第27話【上の人たち】
説明会の会場は、ホテルの小会議室だった。
駅前の大きなホテルではない。でも、ロビーには静かな音楽が流れていて、床はきれいに磨かれていた。受付の人の声も、歩く人の足音も、少しだけ小さく聞こえる。
美緒は、エレベーターの鏡で自分の服をもう一度確認した。
派手すぎないブラウス。膝が隠れるスカート。いつもより少し丁寧に整えた髪。
下位妻グループの飲み会に行った時とは違う。
あの時は、安い居酒屋で、飲み放題のグラスを持って、呼ばれない夜を笑っていた。
今日は違う。
登録配偶者向け説明会。非公表配偶者の安全管理。外部発信。子どもに関する情報の取り扱い。
通知の文字を思い出すだけで、背筋が少し伸びる。
ここは、妻たちが愚痴を言う場所ではない。笑って痛みを軽くする場所でもない。制度の中で、どう振る舞うかを教えられる場所。そう思った。
会場の扉の前で、名前を確認された。
「佐倉美緒様ですね」
天城ではない。当然のように、そう呼ばれる。
美緒は小さくうなずいた。
「はい」
渡された名札にも、佐倉美緒、と印字されていた。第13配偶者。佐倉美緒。名札の下に小さくそう書かれている。
妻なのに、天城の名前はない。そのことには、もう慣れたはずだった。でも、こういう正式な場で見ると、やっぱり少しだけ胸の奥が痛む。
会場に入ると、空気がすぐに変わった。
白いテーブルクロス。整然と並んだ椅子。一人分ずつ置かれた資料。小さなペットボトルの水。名札を差し込む透明なケース。
誰も大きな声で笑っていない。話している人たちも、声を落としている。椅子を引く音まで、どこか控えめだった。
安い居酒屋とは違う。ポテトもない。枝豆もない。飲み放題のグラスもない。
それでも、見慣れた顔はあった。
少し奥の席に、麻衣、千紗、琴葉、乃亜が並んで座っていた。
美緒は、一瞬だけほっとした。
知っている人がいる。
そう思っただけで、肩の力が少し抜けた。
けれど、次の瞬間、その安心は少しだけ形を変えた。
麻衣は美緒に気づくと、いつものように手を上げた。
「美緒ちゃん、こっち」
声は明るかった。でも、居酒屋で聞いた時より少しだけ小さい。ここがそういう場所なのだと、麻衣も分かっているのだろう。
琴葉も、やわらかく会釈した。
「おはよう、美緒ちゃん」
乃亜は、美緒を見て小さく笑った。
「来たね」
その言葉は優しかった。たぶん本当に、そうだった。
でも、美緒は、その笑顔の奥にほんの少しだけ距離を見た気がした。
気のせいかもしれない。そう思いたかった。
千紗は資料をめくりながら、目だけを上げた。
「ちゃんと来たんだ」
「はい」
美緒は席の近くまで行った。
「こういうの、初めてで」
「みんな最初は初めてでしょ」
千紗は淡々と言った。
その声には、昨日までと同じ棘があった。でも今日は、会場の静けさのせいか、少しだけ細く聞こえた。
麻衣が軽く笑う。
「まあまあ。美緒ちゃん、緊張してるんだから」
「緊張するほどのことじゃないよ。資料読んで、はい分かりましたって顔して帰るだけ」
「千紗ちゃん、言い方」
琴葉が小さく止める。
千紗は肩をすくめた。
「言い方も何も、そのままじゃん」
乃亜は何も言わなかった。ただ、美緒の名札を少し見て、それから視線を外した。
第13配偶者。佐倉美緒。
その小さな文字を、乃亜に見られた気がした。
美緒は、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
「席、ここ空いてるよ」
麻衣が隣の椅子を軽く引いた。
美緒はそこへ座ろうとして、ふと会場の奥を見た。
前の方には、下位妻グループでは見たことのない女性たちが何人も座っている。服も、姿勢も、空気も違う。声を落として話しているだけなのに、場に馴染んでいる。
中位妻たち。
美緒は、そう思った。
その視線に気づいたのか、千紗が小さく言った。
「私たちと固まってないで、上の人たちにも挨拶してきたら?」
美緒は振り返った。
「え?」
千紗は資料から目を離さないまま続けた。
「せっかく呼ばれて、名前も呼ばれて、第一さんたちにも見てもらえるなら、その方がいいでしょ」
「千紗さん」
琴葉がすぐに声を低くした。
「そういう言い方は……」
「別に悪い意味じゃないよ」
千紗は顔を上げた。
「実際、下にいるより、上の人に覚えてもらった方が安全だし」
