第21話【ちゃんと見てるから】
朝、建物を出ると、空気が少し冷たかった。
外から見れば、そこはただの静かな低層マンションにしか見えなかった。入口に天城蓮の名前はない。芸能事務所の看板もない。誰かがここにいると分かるものは、何一つなかった。
けれど美緒は、さっきまでその中にいた。
閉じたカーテン。整いすぎたテーブル。二本の水。低い声。少し疲れた笑顔。
それから、蓮の香水の匂い。
近づいた時、ふわりとした甘さの奥に、少しだけ冷たい月みたいな香りがした。
グランドムーン。
画面越しに何度も見た、蓮が使っていると言われていた香り。
それが、自分のすぐ近くにあった。
美緒は、駅へ向かって歩きながら、自分の手首に触れた。そこにはもう何も残っていない。けれど、肌の奥だけが、まださっきの時間を覚えている気がした。
来てくれてありがとう。
急に呼んでごめん。
ここなら、誰にも見られないから。
最近、慣れた?
無理してない?
美緒は、頑張りすぎそうだよな。
ちゃんと見てるから。
言葉は短かった。どれも、誰かに説明すれば、それだけ、と言われるようなものだった。長い告白ではない。約束でもない。愛している、ではない。一番にする、でもない。
それでも、美緒には十分だった。
言葉だけなら、たぶん説明できる。
でも、言葉にならないものもあった。
触れた肩。髪にかかった息。近くで名前を呼ばれた時の声の低さ。もう少しこのままでいたい、と思ってしまった時間。
朝が来なければいいと思った。
この部屋の外に、仕事も、下位妻グループも、乃亜も、琴葉も、麻衣も、千紗も、誰もいなければいいと思った。
そんなことを思った自分に、少しだけ驚いた。
妻になった。
登録された時にも、そう思った。アプリに名前が載った時にも、そう思った。下位妻グループに入った時にも、そう思おうとした。
でも今朝は違った。
身体の方が先に、そう理解してしまった。
美緒。
名前を呼ばれた。その一言だけで、朝の光が少し違って見えた。
美緒は、信号待ちの間にスマホを握りしめた。
画面はつけなかった。
つけなくても、昨夜の通知はまだそこにある気がした。
【対象者より個別連絡があります】
さっきまで冷たく見えた文字が、今は祝福の跡みたいに思える。
琴葉さんだけじゃなかった。私にも来た。第13妻でも。下位でも。呼ばれない側のままではなかった。
そのことが、胸の中で静かに光っていた。
信号が青に変わる。
美緒は、人の流れに混ざって歩き出した。
いつもの朝だった。でも、美緒だけが少し違う場所から帰ってきたような気がした。
電車に乗ると、窓に自分の顔が映った。
仕事帰りに直した髪。少しだけ塗り直したリップ。薄いカーディガン。手首に、ほんの少しだけ残った香り。
何も特別には見えない。どこから見ても、ただの若い女だった。
佐倉美緒。
でも、その同じ顔が、昨日の自分とは少し違って見えた。
私はまだ選ばれる。
そう思った瞬間、胸の奥に残っていた黒いものが、少しだけ甘いものに変わった。
琴葉を祝えなかったこと。琴葉が悪くないからこそ、自分が嫌になったこと。乃亜に大丈夫と嘘をついたこと。職場でミスをして、宮原に休憩へ追い込まれたこと。
全部が、昨夜から今朝にかけての光の下で少し遠くなった。
なくなったわけではない。でも、上書きされた。
美緒は窓の中の自分を見つめた。
第13妻でも、ちゃんと妻なんだ。
呼ばれた。名前を呼ばれた。見ていると言われた。また連絡すると言われた。朝まで、同じ部屋にいた。
その全部を、何度も心の中で並べた。一つずつ並べれば、ちゃんと証になる気がした。
本当は、それがどれほど確かなものなのか分からない。
蓮は、他の妻にも同じように優しいのかもしれない。琴葉にも、麻衣にも、乃亜にも、いつか同じような言葉を向けているのかもしれない。
でも今朝は、考えたくなかった。
昨夜、蓮の前にいたのは自分だった。美緒と呼ばれたのは、自分だった。朝までそこにいたのも、自分だった。
それだけを見ていたかった。
最寄り駅に着く頃、スマホが震えた。
