表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/80

第21話【ちゃんと見てるから】

朝、建物を出ると、空気が少し冷たかった。


外から見れば、そこはただの静かな低層マンションにしか見えなかった。入口に天城蓮の名前はない。芸能事務所の看板もない。誰かがここにいると分かるものは、何一つなかった。


けれど美緒は、さっきまでその中にいた。


閉じたカーテン。整いすぎたテーブル。二本の水。低い声。少し疲れた笑顔。


それから、蓮の香水の匂い。


近づいた時、ふわりとした甘さの奥に、少しだけ冷たい月みたいな香りがした。


グランドムーン。


画面越しに何度も見た、蓮が使っていると言われていた香り。


それが、自分のすぐ近くにあった。


美緒は、駅へ向かって歩きながら、自分の手首に触れた。そこにはもう何も残っていない。けれど、肌の奥だけが、まださっきの時間を覚えている気がした。


来てくれてありがとう。


急に呼んでごめん。


ここなら、誰にも見られないから。


最近、慣れた?


無理してない?


美緒は、頑張りすぎそうだよな。


ちゃんと見てるから。


言葉は短かった。どれも、誰かに説明すれば、それだけ、と言われるようなものだった。長い告白ではない。約束でもない。愛している、ではない。一番にする、でもない。


それでも、美緒には十分だった。


言葉だけなら、たぶん説明できる。


でも、言葉にならないものもあった。


触れた肩。髪にかかった息。近くで名前を呼ばれた時の声の低さ。もう少しこのままでいたい、と思ってしまった時間。


朝が来なければいいと思った。


この部屋の外に、仕事も、下位妻グループも、乃亜も、琴葉も、麻衣も、千紗も、誰もいなければいいと思った。


そんなことを思った自分に、少しだけ驚いた。


妻になった。


登録された時にも、そう思った。アプリに名前が載った時にも、そう思った。下位妻グループに入った時にも、そう思おうとした。


でも今朝は違った。


身体の方が先に、そう理解してしまった。


美緒。


名前を呼ばれた。その一言だけで、朝の光が少し違って見えた。


美緒は、信号待ちの間にスマホを握りしめた。


画面はつけなかった。


つけなくても、昨夜の通知はまだそこにある気がした。


【対象者より個別連絡があります】


さっきまで冷たく見えた文字が、今は祝福の跡みたいに思える。


琴葉さんだけじゃなかった。私にも来た。第13妻でも。下位でも。呼ばれない側のままではなかった。


そのことが、胸の中で静かに光っていた。


信号が青に変わる。


美緒は、人の流れに混ざって歩き出した。


いつもの朝だった。でも、美緒だけが少し違う場所から帰ってきたような気がした。


電車に乗ると、窓に自分の顔が映った。


仕事帰りに直した髪。少しだけ塗り直したリップ。薄いカーディガン。手首に、ほんの少しだけ残った香り。


何も特別には見えない。どこから見ても、ただの若い女だった。


佐倉美緒。


でも、その同じ顔が、昨日の自分とは少し違って見えた。


私はまだ選ばれる。


そう思った瞬間、胸の奥に残っていた黒いものが、少しだけ甘いものに変わった。


琴葉を祝えなかったこと。琴葉が悪くないからこそ、自分が嫌になったこと。乃亜に大丈夫と嘘をついたこと。職場でミスをして、宮原に休憩へ追い込まれたこと。


全部が、昨夜から今朝にかけての光の下で少し遠くなった。


なくなったわけではない。でも、上書きされた。


美緒は窓の中の自分を見つめた。


第13妻でも、ちゃんと妻なんだ。


呼ばれた。名前を呼ばれた。見ていると言われた。また連絡すると言われた。朝まで、同じ部屋にいた。


その全部を、何度も心の中で並べた。一つずつ並べれば、ちゃんと証になる気がした。


本当は、それがどれほど確かなものなのか分からない。


蓮は、他の妻にも同じように優しいのかもしれない。琴葉にも、麻衣にも、乃亜にも、いつか同じような言葉を向けているのかもしれない。


でも今朝は、考えたくなかった。


昨夜、蓮の前にいたのは自分だった。美緒と呼ばれたのは、自分だった。朝までそこにいたのも、自分だった。


それだけを見ていたかった。


最寄り駅に着く頃、スマホが震えた。


美緒は肩を小さく揺らした。一瞬、配偶者用アプリかと思った。


でも違った。下位配偶者グループの通知だった。


美緒は改札を出て、人の少ない柱の横に立った。画面を開く。


未読が、いくつも溜まっていた。


桐谷麻衣:

