表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/80

第34話【スクショは残るから】

スマホを伏せても、画面の中の文字は消えなかった。


名前は出ていない。でも、美緒には自分のことだと分かる。


違うと言うには似すぎている。自分だと認めるには、名前がない。


それが一番怖かった。


下位妻グループは開けない。乃亜にも送れない。璃子にも相談できない。


それでも、誰かに何か言ってほしかった。


大丈夫。気にしなくていい。あなたは悪くない。


そう言ってほしかった。でも、その言葉を誰に求めればいいのか分からない。


その時、配偶者用アプリに通知が来た。


藤堂香澄。第6配偶者。


説明会で、資料を淡々と読んでいた人。スクショは残りますから、と静かに言った人。


美緒は、少しだけ迷ってからメッセージを開いた。


藤堂香澄:

「古妻ノートの件、見ました」


美緒は、息を止めた。


見ました。その一文だけで、身体が少し冷える。


香澄は知っている。あの投稿を見ている。自分のことだと分かっている。


美緒は、返信できなかった。


香澄から続けてメッセージが来る。


藤堂香澄:

「まず、該当投稿のスクリーンショットは保存しておいてください」


感情の言葉はなかった。


大丈夫ですか、でもない。つらかったですね、でもない。


スクリーンショットを保存してください。その事務的な文が、画面に置かれていた。


美緒は少しだけ呆然とした。


あんなものを、保存する。自分のことを、匿名の悪意に変えた文章を。残す。


藤堂香澄:

「削除される可能性があります」


藤堂香澄:

「後から確認できる状態にしておいた方がいいです」


正しい。香澄の言うことは、たぶん正しい。


でも、その正しさが冷たかった。


佐倉美緒:

「保存した方がいいんですか」


打ってから、自分でも変な質問だと思った。香澄は、そう言っている。でも聞かずにはいられなかった。


すぐに返事が来た。


藤堂香澄:

「はい」


短い。次の文。


藤堂香澄:

「見たくないと思いますが、必要です」


必要。その言葉で、美緒の胸が少し沈んだ。


見たくない気持ちより、必要かどうかが先に来る。


香澄は、そういう人なのだと思った。美緒をいじめているわけではない。突き放しているわけでもない。たぶん、助けようとしている。ただ、助け方が冷たい。


藤堂香澄:

「下位グループだから安全、とは思わない方がいいです」


美緒の指が止まった。


下位グループ。


そこにいた人たちの名前が浮かぶ。麻衣。千紗。琴葉。乃亜。


最初は救いだった。下の方同士、気楽にやろ。乃亜の言葉。麻衣の明るさ。琴葉のやわらかさ。千紗の刺す言葉まで含めて、あの場所は美緒の居場所だった。


その場所を、安全とは思わない方がいい。


香澄は、淡々とそう言う。


美緒は、喉の奥が少し狭くなるのを感じた。


佐倉美緒:

「誰かが書いたってことですか」


送ってから、すぐに後悔した。聞きたくない答えだった。


香澄からの返事は少し遅れた。


藤堂香澄:

「断定はできません」


藤堂香澄:

「ただ、グループ内でしか出ていない情報に近いものが含まれているなら、可能性としては考える必要があります」


可能性。考える必要。


その言い方は、どこまでも感情を避けていた。


美緒は、スマホを握る手に力を入れた。


誰かが書いたのかもしれない。誰かが直接書いたわけではなくても、誰かが話したのかもしれない。悪気なく漏らしたのかもしれない。どれも、可能性。


美緒は、下位妻グループの画面を思い出した。


名前は……呼ばれました。優しかったです。そんな大げさなことじゃないです。


自分が送った言葉。その時は、言いたかった。全部は言えない。でも、少しだけ分かってほしかった。


美緒は思う。


自分が悪かったのかもしれない。


匂わせたから。呼ばれたことを隠しきれなかったから。名前を呼ばれたと書いたから。璃子に気にかけられたことを、うまく小さくできなかったから。


話しすぎたのかもしれない。


藤堂香澄:

「ここでは、言葉にしたものから外に出ます」


説明会で聞いたような文だった。でも今は、資料の中のルールではなかった。自分の部屋の中に、直接届いた言葉だった。


ここでは、言葉にしたものから外に出る。


美緒は、その文を何度も読んだ。


おめでとうございます。名前は……呼ばれました。優しかったです。大げさなことじゃないです。


そして、妻として正式に登録される前のSNS。


詳しくは言えないけど、人生って何があるかわからない。


全部、言葉にした。全部、どこかへ出ていった。


佐倉美緒:

「私が悪いんでしょうか」


送るつもりはなかった。でも、気づいたら送信していた。


香澄からは、すぐには返ってこなかった。


少しして、返事が来た。


藤堂香澄:

「悪い、悪くないの話だけではありません」


慰めではなかった。でも、断罪でもなかった。


藤堂香澄:

「守られたいなら、まず規約を読んでください」


その言葉は、冷たかった。でも、たぶん正しい。


守られたいなら。


美緒は守られたかった。匿名の悪意から。自分の言葉が外に出ていく怖さから。でも、守られるためには、まず規約を読む。それがこの場所なのだ。


感情より先に手続き。痛みより先に証拠。不安より先に規約。


美緒は、スマホを膝の上に置いた。


香澄は悪くない。たぶん、助けようとしてくれている。でも、その正しさは美緒を温めなかった。


少しして、別の通知が来た。


成瀬莉央。


美緒は、香澄とのチャットを閉じ、莉央のメッセージを開いた。


成瀬莉央:

「見た?」


それだけだった。


佐倉美緒:

「見ました」


すぐに返事が来る。


成瀬莉央:

