第23話【どこまで聞いていい?】
翌日の朝、美緒はスマホの通知音で目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い光が入っている。部屋はまだ少し暗く、ベッドの上には昨夜脱いだカーディガンが丸まっていた。
一瞬、夢だったのかと思った。
指定されたビル。静かな廊下。閉じたカーテンの部屋。テーブルの上の水。天城蓮の声。美緒、と呼ばれたこと。
全部、夢みたいだった。
でも、スマホを手に取ると、配偶者用アプリの履歴にはまだ残っていた。
【対象者より個別連絡があります】
その文字を見ただけで、胸の奥が熱くなる。
本当に呼ばれた。蓮さんに会った。名前を呼ばれた。見ていると言われた。また連絡すると言われた。
その全部を、朝になってもまだ信じきれなかった。
美緒は、画面を閉じようとした。
その時、通知欄に別の文字が並んでいることに気づいた。
【下位配偶者グループ】
未読が、いくつも溜まっていた。
心臓が小さく跳ねる。
昨夜、帰ってきた時にも見た。麻衣のメッセージ。昨日、呼ばれたんだって? あの文字を見た瞬間、身体が固まった。誰から聞いたのか。どうして知っているのか。どこまで知られているのか。何も分からないまま、昨日は画面を閉じた。
でも、朝になっても消えてはいない。
美緒はベッドの上で身体を起こした。スマホを両手で持ち、下位妻グループを開く。
最初に表示されたのは、麻衣のメッセージだった。
桐谷麻衣:
「昨日、呼ばれたんだって?」
その下に、少し間を置いて、もう1通。
桐谷麻衣:
「おめでとう。で、どこまで聞いていい?」
美緒は、画面を見つめた。
おめでとう。その言葉は、祝福の形をしている。でも、その後に続く「どこまで聞いていい?」が、胸の内側をそっと探ってくる。
麻衣に悪気はない。たぶん本当に祝っている。場を明るくしようとしている。琴葉の時と同じように、重くなりすぎないように、冗談の形にしてくれている。
分かる。分かるのに、少し怖かった。
次のメッセージは千紗だった。
小野寺千紗:
「よかったじゃん。新しい子は早いね」
美緒は、指を止めた。
新しい子。早いね。
その言葉は短かった。でも、画面の中で小さな棘みたいに見えた。
第13妻。いちばん新しい後妻。下位妻の中で1番あとから入った人。その自分が呼ばれた。琴葉の次に。乃亜より先に。麻衣や千紗よりも、新しく入ったのに。
美緒は胸の奥が少し冷えるのを感じた。
そのあとに、琴葉からのメッセージがあった。
白石琴葉:
「言いたくなかったら、無理に言わなくて大丈夫だよ」
琴葉らしい言葉だった。やわらかい。控えめ。踏み込まない。
あの夜、琴葉が呼ばれた時、美緒は祝えなかった。琴葉が戻ってきた時も、ちゃんと喜べなかった。琴葉が悪くないことを知っていても、胸の奥が黒くなった。
その琴葉が、今度は美緒を守ろうとしている。
その言葉に救われた。同時に、少しだけ気まずかった。
自分は琴葉の時、こんなふうに言えただろうか。
琴葉さんが無事でよかったです。そんな言葉しか送れなかった。形は整えていた。でも、中身は追いついていなかった。
美緒は唇を噛んだ。
その下に、乃亜のメッセージがあった。
三枝乃亜:
「……よかったね、美緒ちゃん」
短い。でも、少しだけ間があるように見えた。文字だけなのに。
よかったね。その前の3点リーダーが、妙に目に残る。
本当に祝ってくれているのだと思いたかった。
乃亜は優しい。最初に下位妻グループへ近づけてくれた。琴葉を祝えなかった夜も、隣を歩いてくれた。そのあとも、大丈夫? と聞いてくれた。美緒が言えなかった時も、深く踏み込まずにいてくれた。
だから、きっと祝ってくれている。
でも、その文字は、昨日までの乃亜の言葉より少し遠く見えた。
美緒は入力欄を開いた。何を返せばいいのか分からなかった。
「ありがとうございます」では硬い。「呼ばれました」では直接すぎる。
「大したことじゃないです」
指が止まる。
その言葉は、琴葉が言っていた。そんな、大したことじゃないよ。本当に、少し話しただけだから。
あの時、美緒はその言葉に傷ついた。大したことじゃない、と言われるほど、何かあったように感じた。小さく見せようとする幸せが、逆に眩しかった。
今、自分が同じことを書こうとしている。
美緒は少し息を止めた。
そうか。呼ばれた側は、こういう言い方をするのかもしれない。
大したことじゃない。少し話しただけ。詳しくは言えない。無理に聞かなくていい。
