第十六話『【転章】~ターニングポイント~』
久しぶりの投稿です。すいませんでした。加えると、三話分のボリュームです。それと、長文が途中であるのでそこは飛ばしても大丈夫です。本編にはあまり関係しないので。
そこは一目で分かるほどにどんよりとした雰囲気が漂う森だった。まだ昼間の真ん中あたりに位置しているというのに太陽の光はほぼ差していなく、一歩先の視界もぼんやり程度にしか見えないくらいだ。
まるで幽霊の一人、もしくは一匹くらいは出そうなくらいに。
「――みたいな顔してるね、雅さん」
「心でも読めるのかな? 彩花ちゃん。そのタイミングは完璧過ぎたよ」
ばっちり、頭の中で考えていたことを的中させられ、雅は少しだけ動揺した様子で尋ねる。だがその様子を見た彩花というと、「はぁ」と少し溜息をつき――、
「そんなわけないでしょ。まったく、妖の類じゃないんだから」
「ですよね‥‥‥」
ちょっとふざけただけで、頭ごなしに否定されてしまった。あまりふざけた態度は良くないかもしれない。
「それにしても、この森かなり不気味だよね。ねぇ、本当にここで合ってるんだよね?」
森が放つ独特な雰囲気が人の立ち入りを拒んでるように思わせる。そんな場所に少女二人が自由に隠れるというのだ。もし、万が一のことがあった場合、雅の手では責任を負うことはできない。それ故に雅は再確認をした。――が、
「もしかして、ビビってんのか? あんな見栄を張っていたのにか? おいおい、こりゃあ傑作だぜ」
どうやらその確認はもう一人の少女によって嘲笑とともに消し去った。
「ただの確認だよ。あなたたちがもし危険な目にあったら、私じゃ手に余る。そうしたら、二人を助けれないでしょ?」
「あぁん? そりゃあ、余計なお世話ってやつだぜ。俺たちはよくここに来てる。最近じゃ‥‥‥三日前
くらいだな」
何ということだろうか。まだ小学生くらいの少女たちがこんな鬱蒼とした森に度々訪れるなんて危険にも程がある。何と言っても、せっかくの美少女が勿体ない。
「ついでに言っちまうと、ここに動物は生息してねぇ。ま、こんな森に住み着くわけないわな」
「危険がないなら‥‥‥いっか」
この森のことは彼女らの方がよく知っているはずだ。それを否定する必要はないだろう。ここは素直に信じるとしよう。
「二人とも話は終わったの? それじゃあ、行こうか」
気づけば、彩花は森の入り口の目の前に一足先に到着しており、退屈そうに手を振っていた。
「早く行くぞ。――あいつを待たせるなよ」
後半部分をやけに強く強調して、少女は早々に去っていった。やけにその言葉が、暴力的な感情ではなく、悲しそうに満ちているように感じたのが一つだけ心掛かりだった。
【澱みの森】に足を踏み入れると、やはり予想通りというべきか案の定、強烈な湿度が襲い掛かってきた。これは湿度百パーセントに匹敵するのではないだろうかと雅は覚悟した。
「じゃあ、ルール説明を‥‥‥って、何やってるの雅さん」
彩花が口をあんぐりと開けて驚くのも無理はない、雅は二日酔いのおっさんくらいにクラクラしているというのだから。
「いや、ね。実を言うと、体調が物凄く悪いと言いますか‥‥‥」
「おいおい。やっぱビビってんじゃねえか? 見るに堪えねぇぜ!」
何度もディスられているから思ったがこの子は友達が少なさそうだ、可哀想に。
「ちょっとそんな言い方はないでしょ? ねぇ、大丈夫なの?」
「う、うぅん、‥‥‥無理そう」
明華雅は極度の湿邪持ちだった。極端な例を挙げるとすれば、雨が降ったら基本的に外出はしないといった徹底ぶりだ。
だが、そのような生活を送っていては、任務上、支障をきたす可能性がある。
そこで雅は所属している組織である『MCT』の薬学に精通しているチームに雅の体質にオーダーメイドで薬を作ってもらっていた。それからというもの、雅は毎回その薬のおかげでやってきていた。
しかし、任務でこれほどまでに湿度の高い場所に行くとは予想もしていなかった雅はというと、予備の薬は一個たりとも、持ってきていなかった。
そもそも、今日は休日だったのだ。天気予報は降水確率ゼロパーセントを示していたし、どこかに遠出する予定もなかった。
つまるところ、雅は己の怠慢により、自らを苦しめていたのだった。結局のところ、人生最大の敵は自分自身ということだ。
「じゃ、一回外に出ようか。顔色がだいぶ青白いし」
「ちっ」
「そんなこと言っちゃダメでしょ?」
「へいへい」
黒髪の彼女は納得がいっていない様子だったが、何とか彩花によるアシストにより、矛を収めてくれた。彩花様、万歳!!
