第30話【上ルート開通】
璃子の言葉は、部屋に戻ってからも美緒の中に残っていた。
妻になったのに、妻だと言えないでしょう。
その一文を思い出すたび、胸の奥が少し熱くなる。
部屋の電気をつけても、ホテルの静かな空気がまだ身体に残っている気がした。ふかふかした絨毯。小さく吸われていく足音。紙コップのコーヒー。資料を回収していたスタッフの淡々とした声。
規約全文はアプリ側からも確認できますので。
あの言葉も、なぜか頭に残っていた。
持ち帰れない資料。残させない紙。全部アプリの中にある規約。ログイン履歴まで残っていそうな静かな怖さ。
でも今の美緒は、その怖さよりも、璃子に声をかけられたことの方が大きかった。
蓮さんから、お話は聞いています。
お仕事も頑張っているみたいですね。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥がふわっと浮く。
蓮が、自分のことを話していた。
仕事のことを。
頑張っている、と。
美緒は、ベッドに腰掛けたままスマホを開いた。
下位妻グループには、すでにメッセージが増えていた。
桐谷麻衣:
「おつかれー」
白石琴葉:
「今日は疲れたね」
三枝乃亜:
「資料回収されるのちょっと怖かった」
麻衣がすぐ返す。
桐谷麻衣:
「分かる笑」
桐谷麻衣:
「持って帰らせてくれないんだってなった」
美緒は、少しだけ安心した。
さっきまで会場にあった緊張が、グループの中では少し軽くなっている。
でも、その安心は長く続かなかった。
桐谷麻衣:
「美緒ちゃん、上の会どうだった?」
美緒の指が止まった。
上の会。
たぶん、説明会のことだ。麻衣らしい言い方だった。正式な名前を少し崩して、重くなりすぎないようにしている。
けれど、美緒にはその言葉が少しだけ刺さった。
上。
そうだ。あれは上の会だった。
下位妻グループとは違う場所。中位妻がいて、上位妻がいて、第1妻が場を整える場所。
そこへ自分は行った。
第13妻なのに。
すぐに、千紗が返した。
小野寺千紗:
「第1さん、わざわざ来てたね」
美緒は、スマホを握る手に力を入れた。
見られていた。
分かっていたはずなのに、文字にされると息が詰まる。
璃子が自分の前に立ったこと。
蓮から話を聞いていると言ったこと。
仕事を頑張っているみたいですね、と言ったこと。
その全部を、下位妻たちの誰かが見ていた。
少なくとも、聞いていた。
白石琴葉:
「千紗さん」
小野寺千紗:
「いや別に悪い意味じゃないって」
その一文が、逆に痛かった。
悪い意味じゃない。
本当にそうなのだと思う。
千紗は、美緒を追い出したいわけじゃない。ただ、見えてしまった差を、そのまま言葉にしているだけ。
でも、その現実が刺さる。
桐谷麻衣:
「でもほんとすごいよ」
麻衣の言葉が続いた。
桐谷麻衣:
「私たちの中で、第1さんとあんな長く話してた人いなかったし」
美緒は、返事ができなかった。
長く。
そうだったのだろうか。
自分では、ほんの少し話しただけのつもりだった。でも、下位妻たちから見れば違ったのかもしれない。
第1妻が、美緒の前で足を止めた。
それだけで、十分特別だった。
桐谷麻衣:
「上ルート開通って感じ」
その一文に、グループが少しだけ静かになった。
冗談だ。
麻衣は、空気を軽くしようとしている。
でも、美緒の胸は妙にざわついた。
上ルート。
その言葉の意味が、分かってしまう。
上位妻。
中位妻。
下位妻。
その区分の中で、美緒だけが少し違う場所へ足をかけたみたいな響き。
白石琴葉:
「麻衣ちゃん、そういう言い方……」
桐谷麻衣:
「ごめんごめん笑」
小野寺千紗:
「でも名前呼ばれるだけあるね」
美緒の呼吸が、一瞬止まる。
名前呼び。
呼ばれました。
以前、自分が送った言葉が頭に戻ってくる。
第13妻なのに。
新しく入ったばかりなのに。
蓮に名前を呼ばれた。
あの時は、少しだけ誇らしかった。
嫉妬されたかった。
羨ましがられたかった。
でも今は、その言葉が自分を切ってくる。
白石琴葉:
「千紗さん」
小野寺千紗:
「だから褒めてるって」
褒めている。
たぶん、本当にそうなのだ。
でも、その褒め方は、距離を作る。
美緒は、スマホを見つめたまま動けなくなった。
三枝乃亜:
「まあでも、第1さん優しかったでしょ」
その言葉に、美緒は少しだけ救われた。
乃亜は、いつもの乃亜だった。
でも同時に、美緒は思い出す。
椅子を運んでいた乃亜の手が、ほんの少し止まったこと。
蓮さんから、お話は聞いています。
その瞬間を、乃亜は聞いていた。
佐倉美緒:
「……優しかったです」
送ったあと、自分でしまったと思った。
優しかった。
それは本音だった。
でも、その本音を下位妻グループへ置いた瞬間、空気が少し変わった気がした。
既読だけが増えていく。
麻衣も、琴葉も、千紗も、乃亜も。
誰もすぐには返さない。
少しして、麻衣が送った。
桐谷麻衣:
「そっか」
短い一文だった。
その軽さに、美緒は逆に息が苦しくなる。
もっと笑ってほしかった。
茶化してほしかった。
いつもの空気に戻してほしかった。
でも、戻らない。
小野寺千紗:
「第1さんに気に入られると強いらしいよ」
その言葉に、美緒の胸がまたざわつく。
強い。
また、順位の言葉だ。
下位。
上位。
強い。
呼ばれる。
この場所では、全部が比較に変わる。
美緒は、スマホを伏せた。
部屋の静けさが戻ってくる。
でも、もう前と同じ静けさではなかった。
璃子に救われたはずなのに。
その救いが、下位妻たちとの距離を少しずつ変えていく。
美緒は、そのことをまだうまく受け止めきれなかった。