麻衣が困ったように笑った。
「千紗ちゃん、正論を刃物で渡すのやめて」
「刃物じゃない。事実」
乃亜が、そこでようやく口を開いた。
「でも、美緒ちゃんが決めればいいよ」
その声は優しかった。
けれど、美緒には、その優しさが少しだけ遠く聞こえた。
美緒ちゃんが決めればいい。
それは、突き放す言葉ではない。むしろ、気を遣ってくれている。
でも、美緒は一瞬、自分が下位妻たちの席から一歩外へ押し出されたように感じた。
「私、挨拶だけしてきます」
言ってから、少し後悔した。
まるで千紗の言葉に乗ったみたいだった。
麻衣はすぐに笑った。
「うん、行っといで。こういうの最初が肝心っぽいし」
琴葉も小さくうなずく。
「無理しなくて大丈夫だからね」
乃亜は、短く言った。
「あとでね」
あとで。
その言葉に、美緒は少しだけほっとした。
まだ戻れる。そう思いたかった。
美緒は、下位妻たちの席から離れた。
ほんの数歩だった。
でも、その数歩が、妙に長く感じた。
背中に視線を感じる。麻衣のものか、千紗のものか、琴葉のものか、乃亜のものかは分からない。
美緒は、前方の席へ向かいながら、自分がまた少し新しい場所へ出ていくのだと思った。
少し離れた席で、何人かの女性が資料を見ていた。
その一人が、美緒に気づいて顔を上げた。
「佐倉さん?」
落ち着いた声だった。
美緒は少し緊張して、頭を下げた。
「はい。佐倉美緒です」
「篠原芽衣子です。第4配偶者です」
第4配偶者。美緒は、少しだけ背筋を伸ばした。
妻一覧で見た名前だった。中位妻の、一番上に近い人。画面の中でしか知らなかった名前が、今、目の前にいる。
芽衣子は、きれいな姿勢で立っていた。派手ではない。でも、服も髪も、言葉の出し方まで整っている。美緒が緊張していることを分かった上で、そこに合わせてくれるような笑みだった。
「初めてよね。席はあちらで大丈夫です」
「ありがとうございます」
「資料、先に目を通しておくといいと思うわ。特に外部発信のところ」
芽衣子は、資料の一部を指で示した。
「こういう場では、分からないことを勝手に判断しない方がいいから」
優しい言い方だった。責められている感じはしない。
でも、その言葉の中には、下位妻グループにはなかった硬さがあった。
勝手に判断しない方がいい。
美緒はうなずいた。
「はい」
「あとで璃子さんからもお話があると思うけれど、迷ったら璃子さんに聞いた方が早いと思う」
璃子さん。
その名前が出た瞬間、美緒の中で小さく音が鳴った。
久我璃子。第1妻。まだ会場にはいない。それなのに、芽衣子の言葉の中では、もう中心にいる。
分からないことは璃子さんに聞く。それが、この場所の自然な流れなのだと分かった。
美緒は、少しだけ振り返りたくなった。
下位妻たちの席は、まだすぐ後ろにある。
でも今、自分は芽衣子と話している。第4配偶者。中位妻。上の人。
その姿を、下位妻たちは見ているのだろうか。
そう思った瞬間、美緒の背中が少し熱くなった。
美緒は席へ向かおうとして、別の視線に気づいた。
少し離れた場所に座っていた女性が、美緒を見ていた。目が合う。
その人は、すぐには笑わなかった。淡い色のジャケットを着ていて、髪はゆるく巻かれている。綺麗な人だった。けれど、芽衣子のように整えた優しさはない。
観察されている。そう感じた。
女性は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「新しい子?」
近くにいた別の妻に向けた言葉なのか、美緒に向けた言葉なのか、分からなかった。
美緒は反射的に名札を見た。
相良真帆。第5配偶者。
「第13だっけ」
真帆は、確認するように言った。
美緒は小さく頭を下げた。
「佐倉美緒です」
「へえ」
それだけだった。それだけなのに、美緒の胸の奥に少しだけ引っかかった。
歓迎されていない、というほどではない。でも、温かく迎えられた感じでもない。
真帆はまた資料に目を戻した。興味がなくなったようにも見える。でも、美緒には、その視線がまだどこかに残っている気がした。
席に着こうとした時、隣の女性が資料を少し寄せてくれた。
「ここ、空いてますよ」
声は明るかった。美緒は少しほっとして、その隣に座る。名札を見る。
成瀬莉央。第8配偶者。
説明会の対象に入っていた、中位妻の一番下に近い人だった。
