第33話【名前のない断片】
最初は、一つだけだった。
最近入った第13、もう第1さんに拾われたらしい。
その投稿を見た時、美緒は、しばらく動けなかった。
名前はない。佐倉美緒とは書かれていない。顔も、職場も、年齢も出ていない。
それなのに、自分のことだと分かった。
第13。第1さん。拾われた。
その三つの言葉だけで、十分だった。
美緒はその夜、スマホを伏せた。
見なかったことにしようと思った。
匿名の投稿なんて、いくらでもある。古妻ノートには、前から根拠のない噂が流れていた。天城蓮の妻たちについて、誰かが勝手に書くことは珍しくない。
だから、あれもただの噂だ。そう思おうとした。
けれど翌日、仕事前にスマホを開くと、投稿は一つではなくなっていた。
「第13、思ったより早かったね」
美緒は、指を止めた。
その下に、別の投稿がある。
「新人下位妻、第1さんに拾われたって本当?」
さらに、その下。
「居酒屋勤務って噂の子?」
美緒は、息を止めた。
居酒屋勤務。その言葉だけ、急に画面から浮き上がって見えた。
第13。新人。第1さん。居酒屋勤務。
断片だった。ひとつひとつは、まだ曖昧だ。名前も出ていない。でも、並ぶと自分の形になる。
美緒は画面を閉じようとして、できなかった。
見ない方がいい。そう思う。でも、見ないでいる方が怖い。自分について、何が書かれているのか分からないまま時間が進む方が怖い。
美緒は、もう一度画面を下へ送った。
「前に匂わせしてたアカウント、あれ第13じゃない?」
胸の奥が、小さく冷えた。
第2話の夜を思い出す。
信じられないことが起きた。ずっと応援してきてよかった。詳しくは言えないけど、人生って何があるかわからない。
あの時、美緒は嬉しかった。妻になったことを、どこかに残したかった。全部は言えない。でも、何かが起きたことだけは、誰かに気づいてほしかった。
妻になったのに、外では佐倉美緒のまま。居酒屋でも佐倉さん。給与明細も佐倉。どこにも天城はない。
だから、少しだけ書いた。自分が妻になった痕跡を、画面の上に置きたかった。
その投稿が、今は「匂わせしてたアカウント」と呼ばれている。
美緒は、スマホを握る手に力を入れた。
自分が悪かったのだろうか。あの時、書かなければよかったのだろうか。
でも、書かなかったら。
妻になったことが、本当に自分の中だけで終わってしまう気がした。
美緒は、さらに投稿を見た。
「呼ばれたらしいけど、もう調子乗ってる?」
「下位妻なのに第1さんルート早すぎ」
「名前呼ばれたって浮かれてたらしい」
美緒は、そこで画面を止めた。
名前呼ばれた。
それは、下位妻グループで言ったことだった。
名前は……呼ばれました。
その一文を送った時、画面が少し止まった。麻衣が、それは強い、と言った。千紗が、へえ、とだけ返した。琴葉が、よかったね、と言った。乃亜が、……そっか、と送った。
あの時の沈黙を、美緒はまだ覚えている。
名前を呼ばれたことは、大事だった。
天城蓮が、美緒と呼んだ。第13ではなく。佐倉さんでもなく。美緒。その一言だけで、呼ばれた夜は特別になった。
その大事なものが、匿名の画面では「浮かれてたらしい」になる。
美緒は、唇を噛んだ。
誰が書いたのだろう。
下位妻グループの誰か。そう考えた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
麻衣。千紗。琴葉。乃亜。
名前が順番に浮かぶ。
麻衣は、軽い。悪気なく、どこかで話してしまうことはあるかもしれない。
千紗は、刺す。美緒が呼ばれた時も、名前呼びか、若いっていいね、と言った。
琴葉は、違うと思いたい。美緒が呼ばれた時も、無理に言わなくて大丈夫だと守ってくれた。
乃亜。
その名前が浮かぶと、美緒はすぐに否定した。
違う。乃亜は違う。
乃亜は、最初に声をかけてくれた。下の方同士、気楽にやろ、と言ってくれた。琴葉が呼ばれた夜、隣を歩いてくれた。美緒が祝えないことを、責めなかった。
美緒ちゃんが呼ばれてよかった。そう言ってくれた。
乃亜は違う。そう思いたいのに、投稿の文字は消えなかった。
名前呼ばれたって浮かれてたらしい。
乃亜も知っている。美緒が名前を呼ばれたことを。呼ばれてから、下位妻グループにうまく戻れなくなったことを。
知っている人が、少なすぎる。だから、疑いはどうしても内側へ向かう。
美緒は、スマホを伏せた。
部屋の中は静かだった。カーテンの隙間から朝の光が少し入っている。ベッドの上には、畳みきれなかった服がある。
