第19話【対象者より個別連絡があります】
翌日の居酒屋は、いつも通り騒がしかった。
油の匂い。焼き鳥の煙。皿が重なる音。注文端末の電子音。店長が奥から誰かを呼ぶ声。
何も変わっていない。
美緒は、制服のエプロンを結び直して、ホールに出た。
店の中では、もう何組かの客が酒を飲んでいた。カウンターには常連の男がいて、奥の座敷では会社員らしい四人組が声を大きくしている。
テレビは壁の上でニュースを流していた。けれど今日は、天城蓮の名前は出ていない。どこかの企業の不祥事と、週末の天気の話だった。
それなのに美緒は、画面の下に流れる字幕をうまく読めなかった。
頭の中に残っているのは、別の文字ばかりだった。
白石琴葉:
「でも、ちょっとだけ嬉しかった」
白石琴葉:
「美緒ちゃんにも、きっと来ると思う」
三枝乃亜:
「大丈夫?」
美緒は、注文端末を持つ手に力を入れた。
大丈夫です。自分でそう返した。琴葉さんが悪いわけじゃないです。それも、自分で送った。
どちらも間違ってはいない。
でも、正しい言葉を並べたからといって、胸の中まで正しくなるわけではなかった。
「店員さん、生三つ」
「あ、はい」
美緒は顔を上げた。三番卓の客が、空のジョッキを掲げている。
美緒は注文端末を操作した。生ビール三つ。
押したつもりだった。
けれど、厨房に送信された注文を見て、すぐに店長の声が飛んできた。
「佐倉さん、これ生二つになってるよ」
「あ、すみません」
美緒は慌てて打ち直した。手元がうまく動かない。
「どうした、美緒ちゃん」
横から宮原悠斗が顔を出した。ビールジョッキを片手に持っている。いつものように、少し近い。
「今日ちょっと魂抜けてない?」
美緒は、端末の画面を閉じた。
「抜けてません」
「抜けてるって。今、生二つで送ってたし」
「ただの入力ミスです」
「ただの入力ミスって言える顔じゃないけど」
宮原は軽く笑った。
その軽さが、少しだけ苛立たしかった。
この人は何も知らない。琴葉が呼ばれたこと。自分が祝えなかったこと。琴葉が優しいから、嫌えなかったこと。乃亜が気づいてくれていたこと。自分が今、どれだけ小さいことで揺れているか。
何も知らない。それなのに、魂抜けてない、なんて簡単に言う。
「仕事してください」
美緒はそう言って、三番卓へ向かった。
宮原は後ろで笑っていた。
「はいはい。美緒ちゃんもね」
美緒は返事をしなかった。
三番卓にビールを運び、空いた皿を下げる。四番卓の客に取り皿を出す。六番卓の会計を確認する。
体は動いている。何年もやっている仕事だった。
でも、ところどころで意識が途切れる。客が呼んでいるのに、一瞬気づかない。注文端末を開いて、何を打とうとしたのか分からなくなる。
そして、洗い場でグラスを拭いている時だった。
指先が滑った。
「あ」
グラスが手から落ちかける。
床に当たる前に、横から手が伸びてきた。宮原だった。
「危な」
宮原はグラスをつかんで、そのままカウンターに置いた。
「今日マジで危ないって」
美緒は、止まったままの手を見た。指先が少し濡れている。
「すみません」
「いや、俺に謝るやつじゃないけど」
宮原は顔を覗き込むようにして言った。
「休憩入ったら? 顔、けっこう終わってる」
「終わってません」
「いや、終わってる」
「宮原くん、そういうの誰にでも言うでしょ」
「顔終わってるは、誰にでも言ったら普通に嫌われるだろ」
「分かってるなら言わないでください」
美緒がそう返すと、宮原は少しだけ笑った。いつもの軽い笑い方だった。
けれど、その目は少しだけ真面目だった。
「なに、失恋?」
美緒は反射的に眉を寄せた。
「違います」
「じゃあ何」
「何でもないです」
