表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/80

第19話【対象者より個別連絡があります】

翌日の居酒屋は、いつも通り騒がしかった。


油の匂い。焼き鳥の煙。皿が重なる音。注文端末の電子音。店長が奥から誰かを呼ぶ声。


何も変わっていない。


美緒は、制服のエプロンを結び直して、ホールに出た。


店の中では、もう何組かの客が酒を飲んでいた。カウンターには常連の男がいて、奥の座敷では会社員らしい四人組が声を大きくしている。


テレビは壁の上でニュースを流していた。けれど今日は、天城蓮の名前は出ていない。どこかの企業の不祥事と、週末の天気の話だった。


それなのに美緒は、画面の下に流れる字幕をうまく読めなかった。


頭の中に残っているのは、別の文字ばかりだった。


白石琴葉:

「でも、ちょっとだけ嬉しかった」


白石琴葉:

「美緒ちゃんにも、きっと来ると思う」


三枝乃亜:

「大丈夫?」


美緒は、注文端末を持つ手に力を入れた。


大丈夫です。自分でそう返した。琴葉さんが悪いわけじゃないです。それも、自分で送った。


どちらも間違ってはいない。


でも、正しい言葉を並べたからといって、胸の中まで正しくなるわけではなかった。


「店員さん、生三つ」


「あ、はい」


美緒は顔を上げた。三番卓の客が、空のジョッキを掲げている。


美緒は注文端末を操作した。生ビール三つ。


押したつもりだった。


けれど、厨房に送信された注文を見て、すぐに店長の声が飛んできた。


「佐倉さん、これ生二つになってるよ」


「あ、すみません」


美緒は慌てて打ち直した。手元がうまく動かない。


「どうした、美緒ちゃん」


横から宮原悠斗が顔を出した。ビールジョッキを片手に持っている。いつものように、少し近い。


「今日ちょっと魂抜けてない?」


美緒は、端末の画面を閉じた。


「抜けてません」


「抜けてるって。今、生二つで送ってたし」


「ただの入力ミスです」


「ただの入力ミスって言える顔じゃないけど」


宮原は軽く笑った。


その軽さが、少しだけ苛立たしかった。


この人は何も知らない。琴葉が呼ばれたこと。自分が祝えなかったこと。琴葉が優しいから、嫌えなかったこと。乃亜が気づいてくれていたこと。自分が今、どれだけ小さいことで揺れているか。


