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第20話【私にも来た】

休憩室の蛍光灯の下で、スマホの画面だけが白く光っていた。


【対象者より個別連絡があります】


美緒は、その文字を何度も読んだ。


一度目は、意味が分からなかった。二度目で、胸の奥が音を立てた。三度目で、ようやく指が震えはじめた。


対象者。天城蓮。個別連絡。


琴葉に届いたものと、同じもの。


美緒は通知を開いた。


画面が切り替わり、事務的な文字が並ぶ。


【対象者より個別連絡があります】


【指定時刻:本日 21:30】


【指定場所:別途案内】


【本通知内容の外部共有は禁止されています】


恋愛の言葉は、どこにもなかった。


会いたいとも書かれていない。待っているとも書かれていない。美緒、という名前すら、そこにはない。


対象者。指定時刻。指定場所。外部共有禁止。


それだけ。


それだけなのに、美緒は泣きそうになった。


琴葉さんだけじゃなかった。


その思いが、胸の底から浮かんできた。


自分にも来た。第13妻にも。下位妻にも。まだ一度も呼ばれていなかった自分にも。


美緒は、スマホを両手で持ったまま、息を吐いた。


琴葉への嫉妬。祝えない自分への嫌悪。居酒屋でのミス。宮原に休憩へ追い込まれたこと。グラスを落としかけた指先。


全部が、一瞬だけ遠くなった。


さっきまで胸の奥にあった黒いものが、画面の光で薄くなっていく気がした。


私は、忘れられてなかった。


そう思った。


本当は、忘れられていたかどうかなんて分からない。蓮が自分を選んだのか、事務所が順番を回したのか、誰かが調整したのかも分からない。


それでも今は、そんなことを考えたくなかった。


通知が来た。その事実だけで十分だった。


休憩室のドアの向こうでは、店の音が続いている。客の声。皿の音。宮原の笑う声。店長が誰かを呼ぶ声。


現実は、まだそこにある。


でも美緒の中では、もう別の場所への扉が開いていた。


「佐倉さん、そろそろ戻れる?」


店長の声が、扉の向こうから聞こえた。


美緒は慌ててスマホを伏せた。


「はい。戻ります」


声が少し上ずった。自分でも分かった。


店に戻ると、宮原がすぐにこちらを見た。


「顔、戻ったじゃん」


美緒は、エプロンの紐を結び直した。


「何がですか」


「さっきまで死んでたのに、今ちょっと生き返ってる」


「宮原くん、言い方」


「いや、いいことあった顔してる」


その言葉に、美緒は少しだけ固まった。


いいこと。


そうだ。これは、いいことだ。少なくとも今の美緒には、そうだった。


「別に」


美緒は目を逸らした。


宮原はにやっと笑う。


「怪しい」


「仕事してください」


「はいはい。美緒ちゃんも、グラス落とさないでね」


美緒は返事をしなかった。でも、さっきほど腹は立たなかった。


勤務が終わるまでの時間は、長くて短かった。


注文を取り、皿を下げ、グラスを洗う。体はいつもの作業をしているのに、頭の中ではずっと同じ文字が光っていた。


【指定時刻:本日 21:30】


今夜。今日。このあと。


美緒は何度も時計を見た。


店を出る頃には、胸が苦しくなるほど早く鳴っていた。


更衣室で制服を脱ぎ、私服に着替える。ロッカーの鏡に映る自分は、いつもより少し疲れていた。


髪は仕事中に少し乱れている。リップも落ちている。目元も少し重い。


このまま行くわけにはいかない。


美緒は一度、スマホを取り出した。配偶者用アプリをもう一度開く。通知は、まだそこにある。消えていない。夢ではない。


そのあと、下位妻グループの通知が目に入った。未読がいくつか溜まっている。麻衣。千紗。琴葉。乃亜。


美緒は、乃亜との個別チャットを開いた。


入力欄に指を置く。


「乃亜ちゃん、私も……」


そこまで打って、止まった。


私も。


その言葉が、少し残酷に見えた。


琴葉が呼ばれた時、乃亜は隣にいてくれた。何も深く聞かず、歩いてくれた。大丈夫? と短く送ってくれた。


乃亜には言いたい。一番に言いたい気もした。


でも、今それを送れば、自分は琴葉と同じ側に行く。呼ばれた側。乃亜を置いていく側。


美緒は文字を消した。


「今日、呼ばれたみたいです」


それも消した。


みたいです、なんて。


本当は分かっている。呼ばれたのだ。自分が。


美緒はチャット画面を閉じた。


言えない。言わないのも、隠し事になる。それは分かっていた。でも今は、言えなかった。


美緒は自宅へ急いだ。


部屋に着くと、すぐにクローゼットを開けた。服を何枚も出して、ベッドの上に並べる。


派手すぎるのは嫌だった。必死に見える気がする。でも地味すぎるのも嫌だった。せっかく呼ばれたのに、ただの仕事帰りみたいには見られたくない。


黒のワンピース。薄いベージュのスカート。白いブラウス。少しだけ体の線が出るニット。


美緒は鏡の前で、何度も服を当てた。


天城蓮に会う。


そう思うだけで、手が落ち着かない。


琴葉さんは、どんな服で行ったんだろう。


ふと、そんなことを考えた。


考えた瞬間、胸の奥に小さな痛みが戻った。


琴葉はもう知っている。指定場所へ行く時の緊張も。通知を受け取った後の支度も。蓮と会う直前の息の仕方も。美緒より先に、知っている。


でも。


美緒は鏡の中の自分を見た。


今日は私が呼ばれた。


その言葉を、心の中でゆっくり言った。


琴葉さんだけじゃない。私にも来た。第13妻でも。下位でも。呼ばれない側のままではなかった。


美緒は服を決めた。


派手すぎないワンピースに、薄いカーディガン。リップを塗り直す。髪を整える。香水をつけるか迷って、手首にほんの少しだけつけた。


つけすぎていないか、何度も確認する。爪も見る。


美緒は鏡の前で笑ってみた。少し硬い。もう一度笑う。今度は、少しだけましだった。


スマホが震えた。


美緒はすぐに画面を見た。


配偶者用アプリから、指定場所の案内が届いていた。住所と、短い注意書き。


【指定時刻の五分前に到着してください】


【本案内の外部共有は禁止されています】


また、冷たい文字だった。


でも、美緒の胸は高鳴った。


五分前。遅れられない。


美緒はバッグを持った。


部屋の電気を消す前に、もう一度鏡を見た。


佐倉美緒。


外ではその名前のまま。天城姓はどこにもない。第13妻だと分かるものもない。


でも、今夜は呼ばれた。


美緒はスマホを握った。


指定場所へ向かう道で、もう一度だけ乃亜のチャットを開いた。入力欄は空白のままだった。


美緒は何も打たずに閉じた。


ごめんね。


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


それでも足は止まらなかった。


今日は私が呼ばれた。


その言葉だけを、胸の中で何度も繰り返しながら、美緒は指定された場所へ向かった。

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