第25話【子どもとか】
麻衣が話題を少し変えるように送った。
桐谷麻衣:
「まあでも、名前呼ばれたのは普通にすごいよ」
桐谷麻衣:
「私、最初の時、苗字だったもん」
白石琴葉:
「私も、最初は苗字でした」
小野寺千紗:
「私は番号だったよ」
その文で、空気がまた少し変わった。
番号。
美緒は、画面を見つめた。
第10配偶者。小野寺千紗。その時、千紗は名前ではなく番号で呼ばれたのだろうか。天城蓮の前で。「第10」と。
美緒は、千紗の言葉の棘が少しだけ違って見えた。
痛いから刺す。そういうこともあるのかもしれない。
乃亜からは、まだ何も来ない。
美緒は、それが少し気になった。
麻衣がまた聞く。
桐谷麻衣:
「他には?」
桐谷麻衣:
「いや、言える範囲で」
美緒は入力欄を開いた。
ちゃんと見ていると言われた。
そう打ちかけて、止まった。言ったら、昨日の夜が自慢になってしまう。でも、言いたかった。
蓮さんは、私を見ていると言ってくれた。ただの第13妻ではなく。若いから呼ばれただけではなく。ちゃんと見てるから、と言ってくれた。
美緒は文字を消した。
代わりに、短く打つ。
佐倉美緒:
「少し、仕事のことを聞かれました」
これは本当だった。居酒屋で働いていること。無理していないかということ。話した。でも、そこにあった熱は書かなかった。
既読が増える。
琴葉:
「そうなんだ」
麻衣:
「仕事のこと聞いてくれるの、いいね」
千紗:
「ちゃんと生活把握してる感」
その言葉に、美緒の胸がまた少し熱くなった。生活を把握している。そう言われると、蓮が自分の生活の中に入ってきたように思えた。本当は少し聞かれただけ。それでも。
三枝乃亜:
「無理してないか、聞かれた?」
美緒は、指を止めた。
乃亜。
その一文は、まっすぐだった。美緒が昨日の夜、本当に言われた言葉に近かった。
無理してない? 蓮の声が戻ってくる。
美緒は、なぜ乃亜がそれを聞いたのか分からなかった。自分を気遣っているのか。蓮がどういう言葉をかけたのか知りたいのか。それとも、乃亜自身が前にそう言われたかったのか。
美緒は返信した。
佐倉美緒:
「少し」
送信する。
乃亜からは、すぐに返ってこなかった。
画面がまた少し止まる。
その沈黙の中で、美緒は思った。
この場所は、昨日までと同じではない。
下位妻グループ。下の方同士。呼ばれない夜を一緒に笑っていた場所。でも今、自分はそこで聞かれる側にいる。祝福される側にいる。嫉妬される側にいる。
それは怖かった。でも、やっぱり甘かった。
千紗が、最後に短く送ってきた。
小野寺千紗:
「呼ばれるなら、チャンスあるじゃん」
少し間が空く。
小野寺千紗:
「子どもとか」
美緒は息を止めた。
子ども。
凛に話した夢。以前、千紗が言った、子どもがいる妻は強いという言葉。規約に出てきた、子どもに関する情報。天城蓮の妻たちの中にある、切れない接続。
その全部が、一瞬で戻ってきた。
麻衣がすぐに止めた。
桐谷麻衣:
「千紗ちゃん、それは早い」
琴葉:
「そういう言い方は……」
乃亜:
「千紗さん」
千紗は、それ以上返さなかった。
美緒は、スマホを持ったまま動けなかった。
子ども。
その言葉は、まだ遠いはずだった。でも、呼ばれた夜のあとでは、遠いだけではなくなっていた。
蓮に名前を呼ばれた。少し話した。また連絡すると言われた。その先に、千紗は子どもという言葉を置いた。
ひどいと思った。早すぎると思った。
でも、美緒の胸の奥で、何かが小さく震えた。
欲しい。
その言葉は、まだ声にはならなかった。
美緒は返信できなかった。
画面の中では、麻衣と琴葉が話題を流そうとしている。乃亜は黙っている。
美緒は、自分が傷ついているのか、満たされているのか、分からなかった。
たぶん、どちらもだった。
名前を呼ばれたことを話しただけで、場が変わった。それだけで、自分が本当に呼ばれた側になったのだと分かる。
美緒はスマホを胸の近くに引き寄せた。
羨ましがられたいわけじゃない。そう思った。
でも、羨ましがられなかったら、きっと少し寂しかった。
子どもとか。
千紗のその言葉が、しばらく画面の上に残っていた。
麻衣がすぐに止めた。琴葉も、やわらかく言葉を挟んだ。乃亜も短く、千紗さん、と送った。
それで、グループチャットの空気は一応戻った。
麻衣が別の話題を出す。琴葉がそれに合わせる。千紗は少し黙る。乃亜も、何もなかったように短く返す。
画面の中では、会話が流れていく。
でも美緒の中では、まだ止まっていた。
名前を呼ばれたこと。若い、と言われたこと。新しい子が新鮮なのは普通でしょ、と言われたこと。そして、子どもとか、という言葉。
その全部が、胸の中で別々の場所を押していた。
傷ついた。でも、傷ついただけではなかった。
名前を呼ばれた、と書いた瞬間にチャットが止まったこと。麻衣が「それは強い」と言ったこと。千紗が「へえ」とだけ返したこと。琴葉が「よかったね」と言ったこと。乃亜が「……そっか」と送ったこと。
その沈黙と短い言葉の中に、自分が呼ばれた側になった証があった。
羨ましがられたいわけじゃない。そう思う。でも、羨ましがられなかったら、きっと少し寂しかった。
その気持ちが、また自分を嫌にさせた。
グループチャットは、少しずつ落ち着いていった。
麻衣が、今日は仕事だと送る。千紗が、派遣先の昼休みが短いと愚痴る。琴葉は、子どもたちの午睡時間だと書いた。乃亜は、短いスタンプだけを返した。
美緒は、もう何も送れなかった。
送る言葉が見つからなかった。
呼ばれたことを話せば話すほど、自分だけが少し浮いていく気がする。でも黙れば、今度は隠しているように見える。何をしても、少しずつ違う。
下位妻グループは、救いだったはずなのに。
呼ばれない夜を一緒に笑った。旧姓のまま働くことを、みんなで笑いにした。天城姓を名乗れない痛みを、自分だけのものではないと思えた。乃亜がいて、麻衣がいて、千紗がいて、琴葉がいた。
でも今、美緒はその輪の中で、自分の座る位置が少し動いたのを感じている。
上に行ったわけではない。そんな大げさなものではない。ただ、隣にいたはずの人たちとの間に、薄い線が1本引かれた気がした。




