第31話【ここって見てる人多いから】
下位妻グループの会話は、しばらく続いた。
でも、美緒はもうほとんど返信できなかった。
スマホを開いても、文字がうまく浮かばない。
優しかったです。
自分で送ったその一文が、まだ胸に残っている。
璃子は本当に優しかった。
でも、その優しさを下位妻グループへ持ち帰った瞬間、空気が少し変わった。
たぶん、もう前と同じではいられない。
そんなことを考えていた時、通知が来た。
成瀬莉央:
「今日はお疲れさま」
美緒は、一瞬画面を見つめた。
莉央。
説明会で隣に座っていた、第8配偶者。
緊張するよね、と笑ってくれた人。
美緒は少し迷ってから返信した。
佐倉美緒:
「お疲れさまです」
すぐに返ってくる。
成瀬莉央:
「敬語だ笑」
美緒は、少しだけ口元をゆるめた。
成瀬莉央:
「まあ最初そうなるよね」
成瀬莉央:
「私も最初ガチガチだったし」
その軽さが、少しだけありがたかった。
下位妻グループの空気とは違う。
刺される感じがない。
でも、完全に安心できるわけでもない。
莉央は、下位妻ではない。
中位妻。
説明会の時も、下位妻たちとは少し違う場所にいた。
佐倉美緒:
「今日はすごく緊張しました」
成瀬莉央:
「だよね」
成瀬莉央:
「資料とか怖いし」
美緒は、回収されていった紙を思い出した。
出口で静かに積まれていく資料。
規約全文はアプリ側からも確認できますので。
あの事務的な声。
成瀬莉央:
「最初さ」
成瀬莉央:
「妻になったのに旧姓のままなの、結構きつくない?」
美緒は、指が止まった。
その言葉は、思っていたより深く入ってきた。
妻になったのに、旧姓のまま。
まさにそれだった。
給与明細も。
病院も。
郵便物も。
職場も。
全部、佐倉美緒。
天城蓮の妻なのに、どこにも残らない。
佐倉美緒:
「……きついです」
打ったあと、少しだけ安心した。
下位妻グループには送れない言葉だった。
成瀬莉央:
「分かる」
成瀬莉央:
「私も最初、めちゃくちゃ匂わせたくなった」
美緒の胸が、小さく跳ねる。
匂わせ。
SNSに書きたくなる気持ち。
意味深な写真。
誰かに気づいてほしい感じ。
美緒にも、あった。
呼ばれた夜のあと、何か投稿したくなった。
幸せだった。
特別だった。
名前を呼ばれた。
誰にも言えないからこそ、どこかに残したくなる。
成瀬莉央:
「でもね」
少し間が空いた。
成瀬莉央:
「ここって見てる人多いから」
美緒は、画面を見つめた。
見てる人。
それは、誰だろう。
妻たち。
運営。
紬。
璃子。
それとも、もっと別の誰か。
成瀬莉央:
「別グループとか普通にあるし」
成瀬莉央:
「スクショも回る時は回る」
美緒の背中が少し冷える。
【第9〜第12配偶者連絡】
あの画面が頭に戻る。
成瀬莉央:
「だから、嬉しい時ほど気をつけた方がいい」
その言葉は、優しかった。
でも同時に、警告だった。
美緒は、スマホを握りしめる。
嬉しい時ほど。
つまり莉央は、分かっているのだ。
美緒が今、浮いていることを。
第1妻に声をかけられたこと。
蓮から話を聞いていると言われたこと。
下位妻たちとの空気が変わったこと。
全部。
佐倉美緒:
「ありがとうございます」
成瀬莉央:
「まあ私もやらかしたことあるし笑」
その軽さに、美緒は少しだけ救われた。
でも、完全には安心できない。
莉央は優しい。
でも、この人もまた「見ている側」なのかもしれない。
通知がもう一つ来る。
篠原芽衣子:
「今日はお疲れさまでした」
美緒は、息を止めた。
芽衣子。
説明会で、璃子さんに相談するといいと言った人。
中位妻。
上の人。
佐倉美緒:
「お疲れさまです」
篠原芽衣子:
「今日はかなり緊張していたでしょう」
佐倉美緒:
「少しだけ」
篠原芽衣子:
「最初はみんなそうだから、大丈夫」
その言葉は丁寧だった。
整っている。
でも、安心感もあった。
下位妻グループでは、もう少し言葉を選ばなければならない。
でも芽衣子や莉央には、少し違う話ができる気がした。
それが、少し怖い。
芽衣子から、もう一通来る。
篠原芽衣子:
「璃子さんが気にかけているなら、無理に一人で抱えなくて大丈夫よ」
その一文に、美緒はまた胸が熱くなった。
璃子が気にかけている。
それは今、このコミュニティの中で特別な意味を持つ。
少し迷ってから、芽衣子が続けた。
篠原芽衣子:
「あと、変な掲示板は見ない方がいいわ」
美緒は、思わず画面を見つめた。
佐倉美緒:
「掲示板?」
篠原芽衣子:
「古妻ノートとか」
古妻ノート。
初めて聞く名前だった。
篠原芽衣子:
「ああいう場所、面白半分で書く人も多いから」
篠原芽衣子:
「序列が近い相手には言いづらいことでも、璃子さんなら聞いてくれることもあるし」
その言葉に、美緒は少しだけ息を止めた。
序列。
やっぱり、この場所にはそれがある。
上位。
中位。
下位。
そして今、美緒はその線の間で揺れている。
芽衣子は、美緒を安心させようとしてくれているのだと思う。
でも同時に、美緒は気づいてしまった。
古妻ノート。
そういう場所が存在するくらい、この制度は外から見られている。
妻たちだけの閉じた世界ではない。
篠原芽衣子:
「見ない方が、精神的には楽よ」
最後の一文は、少しだけ本音っぽかった。
美緒は、小さく「はい」と返した。
でも、その名前は頭に残った。
古妻ノート。
スマホを伏せても、その言葉だけが、静かに胸の奥へ残り続けていた。