美緒は肩を小さく揺らした。一瞬、配偶者用アプリかと思った。
でも違った。下位配偶者グループの通知だった。
美緒は改札を出て、人の少ない柱の横に立った。画面を開く。
未読が、いくつも溜まっていた。
桐谷麻衣:
「美緒ちゃん、昨日の夜から静かじゃない?」
三枝乃亜:
「大丈夫?」
小野寺千紗:
「まさか呼ばれてるとか?」
その文字を見た瞬間、美緒の指が止まった。
まさか。呼ばれてるとか。
当たっている。
胸が小さく鳴った。
その下に、琴葉のメッセージがあった。
白石琴葉:
「無理してない?」
琴葉。
美緒は、その名前を見つめた。
琴葉は呼ばれた。戻ってきて、少しだけ嬉しかったと言った。美緒にもきっと来ると思う、と優しく言った。その琴葉が、今度は美緒に無理していないか聞いている。
美緒は、入力欄を開いた。
言うべきだろうか。
呼ばれました、と。
そう言えばいい。
琴葉は言った。ごめんね、と言いながら、それでもちゃんと戻ってきた。みんなに、少しだけ話した。呼ばれた側として、言葉を選んでいた。
今度は自分の番なのかもしれない。
でも、指は動かなかった。
言えば、琴葉と同じになる。呼ばれた側になる。呼ばれなかった人たちの前で、どこまで話すか考えなければならない。嬉しさを小さくしなければならない。自慢に聞こえないように、でも嘘にならないように、言葉を選ばなければならない。
乃亜のことを思い出した。
琴葉が呼ばれた時、乃亜は美緒の隣にいてくれた。深く聞かず、歩いてくれた。大丈夫じゃないことを分かっていても、踏み込んでこなかった。
その乃亜は、まだ呼ばれていない。
美緒は乃亜との個別チャットを開いた。
入力欄に指を置く。
「乃亜ちゃん、私も呼ばれました」
打った。すぐに消した。
その文字は、あまりにも直接だった。
もう一度打つ。
「昨日、ちょっと連絡が来て」
それも消した。
ちょっと。違う。美緒にとっては、ちょっとではなかった。
でも、重大なことのように書けば、乃亜を傷つける気がした。
言いたい。乃亜には言いたい。
一番に言えば、隠し事ではなくなる。自分が浮かれていることも、怖かったことも、名前を呼ばれて泣きそうになったことも、朝までそこにいたことも、乃亜なら少しだけ受け止めてくれる気がした。
でも、言えない。
言った瞬間、自分は乃亜の隣から、少し上の場所へ行ってしまう気がした。それが怖かった。
美緒は、個別チャットを閉じた。
グループに戻る。未読の最後に、麻衣がまた送っていた。
桐谷麻衣:
「美緒ちゃん、既読だけでもつけなー」
千紗:
「それ逆に怖いから」
乃亜:
「寝てるのかも」
琴葉:
「あとで返せば大丈夫だよ」
美緒は、胸が詰まった。
みんながいる。下位妻グループ。呼ばれない夜を一緒に笑っていた人たち。琴葉を祝った人たち。自分が祝えなくて苦しかった人たち。乃亜が隣にいてくれた場所。
その場所に、今、自分は少し戻りにくい。
美緒は返信を打った。
佐倉美緒:
「すみません、ちょっと出てました」
送信する。すぐに既読が増えた。
桐谷麻衣:
「お、いた」
桐谷麻衣:
「どこ出てたの?」
美緒は画面を見つめた。
どこ。
指定された住所。外からは誰の部屋か分からない建物。生活の匂いのない、管理された部屋。ペットボトルの水が二本置かれていた部屋。蓮の香りが残っていた部屋。名前を呼ばれた部屋。
朝までいた部屋。
言えない。
美緒は返さなかった。
代わりに、乃亜から個別でメッセージが来た。
三枝乃亜:
「大丈夫?」
また同じ言葉だった。
美緒は、しばらく画面を見ていた。
大丈夫。
今なら、たぶん大丈夫だった。少なくとも、昨日までよりは。
でも、その大丈夫の理由を言えない。
佐倉美緒:
「大丈夫。ちょっと疲れてただけ」
送ってから、胸が少し痛んだ。
嘘ではない。疲れている。でも、それだけではない。
乃亜からは、少し遅れて返事が来た。
三枝乃亜:
「そっか」
それだけ。
美緒は、その短い返事を見て、少しだけ苦しくなった。
乃亜は気づいているかもしれない。気づいていないかもしれない。どちらでも怖かった。




