第24話【名前は……呼ばれました】
詳しいことは言えないんですけど、少し話しました。
送信したあと、美緒は画面を見つめた。
既読が増えていく。1つ。2つ。3つ。4つ。
たったそれだけで、胸の奥が少し苦しくなる。昨日の夜のことが、もう自分だけのものではなくなっていく気がした。
あの部屋。閉じたカーテン。テーブルの上の水。天城蓮の低い声。少し疲れた笑顔。
その全部を、文字にしたわけではない。でも、少し話しました、という一文だけで、下位妻たちはきっと想像する。
美緒も、琴葉の時にそうだった。
そんな、大したことじゃないよ。本当に、少し話しただけだから。琴葉のその言葉を読んだ時、美緒はたくさん想像した。蓮がどんな声で琴葉に話したのか。距離は近かったのか。名前は呼ばれたのか。知りたくないのに、知りたかった。
今度は、自分がその言葉を置いている。
少し話しました。その向こう側を、みんなが見ようとしている。
最初に返したのは麻衣だった。
桐谷麻衣:
「少し話した、ね」
桐谷麻衣:
「その"少し"が1番気になるんだけど」
小野寺千紗:
「言えないなら言えないでいいんじゃない」
少し間があって、もう1通。
小野寺千紗:
「言いたそうだけど」
美緒は、指先が冷たくなるのを感じた。
言いたそう。その言葉は、思っていたより深く刺さった。
言いたいのだろうか。
美緒は、スマホを持ったまま、自分の胸の中を探った。
言いたくない。指定場所も、時間も、詳しい会話も、言えない。規約にも触れる。何より、昨夜のことを安くしたくない。
でも、何も知られないのも嫌だった。
呼ばれたこと。名前を呼ばれたこと。ちゃんと見ていると言われたこと。その全部を、完全に隠してしまったら、昨日の夜が自分の中に閉じ込められてしまう。
誰かに、少しだけ分かってほしかった。いいな、と思われたかった。嫉妬されたかった。
そう思った瞬間、美緒は少しだけ自分が嫌になった。
琴葉を祝えなかった自分が、今度は祝われる側で、その甘さを欲しがっている。
画面の中で、麻衣のメッセージが続いた。
桐谷麻衣:
「で、服とかどうしたの?」
桐谷麻衣:
「何着てった?」
桐谷麻衣:
「蓮さん、何か言ってた?」
短いメッセージが、ぽんぽんと続く。
麻衣は悪気なく聞いている。それは分かる。麻衣はいつもそうだ。場を明るくしようとする。誰かが呼ばれた時も、沈黙が長くならないように、笑える形へ持っていこうとする。
でも、その明るさが、今は少しだけ怖かった。昨夜のことを、飲み会の話題みたいにテーブルへ並べられている気がした。
美緒は返信しようとして、何も打てなかった。
琴葉が入る。
白石琴葉:
「麻衣さん、少しずつにしましょう」
白石琴葉:
「美緒ちゃん、無理に答えなくて大丈夫だから」
琴葉の言葉はやわらかかった。本当に、守ろうとしてくれている。
琴葉は、自分が呼ばれた後の空気を知っている。聞かれる側が、どれだけ言葉を選ぶかを知っている。だから、止めてくれている。
美緒は、その優しさに救われた。同時に、また少しだけ苦しくなった。
琴葉は、自分が同じ場所に立った時、ちゃんと美緒を守る側に回ってくれる。美緒は、琴葉の時に同じことができなかった。
乃亜から、短いメッセージが来た。
三枝乃亜:
「言える範囲でいいと思う」
それだけだった。踏み込みすぎない。止めすぎもしない。美緒が言うかどうかを、美緒に任せている。
美緒は、入力欄に指を置いた。
どこまで言えばいいのだろう。指定場所は言えない。時間も、もう言う必要はない。
でも、1つだけ。1つだけなら。
美緒は、文字を打った。
佐倉美緒:
「名前は……呼ばれました」
送信した瞬間、胸が鳴った。
美緒。昨日、蓮はそう呼んだ。第13ではなく。下位妻でもなく。佐倉さんでもなく。美緒。その一言だけで、昨日の夜は特別になった。
