第29話【お気に入り】
説明会が終わっても、美緒はしばらく席を立てなかった。
資料は閉じている。ペットボトルの水も、半分ほど残っている。
周りの妻たちは、静かに荷物をまとめていた。
篠原芽衣子は会場係に何かを確認している。藤堂香澄は資料をきれいにそろえ、バッグにしまった。成瀬莉央は、美緒の方を一度見て、小さく笑ってくれた。相良真帆は、椅子にもたれるようにしてスマホを見ている。
久我璃子は、少し離れたところで朝比奈紬と話していた。
美緒は、その横顔を見つめた。
妻になったのに、妻だと言えないでしょう。
その言葉が、まだ胸の奥に残っている。
自分でもうまく形にできなかった痛みに、璃子は名前をつけてくれた。
天城姓を名乗れないこと。職場では佐倉さんのままでいること。配偶者用アプリの中だけに、自分の妻としての証があること。呼ばれた夜のことを、下位妻グループでどこまで話せばいいのか分からなかったこと。
そういうものを、璃子は分かっているように見えた。
美緒は、ほんの少しだけ救われていた。
下位妻グループで感じていたざわつきが、全部消えたわけではない。
【第9〜第12配偶者連絡】【参加権限がありません】
あの文字を見た時の沈み方は、まだ身体のどこかに残っている。
でも、下位妻グループの外にも、話せる場所があるのかもしれない。璃子さんに相談していい。そう思うだけで、呼吸が少し楽になった。
「佐倉さん」
声をかけられて、美緒は顔を上げた。篠原芽衣子だった。
「今日は疲れたでしょう」
「少し……緊張しました」
美緒が正直に言うと、芽衣子はやわらかく笑った。
「最初はみんなそうよ」
その言葉は、乃亜や琴葉も言ってくれた。でも、芽衣子の言い方は少し違う。落ち着いている。整っている。すでにその不安を通り過ぎた人の言葉だった。
「分からないことがあったら、璃子さんに相談してみるといいと思う」
芽衣子は、自然にそう言った。
「璃子さんが気にかけてくださっているなら、大丈夫」
大丈夫。その言葉に、美緒は少しだけほっとした。
璃子が気にかけてくれている。それは、ただの社交辞令ではないのかもしれない。美緒は、第一妻に見つけてもらえた。そんな気がした。
「ありがとうございます」
美緒が頭を下げると、芽衣子は小さく頷いた。
「勝手に抱え込むのが一番よくないから」
その言葉にも、少しだけ管理の響きがあった。でも今の美緒には、それよりも優しさの方が大きく聞こえた。
会場を出ようとした時、背後で小さな声がした。
「第1さん、またお気に入りを作ったんだ」
美緒は足を止めた。
声の主は、相良真帆だった。大きな声ではない。誰に向けた言葉なのかも分からない。隣にいた誰かに言ったのかもしれないし、独り言だったのかもしれない。
でも、美緒には聞こえた。
また。お気に入り。
その二つの言葉だけが、妙にはっきり残った。
美緒は振り返った。真帆はもうスマホをバッグにしまっていて、美緒を見てはいなかった。その横顔は、退屈そうにも、少しだけ冷めているようにも見えた。
美緒は、何も言えなかった。
お気に入り。
自分のことだろうか。
第1妻に気にかけられた。声をかけられた。相談していいと言われた。痛みに名前をつけてもらえた。それは、美緒にとって救いだった。
でも真帆の口から出ると、少し違うものに聞こえた。
お気に入りを作った。まるで、璃子がそういうことを何度もしているみたいに。まるで、美緒の前にも、同じように気にかけられた誰かがいたみたいに。
美緒の胸の奥に、小さな引っかかりができた。
「気にしない方がいいわ」
芽衣子が、静かに言った。
美緒ははっとして、芽衣子を見る。芽衣子は真帆の方を見ていなかった。でも、聞こえていたのだと思う。
「真帆さんは、少し言い方が強いだけだから」
少し言い方が強い。
千紗の時にも、似たようなことを思った。刺す人。現実を言う人。悪い人ではないのかもしれない。でも、言葉が残る人。
真帆もそうなのだろうか。
芽衣子は続けた。
「璃子さんは、入ったばかりの方を放っておけないの」
その声は丁寧だった。
「最初の時期は、誰でも判断を間違えやすいから」