「美緒ちゃん、昨日の夜から静かじゃない?」


三枝乃亜:

「大丈夫?」


小野寺千紗:

「まさか呼ばれてるとか?」


その文字を見た瞬間、美緒の指が止まった。


まさか。呼ばれてるとか。


当たっている。


胸が小さく鳴った。


その下に、琴葉のメッセージがあった。


白石琴葉:

「無理してない?」


琴葉。


美緒は、その名前を見つめた。


琴葉は呼ばれた。戻ってきて、少しだけ嬉しかったと言った。美緒にもきっと来ると思う、と優しく言った。その琴葉が、今度は美緒に無理していないか聞いている。


美緒は、入力欄を開いた。


言うべきだろうか。


呼ばれました、と。


そう言えばいい。


琴葉は言った。ごめんね、と言いながら、それでもちゃんと戻ってきた。みんなに、少しだけ話した。呼ばれた側として、言葉を選んでいた。


今度は自分の番なのかもしれない。


でも、指は動かなかった。


言えば、琴葉と同じになる。呼ばれた側になる。呼ばれなかった人たちの前で、どこまで話すか考えなければならない。嬉しさを小さくしなければならない。自慢に聞こえないように、でも嘘にならないように、言葉を選ばなければならない。


乃亜のことを思い出した。


琴葉が呼ばれた時、乃亜は美緒の隣にいてくれた。深く聞かず、歩いてくれた。大丈夫じゃないことを分かっていても、踏み込んでこなかった。


その乃亜は、まだ呼ばれていない。


美緒は乃亜との個別チャットを開いた。


入力欄に指を置く。


「乃亜ちゃん、私も呼ばれました」


打った。すぐに消した。


その文字は、あまりにも直接だった。


もう一度打つ。


「昨日、ちょっと連絡が来て」


それも消した。


ちょっと。違う。美緒にとっては、ちょっとではなかった。


でも、重大なことのように書けば、乃亜を傷つける気がした。


言いたい。乃亜には言いたい。


一番に言えば、隠し事ではなくなる。自分が浮かれていることも、怖かったことも、名前を呼ばれて泣きそうになったことも、朝までそこにいたことも、乃亜なら少しだけ受け止めてくれる気がした。


でも、言えない。


言った瞬間、自分は乃亜の隣から、少し上の場所へ行ってしまう気がした。それが怖かった。


美緒は、個別チャットを閉じた。


グループに戻る。未読の最後に、麻衣がまた送っていた。


桐谷麻衣:

「美緒ちゃん、既読だけでもつけなー」


千紗:

「それ逆に怖いから」


乃亜:

「寝てるのかも」


琴葉:

「あとで返せば大丈夫だよ」


美緒は、胸が詰まった。


みんながいる。下位妻グループ。呼ばれない夜を一緒に笑っていた人たち。琴葉を祝った人たち。自分が祝えなくて苦しかった人たち。乃亜が隣にいてくれた場所。


その場所に、今、自分は少し戻りにくい。


美緒は返信を打った。


佐倉美緒:

「すみません、ちょっと出てました」


送信する。すぐに既読が増えた。


桐谷麻衣:

「お、いた」


桐谷麻衣:

「どこ出てたの?」


美緒は画面を見つめた。


どこ。


指定された住所。外からは誰の部屋か分からない建物。生活の匂いのない、管理された部屋。ペットボトルの水が二本置かれていた部屋。蓮の香りが残っていた部屋。名前を呼ばれた部屋。


朝までいた部屋。


言えない。


美緒は返さなかった。


代わりに、乃亜から個別でメッセージが来た。


三枝乃亜:

「大丈夫?」


また同じ言葉だった。


美緒は、しばらく画面を見ていた。


大丈夫。


今なら、たぶん大丈夫だった。少なくとも、昨日までよりは。


でも、その大丈夫の理由を言えない。


佐倉美緒:

「大丈夫。ちょっと疲れてただけ」


送ってから、胸が少し痛んだ。


嘘ではない。疲れている。でも、それだけではない。


乃亜からは、少し遅れて返事が来た。


三枝乃亜:

「そっか」


それだけ。


美緒は、その短い返事を見て、少しだけ苦しくなった。


乃亜は気づいているかもしれない。気づいていないかもしれない。どちらでも怖かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