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第28話【守るための場所】

会場の空気が、静かに整っていく。


誰かが大きな声を出したわけではない。司会者が到着を告げたわけでもない。


それでも、妻たちは自然に姿勢を直した。


篠原芽衣子が会場の係との会話を切り上げる。藤堂香澄が資料の角をそろえる。成瀬莉央が、手元で回していたペットボトルを机に置く。相良真帆も、退屈そうにしていた目を少しだけ上げた。


美緒も、つられるように背筋を伸ばした。


扉が開く。


先に入ってきたのは、細身の女性だった。


白いブラウスに、淡いグレーのジャケット。手には資料の入ったファイルを持っている。髪は低い位置でまとめられていて、表情はほとんど動かない。


名札を見る前に、美緒はこの人が朝比奈紬だと分かった。


第3妻。上位配偶者。


紬は会場を一度見渡し、資料の束を前方のテーブルへ置いた。動きに迷いがない。この場の段取りを、全部分かっている人の動きだった。


その後ろから、久我璃子が入ってきた。


美緒は、息を止めた。


写真では何度も見たことがあった。雑誌の記事。ネットニュース。制度利用著名人世帯の特集。天城蓮の第1妻として、落ち着いた笑顔で写っている人。


でも、実際に見る久我璃子は、写真よりも静かだった。


派手ではない。若い妻たちのように、華やかさで目を引くわけではない。けれど、姿勢が綺麗だった。立っているだけで、そこに一本の線が通るような人だった。


璃子は前方に立ち、会場をゆっくり見渡した。


目が合ったわけではない。それでも、美緒は見られたような気がした。


「今日は来てくれてありがとう」


璃子の声は、思っていたより低く、落ち着いていた。大きな声ではない。でも、会場の隅まで届く。


「登録されたばかりの方もいると思います」


その言葉で、美緒は少しだけ肩に力を入れた。


第13配偶者。佐倉美緒。そこに自分が入っている。


「分からないことを、一人で抱えないでください」


璃子は、ゆっくり続けた。


「ここは、守るための場所でもあります」


守る。その言葉は、やさしかった。


けれど、美緒は同時に、少しだけ別の響きも感じた。


守るための場所。それは、誰を守る場所なのだろう。妻を。天城蓮を。妻コミュニティを。制度を。


どれも、たぶん間違っていない。璃子の声は、その全部を包んでいるように聞こえた。


「非公表の立場にいる方は、外で言えないことも多いと思います」


璃子は、会場全体を見ながら言った。


「名前、仕事、生活、周囲との距離。登録されたからといって、急にすべてが変わるわけではありません」


美緒の胸が、小さく鳴った。


登録されたからといって、急にすべてが変わるわけではない。


その通りだった。


居酒屋では佐倉さん。給与明細も佐倉美緒。配送名義も佐倉。SNSでも天城姓は名乗れない。妻になったのに、外の世界には何も残らない。


その痛みを、璃子は最初から知っているみたいだった。


「だからこそ、判断に迷った時は、一人で決めないでください」


璃子は静かに言った。


「ここには、先に経験した人たちがいます」


美緒は、思わず周りを見た。


芽衣子。真帆。香澄。莉央。


中位妻たち。そして前方にいる、璃子と紬。先に経験した人たち。


その言葉は、美緒の不安に少しだけ触れた。


下位妻グループの中でぐるぐるしていたもの。別チャットを見つけて沈んだ気持ち。呼ばれた側になって、どう振る舞えばいいか分からなくなったこと。


そういうものも、この人たちはもう通っているのかもしれない。


璃子の挨拶が終わると、紬が一歩前に出た。


空気が少し変わった。


璃子の声が場を包むものだとしたら、紬の声は紙の端みたいだった。まっすぐで、薄くて、切れそうだった。


「本日は、配布資料に沿って説明します」


紬は淡々と言った。


「非公表配偶者の外部発信については、改めて資料を確認してください」


ページをめくる音が、会場に小さく広がる。美緒も慌てて資料を開いた。


「呼び出し内容や個別の接触については、グループ内であっても詳細共有を控えてください」


美緒の指が止まった。


呼び出し内容。個別の接触。グループ内であっても。


あの朝を思い出す。


少し話しました。名前は……呼ばれました。少し、仕事のことを聞かれました。


あれは、どこまで大丈夫だったのだろう。


美緒は、資料の文字を追った。


【個別連絡・呼び出し内容の共有制限】


【対象者の発言、指定場所、指定時刻、接触内容の詳細共有は禁止、または制限される場合があります】


禁止。制限。


その文字が、急に重くなる。


紬は、感情を入れずに続けた。


「スクリーンショットの保存、転送、第三者への提示は禁止されています」


藤堂香澄の声が、頭の中で重なった。


スクショは残りますから。


「妻間の私的なグループであっても、情報の扱いは同じです」


妻間の私的なグループ。


下位妻グループ。第9〜第13配偶者連絡。


美緒は、思わずスマホの入ったバッグに目を向けそうになり、こらえた。


「安全のためです」


紬は最後にそう付け加えた。


安全。その言葉は正しい。


正しいのだと思う。でも、美緒には少し冷たかった。


何から守るのか。誰を守るのか。何が起きたら、誰が切り離されるのか。そこまでは、まだ分からない。


紬の説明は続いた。


子どもに関する情報。非公表配偶者の職場情報。外部SNSでの匂わせ行為。匿名掲示板への書き込み。グループ外への転送。


どれも、今の美緒には遠いようで近かった。


凛に話した、いつか蓮さんの子どもが欲しいという夢。以前聞いた、子どもがいる妻は強いという言葉。千紗が放った、子どもとか、という一文。自分がSNSに書いた、詳しくは言えないけど、という匂わせ。