何も知らない。それなのに、魂抜けてない、なんて簡単に言う。


「仕事してください」


美緒はそう言って、三番卓へ向かった。


宮原は後ろで笑っていた。


「はいはい。美緒ちゃんもね」


美緒は返事をしなかった。


三番卓にビールを運び、空いた皿を下げる。四番卓の客に取り皿を出す。六番卓の会計を確認する。


体は動いている。何年もやっている仕事だった。


でも、ところどころで意識が途切れる。客が呼んでいるのに、一瞬気づかない。注文端末を開いて、何を打とうとしたのか分からなくなる。


そして、洗い場でグラスを拭いている時だった。


指先が滑った。


「あ」


グラスが手から落ちかける。


床に当たる前に、横から手が伸びてきた。宮原だった。


「危な」


宮原はグラスをつかんで、そのままカウンターに置いた。


「今日マジで危ないって」


美緒は、止まったままの手を見た。指先が少し濡れている。


「すみません」


「いや、俺に謝るやつじゃないけど」


宮原は顔を覗き込むようにして言った。


「休憩入ったら? 顔、けっこう終わってる」


「終わってません」


「いや、終わってる」


「宮原くん、そういうの誰にでも言うでしょ」


「顔終わってるは、誰にでも言ったら普通に嫌われるだろ」


「分かってるなら言わないでください」


美緒がそう返すと、宮原は少しだけ笑った。いつもの軽い笑い方だった。


けれど、その目は少しだけ真面目だった。


「なに、失恋?」


美緒は反射的に眉を寄せた。


「違います」


「じゃあ何」


「何でもないです」


「何でもない人、グラス落としかけないって」


「たまたまです」


「はいはい」


宮原は、グラスを棚に戻した。


「じゃあ、たまたま休憩入ってきなよ。店長には俺が言っとく」


「勝手に決めないでください」


「今の美緒ちゃんにホール出られる方が怖いんだわ」


美緒は言い返そうとして、言葉が出なかった。


苛立つ。本当に苛立つ。


軽い。雑。距離が近い。何も知らないくせに、踏み込んでくる。


でも。


休憩入ったら。


その言葉だけは、すぐ届いた。


妻コミュニティでは、みんな言葉を選ぶ。おめでとう。大丈夫? 気にしないで。きっと来ると思う。どれも優しい。でも、どれも画面の向こうにある。


宮原は何も知らない。天城蓮の妻たちの序列も、呼ばれない夜の痛みも、琴葉を祝えない苦しさも知らない。


それなのに、目の前でグラスを拾う。顔終わってる、と言う。休憩入ったら、と言う。


雑で、現実的で、少しだけ腹が立つくらい近い。


美緒は、布巾を握ったまま息を吐いた。


「……少しだけ、入ります」


「はい、えらい」


「子ども扱いしないでください」


「してないしてない」


宮原はそう言って、店長の方へ歩いていった。


美緒は休憩室に入った。


小さな部屋だった。古いロッカー。パイプ椅子。誰かが置いていった缶コーヒー。壁に貼られたシフト表。


そこにも、佐倉、と書いてある。


佐倉美緒。


天城蓮の妻になっても、ここでは佐倉。琴葉が呼ばれても、美緒は佐倉。グラスを落としかけた店員で、注文を間違えたバイトで、宮原に休憩へ追い込まれた同僚だった。


美緒は椅子に座り、スマホを取り出した。


見ない方がいい。そう思った。でも、見てしまう。


下位配偶者グループには、未読がいくつか溜まっていた。麻衣のスタンプ。千紗の短い言葉。琴葉の「ありがとう」。乃亜の「無理しないでね」。


美緒は、画面を開かずに通知だけ見た。


無理しないでね。


乃亜の言葉は優しい。でも、今その優しさを見ると、また自分が惨めになる気がした。


美緒はスマホを伏せた。


休憩室の蛍光灯が、机の上を白く照らしている。ここには誰もいない。


店の音だけが、薄い壁の向こうから聞こえる。客の笑い声。皿の音。宮原の声。店長の声。


美緒は目を閉じた。


琴葉さんが悪いわけじゃない。


また、その言葉が戻ってくる。


そう思うほど、自分が嫌になる。


琴葉が悪くないなら、悪いのは誰なのだろう。


誰も悪くないのかもしれない。琴葉は呼ばれただけ。美緒は呼ばれていないだけ。天城蓮は、琴葉を呼んだだけ。


ただ、それだけ。


ただそれだけなのに、美緒はこんなに揺れている。


スマホが震えた。


美緒は目を開けた。


一瞬、下位妻グループだと思った。また麻衣のスタンプかもしれない。乃亜かもしれない。琴葉かもしれない。


そう思いながら画面を上に向ける。


違った。


配偶者用アプリの通知だった。


美緒は、息を止めた。


画面に表示された文字を、最初はうまく読めなかった。もう一度見る。


【対象者より個別連絡があります】


時間が止まったように感じた。


店の音が遠くなる。皿の音も、客の声も、宮原が何か言っている声も、全部薄くなる。


美緒は、スマホを両手で持った。


対象者。天城蓮。個別連絡。


その三つの言葉だけが、白い画面の中で浮かんでいる。


琴葉への嫉妬。祝えない自己嫌悪。職場でのミス。宮原の軽い声。グラスを落としかけた指先。


その全部が、一瞬で遠ざかった。


美緒は通知を開こうとして、指が少し震えた。


自分にも来た。


その言葉が、胸の奥から浮かび上がる。


琴葉だけではなかった。置いていかれたままではなかった。


美緒は、暗くなりかけた画面を指でなぞった。


休憩室の蛍光灯の下で、スマホだけが小さく光っていた。


その光が、さっきまでの黒いものを全部上書きしていく気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