判断。間違える。
美緒は、また資料の文字を思い出した。外部発信。呼び出し内容。スクリーンショット。子どもに関する情報。
確かに、自分はもう間違えかけていたのかもしれない。
名前を呼ばれたことを、下位妻グループに送った。仕事のことを聞かれたとも書いた。嫉妬されたいと、少しだけ思った。
その気持ちは、どこか危うかったのかもしれない。
でも璃子は、それを責めなかった。分からないことは一人で抱えなくていいから、と言ってくれた。
美緒は、小さくうなずいた。
「はい」
芽衣子は安心させるように笑った。
「璃子さんが気にかけてくださっているなら、心配しすぎなくていいと思う」
その言葉で、真帆の「また」は少しだけ薄くなった。完全には消えない。でも、璃子の声の方がまだ大きかった。
妻になったのに、妻だと言えないでしょう。
つらくなったら、相談して。ここにいる誰かでもいいし、私でもいいから。
美緒は、その言葉を抱えるようにして会場を出た。
出口付近では、スタッフが配布資料を回収していた。
「本日の資料は、こちらでお預かりします」
淡々とした声だった。
妻たちは慣れた様子で資料を渡していく。
美緒も少し迷ってから、手元の紙を差し出した。
呼び出し頻度。情報共有。外部発信。スクリーンショット。規約。
紙の中にあったものが、静かに回収されていく。
「規約全文はアプリ側からも確認できますので」
スタッフが事務的に言った。
美緒は小さく頷いた。
まるで、持ち帰る必要もないものだと言われているみたいだった。
ホテルの廊下は静かだった。ふかふかした絨毯に、靴音が吸われていく。窓の外には、夕方の街が少しだけ見えた。
いつもの居酒屋の床とは違う。下位妻たちと飲んだ安い店とも違う。生活の匂いが薄く、管理された場所。
それでも今の美緒には、その静けさが少し心地よかった。
上の人たちは怖い。でも、ただ怖いだけではなかった。
璃子は優しかった。紬は冷たかったけれど、正しかった。芽衣子は丁寧だった。莉央は少し近かった。香澄は淡々としていて怖かった。真帆の言葉は、まだ少し引っかかっている。
美緒は、エレベーターの前で立ち止まり、スマホを取り出した。
下位妻グループを開くか迷った。説明会、どうだった?そんなメッセージが来ているかもしれない。
でも、開かなかった。
まだ、自分の中にあるものを、あの場所へ戻したくなかった。璃子の言葉を、少しだけ自分の中に置いておきたかった。
エレベーターの扉が開く。
美緒は乗り込み、閉じていく扉の中で、ホテルの廊下を見つめた。
第1妻に気にかけられた。
その事実が、胸の奥で静かに光っていた。
それがどういう意味を持つのか、美緒にはまだ分からない。ただ今は、救われたと思いたかった。
*
会場の片付けが終わる頃、久我璃子は配布資料の残りを紬に渡した。
「今日の第13の子」
璃子は、静かに言った。
紬は資料を受け取りながら、顔だけを少し上げる。
「佐倉美緒さんですか」
「ええ」
璃子は、会場の出口の方を一度見た。もう美緒の姿はない。
「少し、不安定ね」
紬は表情を変えなかった。
「下位グループ内で、呼び出し後の情報共有があったようです」
「そう」
璃子は驚かなかった。
「若い子は、嬉しいことを黙っているのが難しいものね」
その声は責めるものではなかった。本当に、少し困ったような、少し懐かしむような声だった。
紬は続けた。
「注意対象にしますか」
璃子は少し考えた。それから、ゆっくり首を横に振った。
「今は、強く言わなくていいわ」
「では」
「蓮に共有しておいて」
璃子は、柔らかい声で言った。
「少し、あの子を見てあげて」
紬は短く頷いた。
「スケジュール側へも連携しておきます」
璃子は、もう一度だけ出口の方を見た。
「第13の子は、まだ、自分がどこに立っているのか分かっていないから」
その言葉は、心配のようにも聞こえた。管理のようにも聞こえた。
璃子自身にも、たぶんその区別ははっきりしていなかった。
会場の照明が、一つずつ落とされていく。
美緒の知らないところで、彼女の名前は静かに運ばれていた。




