、何も残らないことも怖い。
美緒は、スマホを伏せた。
画面が暗くなる。でも、頭の中では二つの声が消えなかった。
スクショは、残るから。
どこかに残したくなるんだよね。
美緒は、暗い画面にぼんやり映る自分の顔を見た。
守られたいなら、規約を読まなければいけない。でも、誰かに見つけてほしいなら、何かを残したくなる。
その二つの間で、美緒は、自分がどちらへ逃げたいのか分からなくなっていた。