「緊張するよね」
莉央は、小さく笑った。
「私も最初、何着ていいか分からなかった」
その言い方は、少し下位妻に近かった。近い、と思った。完全に上の人ではない。でも、下位妻でもない。第8妻。ここではこの人もまた、上を見ているのかもしれない。
「こういう場、初めてで」
美緒が言うと、莉央はうなずいた。
「最初はみんなそうだよ。資料だけ見ると怖いしね」
「怖いです」
思わず本音が出た。莉央は少し笑った。
「分かる。外部発信、スクショ、呼び出し内容、子ども関係。文字だけ見ると、全部地雷みたいに見える」
美緒は、手元の資料に目を落とした。
本当にそうだった。
【非公表配偶者の外部発信について】
【個別連絡・呼び出し内容の共有制限】
【スクリーンショットの保存・転送禁止】
【子どもに関する情報の取り扱い】
初めて規約を読んだ時の冷たさが戻ってくる。
でも今度は、自分一人で読んでいるわけではない。周りには、同じ資料を見ている妻たちがいる。下位妻だけではない。中位妻もいる。上位妻も、これから来る。
そして、下位妻たちもいる。
美緒は、もう一度だけ後ろを見そうになって、こらえた。
振り返ったら、何かを確認してしまう気がした。
乃亜がどんな顔をしているのか。千紗がまだこちらを見ているのか。麻衣が笑っているのか。琴葉が困ったようにしているのか。
知りたい。
でも、今は知らない方がいい気がした。
「資料、先に読んでおいた方がいいですよ」
反対側から、静かな声がした。
藤堂香澄。第6配偶者。
彼女は資料から顔を上げずに続けた。
「外部発信の項目は特に」
美緒は、少し緊張してうなずいた。
「はい」
香澄は、ページの端を指で押さえた。
「スクショは残りますから」
その声は冷たくはなかった。ただ、淡々としていた。感情ではなく、事実を言っている声。だからこそ、少し怖かった。
スクショは残る。
その一文が、胸の中に引っかかる。
下位妻グループで送った言葉。呼ばれた夜のこと。名前を呼ばれたと話したこと。千紗の子どもという言葉。麻衣の消されたメッセージ。
画面に出したものは、残る。誰が残すかは分からない。
美緒は、思わずスマホの入ったバッグに目を向けた。
莉央が、美緒の表情に気づいたのか、少し声を柔らかくした。
「まあ、怖がらせるための会じゃないと思うよ」
香澄が静かに言う。
「怖がっておいた方が安全です」
莉央は苦笑した。
「香澄さん、そういうとこ」
「事実なので」
そのやり取りに、美緒は少しだけ笑いそうになった。
でも、下位妻グループの笑いとは違う。
麻衣なら、もっと大きく場を崩したかもしれない。千紗なら、もっと刺したかもしれない。琴葉なら、困ったように止めたかもしれない。乃亜なら、美緒の方を見て、大丈夫、と目だけで言ってくれたかもしれない。
ここでは、誰もそこまで近づいてこない。それぞれが、自分の位置に立っている。
中位妻たち。
下位妻よりは落ち着いている。でも、完全に安心しているわけではない。呼ばれることはある。でも、中心ではない。上の人たちの言葉を知っていて、下の人たちの不安も知っている。だからこそ、余裕があるように見える。
そして、その余裕が少しだけ怖い。
美緒は、資料をめくった。紙の音が小さく鳴る。
前の方の席では、芽衣子が会場の係と静かに話していた。真帆は腕を組んで、どこか退屈そうにしている。香澄は資料の項目を淡々と確認している。莉央は、ペットボトルの水を開けるか迷うように手元で回していた。
少し後ろには、下位妻たちがいる。
乃亜がいて、麻衣がいて、千紗がいて、琴葉がいる。
近いはずなのに、今は遠い。
美緒は、自分がまた少し新しい場所へ来てしまったのだと思った。
怖い。でも、目を逸らせなかった。
その時、会場の奥で小さな動きがあった。
芽衣子が話をやめる。莉央がペットボトルから手を離す。香澄が資料をそろえる。真帆も、ほんの少しだけ姿勢を直した。
少し遅れて、後ろの席の空気も変わった。
麻衣の小さな声が止まる。琴葉が資料をそろえる気配がする。千紗が椅子に座り直す音がする。乃亜も、たぶん顔を上げた。
誰かが来る。
美緒にも分かった。
声が大きくなったわけではない。誰かが合図したわけでもない。それなのに、場の空気が整っていく。
第1妻が来る。
美緒は、無意識に背筋を伸ばした。