そのどれもが、相手を傷つけないための言葉でありながら、同時に、呼ばれなかった人との距離を作る。
美緒は文字を消した。
佐倉美緒:
「昨日、少しだけ連絡をもらいました」
送信する前に、何度も見直した。
少しだけ。それは事実だった。長い時間ではなかった。愛していると言われたわけでもない。
でも、美緒にとっては少しだけではなかった。
それでも、そう書くしかなかった。
送信する。
すぐに既読が増えた。1つ。2つ。3つ。4つ。
その数字が増えるのを見て、美緒の胸が締めつけられた。
見られている。祝福されている。詮索されている。その全部が同時に来る。
麻衣がすぐに返した。
桐谷麻衣:
「やっぱり!」
桐谷麻衣:
「おめでとう」
桐谷麻衣:
「第13妻、ちゃんと見られてるじゃん」
ちゃんと見られてる。
その言葉に、美緒の胸が熱くなった。
昨夜、蓮に言われた言葉が戻ってくる。ちゃんと見てるから。麻衣はそのことを知らない。それなのに、同じような言葉を送ってきた。
美緒は、画面を見つめた。
千紗からも返事が来る。
小野寺千紗:
「13番目って、逆に目立つんだね」
少し遅れて、もう1通。
小野寺千紗:
「最初だけはちゃんと見られるって言ったでしょ」
美緒は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。
最初だけ。
その言葉は、千紗が前にも言った言葉と同じだった。新しい子は最初だけ見られる。あの時は、まだ何も分かっていなかったから、少し引っかかっただけだった。
今は違う。
呼ばれたあとに言われると、その言葉は別の形で刺さる。
今だけなのだろうか。最初だけなのだろうか。蓮が「また連絡する」と言ったことも、今だけの言葉なのだろうか。
美緒はすぐに否定したくなった。
違う。ちゃんと見ていると言ってくれた。美緒と呼んでくれた。また、と言ってくれた。
そう思いたかった。
琴葉が入る。
白石琴葉:
「千紗さん、そういう言い方は……」
千紗はすぐに返した。
小野寺千紗:
「ごめん。別に責めてない」
小野寺千紗:
「よかったねって意味」
それは、たぶん嘘ではない。でも、全部本当でもない。美緒はそう感じた。
そして、その感じ方に覚えがあった。
琴葉が呼ばれた時、自分も似たような場所にいた。おめでとうと言った。琴葉が悪いわけじゃないと言った。でも、全部が祝福ではなかった。
今、自分が受け取っているものは、その時の自分の気持ちに似ている。
優しくて。少し苦くて。形は祝福なのに、内側に別のものが混ざっている。
乃亜から、少し遅れてメッセージが来た。
三枝乃亜:
「ちゃんと呼ばれたじゃん」
その文を見て、美緒は止まった。
ちゃんと。呼ばれたじゃん。
短い言葉だった。でも、その中に何が入っているのか、すぐには分からなかった。
祝福。安心。寂しさ。置いていかれた感じ。
どれも少しずつあるように見える。
美緒は返信しようとして、指を止めた。
乃亜ちゃん。そう呼びたかった。でも、グループの中では少し違う気がした。
麻衣がさらに送る。
桐谷麻衣:
「で、どこまで言える?」
桐谷麻衣:
「いや、無理には聞かないけど」
桐谷麻衣:
「気になるじゃん」
美緒は、その3つのメッセージを見つめた。
無理には聞かない。でも、気になる。
それは優しさと詮索の間にある言葉だった。麻衣らしい。明るくて、軽くて、悪気がない。でもその軽さが、昨夜の時間に触れてくる。
あの部屋。あの声。美緒と呼ばれたこと。水を差し出されたこと。ちゃんと見ていると言われたこと。肩に触れるか触れないかの短い接触。
それらを、どこまで差し出せばいいのだろう。
規約では、通知内容や指定場所の共有は禁止されている。会話の詳細も、あまり話すべきではないのだろう。
でも全部隠すと、距離ができる。
琴葉が「大したことじゃない」と言った時、美緒が傷ついたように。何も言わないことも、傷つける。
美緒は、スマホを握る手に力を入れた。
祝福されているはずなのに、息苦しかった。
でも、その息苦しさの奥に、少しだけ甘いものもあった。
自分は今、聞かれる側にいる。琴葉がいた場所にいる。呼ばれた側として、言葉を選んでいる。
そのことが怖かった。同じくらい、満たされてもいた。
美緒は入力欄を開いた。
佐倉美緒:
「詳しいことは言えないんですけど、少し話しました」
送信する。
既読が増える。画面の向こうで、下位妻たちがその一文を読んでいる。
美緒は、スマホを握ったまま動けなかった。
祝われている。聞かれている。羨ましがられている。
その全部が、美緒の中でひとつの熱になっていた。