「きついよね」


美緒は、その一文を見て、少しだけ息が抜けた。


きついよね。それだけ。でも、香澄のどの言葉よりも、今の美緒には近かった。


佐倉美緒:

「はい」


莉央から続けてメッセージが来る。


成瀬莉央:

「名前出てないのに、自分だって分かるやつが一番きつい」


そう。それだった。名前が出ていないから、逃げられない。断片が全部自分を向いている。


莉央は、それを分かっている。


佐倉美緒:

「怖いです」


送った瞬間、目の奥が熱くなった。


怖い。その一言を、やっと言えた。


下位妻グループには言えなかった。乃亜にも言えなかった。璃子にも、香澄にも言えなかった。でも、莉央には送れた。


成瀬莉央:

「分かる」


成瀬莉央:

「私も最初、めちゃくちゃ見た」


成瀬莉央:

「見ない方がいいのにね」


美緒は、小さくうなずいた。誰も見ていない部屋で、画面に向かってうなずく。


見ない方がいい。それは分かっている。でも、見てしまう。自分がどんな形で噂されているのか。どこまで知られているのか。知らないままでいる方が怖い。


成瀬莉央:

「あと、匂わせたくなるのも分かるよ」


美緒の指が止まった。


莉央は続ける。


成瀬莉央:

「妻になったのに、外では前の名前のままでしょ」


成瀬莉央:

「何も変わってないみたいで怖いじゃん」


成瀬莉央:

「だから、どこかに残したくなるんだよね」


美緒は、画面を見つめたまま、動けなかった。


どこかに残したくなる。その言葉が、胸の中にまっすぐ入ってくる。


第2話の自分。イベント会場で、周りのファンを見ながら、私はもうあっち側じゃないと思った自分。でもチケット名義も、職場の呼び名も、配送先の名前も、全部佐倉美緒のままだった自分。


妻になったのに、世界のどこにも妻としての痕跡がない。


だから、書いた。


詳しくは言えないけど。夢みたい。好きでいるって報われることもあるんだね。


それは、ただの自慢ではなかった。もちろん、嫉妬されたい気持ちもあった。でも、それだけではなかった。何も残らないのが怖かった。


莉央は、それを知っている。


成瀬莉央:

「浅ましいとかじゃないよ」


成瀬莉央:

「まあ、浅ましさもあるんだけど」


美緒は、少しだけ笑ってしまった。本当に少しだけ。声にならない笑いが出た。


莉央の言葉は、優しいだけではない。でも、その分だけ近かった。


浅ましさもある。そう言ってくれる方が、むしろ楽だった。全部きれいな気持ちではなかった。でも、ただ消えたくもなかった。どれも本当だった。


佐倉美緒:

「私だけじゃないんですね」


莉央から、すぐに返事が来る。


成瀬莉央:

「うん」


成瀬莉央:

「たぶん、みんな一回はやってる」


成瀬莉央:

「やるか、やらないかは別として」


美緒は、その言葉に少し救われた。


自分だけが変だったわけではない。妻になったのに名乗れない。呼ばれたのに言えない。特別になったはずなのに、外の世界では何も変わらない。その苦しさは、他の妻たちにもあったのだ。


美緒は、少しだけ息がしやすくなった。


けれど、莉央の次のメッセージで、その息はまた浅くなった。


成瀬莉央:

「でもね、ここって見てる人多いから」


ここ。妻コミュニティ。古妻ノート。匿名掲示板。下位妻グループ。


どこを指しているのか、分からない。たぶん、全部だ。


成瀬莉央:

「叱られるだけで済むうちは、まだいい方」


美緒の胸が、冷えた。


叱られるだけで済むうちは。


その言葉は、軽く送られてきたのに、重かった。この先に、叱られるだけでは済まないことがある。莉央は、それを知っている。


美緒はスマホを握りしめた。


残したくなる。残るから怖い。その二つが、同じ場所にある。


成瀬莉央:

「忘れられるくらいなら、叱られた方がマシって思う時もあるけどね」


美緒は、その文を読んで、また息を止めた。


忘れられるくらいなら。


分かってしまった。


分かりたくなかったのに、分かってしまった。


呼ばれない夜。通知が来ないスマホ。妻なのに、妻だと言えない日常。その中で、叱られることすら、見られている証に思える時がある。


その感覚に触れてしまったことが、美緒は怖かった。


佐倉美緒:

「怖いですね」


それだけ送った。


莉央からは、少し間を置いて返事が来た。


成瀬莉央:

「うん」


成瀬莉央:

「でも、怖いって思えてるうちは大丈夫だと思う」


本当にそうなのだろうか。美緒には分からなかった。


怖いと思っている。でも、見てしまう。残るのが怖い。でも、何も残らないのも怖い。


自分が何を怖がっているのか、分からなくなっていた。


そのあと、香澄からもう一通メッセージが来た。


藤堂香澄:

「投稿のURLとスクリーンショットは、まとめておいてください」


藤堂香澄:

「今後、必要になる可能性があります」


美緒は、二つの画面を行ったり来たりした。


香澄は、残せと言う。莉央は、残したくなる気持ちを分かると言う。


残ることが怖い。でも、何も残らないことも怖い。


美緒は、スマホを伏せた。


画面が暗くなる。でも、頭の中では二つの声が消えなかった。


スクショは、残るから。


どこかに残したくなるんだよね。


美緒は、暗い画面にぼんやり映る自分の顔を見た。


守られたいなら、規約を読まなければいけない。でも、誰かに見つけてほしいなら、何かを残したくなる。


その二つの間で、美緒は、自分がどちらへ逃げたいのか分からなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