送信後、既読はすぐに増えた。でも、誰もすぐには返さなかった。
画面が止まる。数秒。
たぶん、本当は短い。でも美緒には長く感じた。
名前を呼ばれた。その一文が、画面の中で静かに残っている。
美緒は、その沈黙で初めて知った。
名前を呼ばれたことは、ここでは十分すぎるほどの事件なのだ。
恋愛の言葉ではない。抱きしめられたわけでもない。長い時間を過ごしたわけでもない。ただ、名前を呼ばれただけ。
それだけで、下位妻たちは止まる。
最初に返したのは麻衣だった。
桐谷麻衣:
「それは強い」
短い文だった。いつもの軽さが、少しだけ抑えられているように見えた。
次に千紗。
小野寺千紗:
「へえ」
たった2文字。でも、美緒にはその奥にあるものが見えた気がした。
驚き。嫉妬。面白くなさ。それから、少しだけ納得。
新しい子は早いね。最初だけはちゃんと見られるって言ったでしょ。千紗の言葉が戻ってくる。
琴葉からも返事が来た。
白石琴葉:
「よかったね」
やわらかい言葉だった。
でも昨日までの美緒は、この「よかったね」を琴葉にちゃんと向けられなかった。今、琴葉がそれを返してくれている。
そのことが、少し痛かった。
乃亜は、少し遅れた。
三枝乃亜:
「……そっか」
また、3点リーダー。
そっか。以前、大丈夫ですと返した時にも、乃亜はそう言った。あの夜も、同じように返した。
でも今は、その距離が少しだけ冷たくも見える。
乃亜は何を思っているのだろう。美緒が名前を呼ばれたことを、本当に喜んでくれているのだろうか。それとも、昨日まで自分の隣にいたはずの第13妻が、また少し遠くなったと思っているのだろうか。
美緒は聞けなかった。
千紗が、もう1通送ってきた。
小野寺千紗:
「名前呼びか」
小野寺千紗:
「若いっていいね」
麻衣がすぐに入る。
桐谷麻衣:
「千紗ちゃん」
小野寺千紗:
「別に悪い意味じゃないよ」
小野寺千紗:
「新しい子が新鮮なのは普通でしょ」
美緒は、スマホを握る手に力を入れた。
若い。新しい。新鮮。
その言葉は、蓮に呼ばれた夜の光を、少しだけ別の色に変えた。
昨日、蓮は美緒を見てくれた。ちゃんと見ていると言った。頑張っていると思うと言った。また連絡すると言った。そこに、若いからとか、新しいからとか、そんな理由を入れたくなかった。
でも、完全には否定できない。
第13妻。1番新しい後妻。それは、美緒の位置そのものだった。
麻衣が続ける。
桐谷麻衣:
「はいはい、ストップ」
桐谷麻衣:
「美緒ちゃんが話してくれてるんだから、刺さない」
千紗から少し間が空いて、返事が来る。
小野寺千紗:
「刺してない」
小野寺千紗:
「現実を言っただけ」
琴葉が困ったように送る。
白石琴葉:
「そういう言い方は、ちょっと……」
乃亜からも短く来た。
三枝乃亜:
「千紗さん」
千紗はそれ以上、すぐには返さなかった。
美緒は画面を見つめた。
守られている。たぶん、そうなのだと思う。麻衣が止めてくれている。琴葉がやわらかく止めてくれている。乃亜も短く止めてくれている。
それなのに、胸の奥には、別の熱があった。
傷ついた。でも、それだけではなかった。
千紗の言葉は痛い。若いっていいね。新しい子が新鮮なのは普通でしょ。そう言われると、自分がただの新しい枠みたいに思える。
でも同時に、美緒は分かってしまった。
千紗は、嫉妬している。たぶん。少なくとも、面白くは思っていない。
自分が呼ばれたこと。名前を呼ばれたこと。そのことに、千紗の中で何かが動いている。
その事実が、美緒の胸を少し満たした。
嫌だ。そう思った。嫉妬されて喜ぶなんて、嫌だ。
琴葉を祝えなかった自分が、今度は誰かに祝われきれないことで満たされている。
ひどいと思う。でも、甘かった。
自分は呼ばれた側にいる。そう思える。