「何でもない人、グラス落としかけないって」
「たまたまです」
「はいはい」
宮原は、グラスを棚に戻した。
「じゃあ、たまたま休憩入ってきなよ。店長には俺が言っとく」
「勝手に決めないでください」
「今の美緒ちゃんにホール出られる方が怖いんだわ」
美緒は言い返そうとして、言葉が出なかった。
苛立つ。本当に苛立つ。
軽い。雑。距離が近い。何も知らないくせに、踏み込んでくる。
でも。
休憩入ったら。
その言葉だけは、すぐ届いた。
妻コミュニティでは、みんな言葉を選ぶ。おめでとう。大丈夫? 気にしないで。きっと来ると思う。どれも優しい。でも、どれも画面の向こうにある。
宮原は何も知らない。天城蓮の妻たちの序列も、呼ばれない夜の痛みも、琴葉を祝えない苦しさも知らない。
それなのに、目の前でグラスを拾う。顔終わってる、と言う。休憩入ったら、と言う。
雑で、現実的で、少しだけ腹が立つくらい近い。
美緒は、布巾を握ったまま息を吐いた。
「……少しだけ、入ります」
「はい、えらい」
「子ども扱いしないでください」
「してないしてない」
宮原はそう言って、店長の方へ歩いていった。
美緒は休憩室に入った。
小さな部屋だった。古いロッカー。パイプ椅子。誰かが置いていった缶コーヒー。壁に貼られたシフト表。
そこにも、佐倉、と書いてある。
佐倉美緒。
天城蓮の妻になっても、ここでは佐倉。琴葉が呼ばれても、美緒は佐倉。グラスを落としかけた店員で、注文を間違えたバイトで、宮原に休憩へ追い込まれた同僚だった。
美緒は椅子に座り、スマホを取り出した。
見ない方がいい。そう思った。でも、見てしまう。
下位配偶者グループには、未読がいくつか溜まっていた。麻衣のスタンプ。千紗の短い言葉。琴葉の「ありがとう」。乃亜の「無理しないでね」。
美緒は、画面を開かずに通知だけ見た。
無理しないでね。
乃亜の言葉は優しい。でも、今その優しさを見ると、また自分が惨めになる気がした。
美緒はスマホを伏せた。
休憩室の蛍光灯が、机の上を白く照らしている。ここには誰もいない。
店の音だけが、薄い壁の向こうから聞こえる。客の笑い声。皿の音。宮原の声。店長の声。
美緒は目を閉じた。
琴葉さんが悪いわけじゃない。
また、その言葉が戻ってくる。
そう思うほど、自分が嫌になる。
琴葉が悪くないなら、悪いのは誰なのだろう。
誰も悪くないのかもしれない。琴葉は呼ばれただけ。美緒は呼ばれていないだけ。天城蓮は、琴葉を呼んだだけ。
ただ、それだけ。
ただそれだけなのに、美緒はこんなに揺れている。
スマホが震えた。
美緒は目を開けた。
一瞬、下位妻グループだと思った。また麻衣のスタンプかもしれない。乃亜かもしれない。琴葉かもしれない。
そう思いながら画面を上に向ける。
違った。
配偶者用アプリの通知だった。
美緒は、息を止めた。
画面に表示された文字を、最初はうまく読めなかった。もう一度見る。
【対象者より個別連絡があります】
時間が止まったように感じた。
店の音が遠くなる。皿の音も、客の声も、宮原が何か言っている声も、全部薄くなる。
美緒は、スマホを両手で持った。
対象者。天城蓮。個別連絡。
その三つの言葉だけが、白い画面の中で浮かんでいる。
琴葉への嫉妬。祝えない自己嫌悪。職場でのミス。宮原の軽い声。グラスを落としかけた指先。
その全部が、一瞬で遠ざかった。
美緒は通知を開こうとして、指が少し震えた。
自分にも来た。
その言葉が、胸の奥から浮かび上がる。
琴葉だけではなかった。置いていかれたままではなかった。
美緒は、暗くなりかけた画面を指でなぞった。
休憩室の蛍光灯の下で、スマホだけが小さく光っていた。
その光が、さっきまでの黒いものを全部上書きしていく気がした。