全部が、資料の中の項目とつながっていく。


美緒は、少し息苦しくなった。


紬は誰かを責めているわけではない。ただ説明している。けれど、その正しさは、美緒を温めなかった。


説明が一区切りついた時、璃子が再び前へ出た。


「少し硬い話が続きましたね」


その声だけで、会場の空気が少し緩んだ。


美緒は、自分がほっとしたことに気づいた。


紬が線を引く。璃子が、その線をやわらかく包む。二人は、そういう役割なのだと思った。


「怖がらせたいわけではありません」


璃子は言った。


「ただ、非公表でいるということは、自分のことだけを守るのではなく、他の方の生活も守るということです」


その言葉は、紬の説明よりやわらかかった。でも、やはり線はある。


美緒は、その中に自分が入っているのだと感じた。守られる側であり、守らなければならない側でもある。


「前半はここまでにします」


紬が事務的に告げた。


「十分ほど休憩を挟みます」


会場の空気が少し動く。


妻たちが席を立ち始めた。資料を閉じる音。椅子を引く音。小さな会話。会場後方では、ホテルスタッフが折りたたみテーブルを運び込み、紙コップとポットを並べ始めている。


コーヒー。紅茶。小さな焼き菓子。


立食パーティーというほど華やかではない。でも、張り詰めた空気を少しだけ緩めるための時間なのだと分かった。


麻衣が小さく笑う。


「急にホテル感すごい」


「最初からホテルだけど」


千紗が淡々と返す。


琴葉が困ったように笑った。


「千紗さん、そういう言い方」


乃亜は、美緒の方を見た。


「大丈夫?」


その声は優しかった。


でも、美緒は、すぐに返事ができなかった。


紬の説明が、まだ胸に残っている。


呼び出し内容。共有制限。記録。スクリーンショット。


昨夜のことを思い出すたび、自分が少し危うい場所に立っている気がした。


「佐倉美緒さんね」


声がして、美緒は顔を上げた。


璃子が、目の前に立っていた。


美緒は慌てて立ち上がる。


「あ、はい」


後ろで、椅子を動かす音がした。


乃亜が、スタッフの邪魔にならないよう椅子を寄せているのが、視界の端に入る。


「第13配偶者として登録されたばかりでしょう」


璃子は、美緒の名札を確認するような素振りも見せずに言った。


最初から知っていたみたいに。


美緒の胸がまた小さく鳴る。


第13配偶者。佐倉美緒。


第1妻が、自分を知っている。


それだけで、足元が少し浮くようだった。


「慣れないことが多いと思うけれど」


璃子の声は穏やかだった。


「分からないことは、一人で抱えなくていいから」


その言葉は、さっき全体に向けて言ったものと似ていた。でも今は、美緒だけに向けられている。そう感じた。


美緒は、うまく返事ができなかった。


「ありがとうございます」


やっと出た声は、少し小さかった。


璃子は、責めるような顔をしなかった。ただ、少しだけ目元をやわらかくした。


「蓮さんから、お話は聞いています」


美緒は、息を止めた。


「お仕事も頑張っているみたいですね」


その言葉は優しかった。


責める響きは何もない。ただ、新しく入った妻を安心させるための言葉。


でも、美緒の胸は、一瞬で熱くなった。


蓮が、自分のことを話している。


仕事のことを。頑張っている、と。


その事実だけで、足元が少し浮く。