いつもの部屋だった。
画面の中で自分が少しずつ別のものにされているのに、部屋は何も変わっていない。
美緒は、しばらくそのまま座っていた。
でも、またスマホを手に取った。
見ない方がいい。そう思うのに、開いてしまう。
古妻ノートだけではなく、妻向けの匿名掲示板も見た。
そこにも、似たような投稿があった。
「第13って、例の居酒屋の子?」
「第一さんに拾われた下位妻、調子乗ってそう」
「蓮の子ほしい系のファン、マジでいるから怖い」
美緒は、そこで呼吸が浅くなった。
蓮の子ほしい系のファン。
第1話の夜、凛に言った言葉が戻ってくる。
いつか、あの人の子どもが欲しいって思ってた。笑わないでよ、と言った。ファンの妄想だって分かってるけど、と言った。
凛は少し驚いて、それでも美緒を笑わなかった。
あれは、誰にも触られたくない願いだった。
その夢が、画面の中では下世話な言葉に変わっている。
子ども狙い。蓮の子ほしい系。怖い。
匿名投稿者は、凛との会話を知っているわけではない。たぶん、知らない。ただ勝手に言っているだけだ。
それなのに、美緒には、自分の心の一番柔らかい場所を指で押されたように感じた。
違う。そう言いたかった。
ただ、好きだった。ずっと好きだった。その他大勢ではなくなりたかった。あの人の人生のどこかに、自分の名前を残したかった。
それをどう説明しても、画面の中ではきっと別の言葉になる。
匂わせ。調子乗り。子ども狙い。
美緒は、スマホを膝の上に落とした。
画面はまだついている。白い光が、部屋の薄暗さの中でやけにはっきりしていた。
下位妻グループを開こうとした。指が、アプリの上で止まる。
麻衣なら、見ない方がいいよ、と言うかもしれない。千紗なら、火のないところに煙は立たない、と言うかもしれない。琴葉なら、そういうのは気にしない方がいいよ、とやわらかく言うかもしれない。乃亜なら、大丈夫?と聞いてくれるかもしれない。
その全部を想像して、美緒は開けなくなった。
下位妻グループは、最初は救いだった。
呼ばれない夜を一緒に笑ってくれた。旧姓のまま働く痛みを、笑いに変えてくれた。天城姓を名乗れないことを、自分だけの痛みではないと思わせてくれた。
でも今は、その画面の向こうに誰がいるのか分からない。
誰かが自分の言葉を、外へ出したのかもしれない。誰かが悪気なく話したのかもしれない。誰かがスクショを撮ったのかもしれない。誰かが、何もしていないのかもしれない。
分からない。分からないから、全部が怖い。
美緒は、乃亜との個別チャットを開いた。
最後に残っているのは、猫のスタンプだった。
乃亜が送ってくれた、軽いスタンプ。その上に、短い言葉がある。
美緒ちゃんが呼ばれてよかった。
美緒は、その文字を見つめた。
相談したい。
乃亜ちゃん、変な投稿がある。これ、私のことだよね。誰が書いたんだろう。
そう送りたかった。でも、送れない。
相談するということは、信じるということだった。
今の美緒は、乃亜を信じたい。信じたいからこそ、送れなかった。
もし乃亜が少しでもぎこちない返事をしたら。もし、返信が遅かったら。
美緒はきっと、そこにも意味を見つけてしまう。疑いたくない人を、疑う材料にしてしまう。
美緒はチャットを閉じた。
次に、璃子の連絡欄を見た。
つらくなったら、相談して。第1妻の声が戻ってくる。
璃子なら、どう言うだろう。あなたは悪くないわ。気にしなくていいの。今は自分を守って。
そう言ってくれるかもしれない。
でも、朝比奈紬の声も思い出した。
相談内容によっては、記録に残す必要があります。
記録に残る。その言葉だけで、美緒は指を離した。
相談すれば、また何かが正式なものになる。自分の不安が、誰かの管理する項目になる。それも怖かった。
美緒は、スマホを伏せた。
画面が暗くなる。でも、文字は消えない。
第13。新入り。居酒屋勤務。匂わせ。名前呼ばれた。第1さんに拾われた。子ども狙い。
名前は出ていない。だから、違うと言えば違うのかもしれない。
でも、美緒には分かった。これは自分のことだ。
名前を書かれていないからこそ、逃げられなかった。
美緒は、伏せたスマホを見つめた。
下位妻グループも開けない。乃亜にも送れない。璃子にも相談できない。
どこにも行けないまま、画面の向こうで、自分だけが少しずつ増えていく。
名前のない悪意は、名前がないまま、美緒の部屋に入り込んでいた。