その時だった。


視界の端で、乃亜の手がほんの少し止まった。


椅子を動かしていた手。


すぐにまた動き出す。


表情は変わっていない。いつもの乃亜のままだった。


でも、美緒は思った。


今の、聞かれた。


胸の奥が、小さく冷える。


蓮が、自分の話をしていた。


それを知った瞬間、自分がまた少し、下位妻たちの場所から遠くなった気がした。


「入ったばかりの頃は、誰でも不安になるの」


璃子は続けた。


不安。


自分は不安だったのだろうか。


下位妻グループが全部ではなかったこと。別チャットがあったこと。呼ばれた後の空気が変わったこと。何を言っても誰かを傷つける気がしたこと。


それを全部、不安、と呼んでもいいのだろうか。


璃子は続けた。


「妻になったのに、妻だと言えないでしょう」


美緒は、何も言えなくなった。


その一文が、胸の奥にまっすぐ入ってきた。


妻になったのに、妻だと言えない。


誰にも、ちゃんとそう言ってもらったことがなかった。


凛には話せた。下位妻たちは笑いにしてくれた。乃亜は近くにいてくれた。でも、この痛みに、こんなに静かに名前をつけた人はいなかった。


璃子は、美緒を見ていた。見下ろしているわけではない。若い妻を値踏みしているわけでもない。ただ、そこにある痛みを知っている人の顔だった。


「つらくなったら、相談して」


璃子は言った。


「ここにいる誰かでもいいし、私でもいいから」


私でもいいから。


その言葉に、美緒の胸が熱くなった。


第一妻が。久我璃子が。自分に、相談していいと言っている。


下位妻グループの外にも、場所がある。そのことが、今度こそ本当に救いのように思えた。


その時、紬が横から静かに言った。


「ただし、相談内容によっては、記録に残す必要があります」


美緒は、少しだけ肩を揺らした。


璃子が、紬の方を見る。


「もちろん。必要な時はね」


それから美緒へ視線を戻し、少し微笑んだ。


「怖がらなくて大丈夫」


怖がらなくて大丈夫。


そう言われると、少しだけ怖さが増す。


でも、それ以上に、璃子の声はやさしかった。


紬が引いた線を、璃子がやわらかく包む。


隠したのではない。包んだのだと思った。


美緒は、その包まれる感じに逆らえなかった。


「はい」


そう答えると、璃子は静かにうなずいた。


「無理をしないでね、佐倉さん」


佐倉さん。天城ではない。そこに少し痛みがある。


でも今は、久我璃子に名前を呼ばれたことの方が大きかった。


璃子が離れていく。


その姿を、会場の何人が見ていたのだろう。


下位妻たちの席の方を、美緒は見られなかった。


乃亜がどんな顔をしているのか。麻衣が笑っているのか。千紗が何を思っているのか。琴葉が困ったようにしているのか。


知りたかった。でも、知るのが怖かった。


美緒は、そっと資料を閉じた。


さっきまで冷たかった紙が、少しだけ違って見える。


ここは管理される場所だ。そのことは分かる。


でも今の美緒には、管理されることと守られることの違いが、まだうまく分からなかった。


ただ、璃子の声だけが残っていた。


妻になったのに、妻だと言えないでしょう。


その言葉を思い出すたび、美緒は、自分が少しだけ救われたような気がした。

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