久しぶり(数分ぶりだが)に暖かい陽気を浴びると安心感が桁違いだった。太陽のありがたみを感じる。
とはいえ、そんなことを言っている余裕はなかった。彼女たちは飽くまでも休憩のためにあの場所を離れたに過ぎないと認識している。つまるところ、あと数分すれば、あの場所へと逆戻りとなるわけで。
「それはまずいな~」
先の展開に頭を悩ませる雅。取り敢えずは、彼女らに少しの間、一人きりにして欲しいと頼んだのはいいものの、どうすればいいのか千慮しなければならない。
そこで雅は一つの策を熟考の末、実行することにした。それは――。
「ねぇ、甘い物好き?」
――必殺、買収!!
本当ならば、ぬいぐるみを使った方が良かったかもしれない。が、ぬいぐるみは残るものだ。この空間はどのような仕組みで構成されているのか分からない以上、未来にまで残るようなものを放置していたら、まずい気がする。いわゆるタイムパラドックスのようなことが起きるかもしれない。
タイムスリップをしているのか、それともこの空間を解決するためだけの一時的なもので、過去や未来に影響を及ぼさないのか。それが未知数なため、かなり危険な行為になる。
よって、包装さえ回収すれば跡形もなくなるチョコレートにすることにした。
「ねぇ、雅さん」
「――はい」
「――買収しようとしてる?」
‥‥‥やっぱり、ダメだったかもしれない。
「ん? 甘いものくれんのか?」
「え?」
雅の野望が粉々に砕かれた直後、予想外の声はもう一人の全く縁がなさそうな少女から飛んできた。
「だから、甘いもんくれんのかって。まさか、コイツだけってわけじゃないよな?」
意外だった。こんなに甘い物に全く興味を示そうにない彼女が、こんなに入れ食い状態になるとは。人は見た目や性格で判断するのは良くないな、と改めて実感した。
「――うん、もちろん。でも、貴重だから一個しかないんだけどね」
そう言って、雅はカバンの中からチョコレートを取り出した。二つとも移動中の電車で雅が食べてしまったのでもうない。唯一、一個だけ任務中の非常食として残しておいたものが功をなした。よくやった、
「んだこれ? 見たことのない包装に良く分からない絵がかいてあんぜ?」
訝しむのも当然だ。昔の人達にとってここまで、派手な素材はない。その上、英語なんて一部の富裕層か有識者ぐらいしか知らない。ましてや、推定年齢六歳の少女たちには程遠い話だろう。
「これはチョコレートって言って、西洋から渡ってきたお菓子なの。最近、日本に伝わったもので、裕福な階級の人しか食べられないんだけど、その中でも一際、美味しいのはこれなの」
噓だ。ここまで大胆な噓をつけたのは道中での彩花との会話だった。実を言うと、この空間は固有名詞だけは翻訳されない。だから、所々雅が怪しくないように尋ねたキーワードから、恐らくこの空間内での時代は江戸時代と考えることができた。
「――――」
とはいえ、こんなよく分からない食べ物に手を伸ばすなんてことは、余程のギャンブラーか精神異常者でない限り、有り得ないだろう。
「まぁ、雅さんはそんなことする人じゃないでしょ?」
細められた視線で彩花は雅を視線ではんなりと牽制した。裏切るなよ、といった含みを感じられて、少しの間、体が動かなかった。
その言葉を聞いた少女は恐る恐る「じゃあ‥‥‥」と難色を示しつつも、禁断の果実に手を伸ばした。
しばらく経った後、どうやら食べ方に悪戦苦闘しているようなので、雅はおぼつかない動作でパッケージの開封と半分に切り分ける作業をしてあげることにした。
「おい、これ半分に上手く割れてねぇじゃねぇか。そこは平等にしろよ」
雅が二分割したチョコレートはお世辞にも上手とは言えない割り方だったが、気にしない人は気にしないといった程度の不格好なチョコレートだった。
大きさの違いに気を付けて再確認すると、僅かに一ブロック差があった。これは無論、私の気遣い不足ではあるのだが、一つ言い訳をさせて欲しい。
明華雅には友達と言えるような人間が存在しなかった。――とどのつまり、悲しいかな。チョコレートは雅にとって切り分けるようなものではなく、少しずつ食べていくものだったのだ。だから、彼女に対する友達が少ないという、先程のディスは雅にとっての特大ブーメランだったのだ。ただ、彼女には彩花という友人がいる以上、雅は土俵にすら、上がれていないので話にならない。
「ごめんね‥‥‥」
悲愴な感情を胸の内に隠蔽しつつ、精一杯の誠意を込めた謝罪をした。 言葉の真意を悟らせないよう、表情や言葉の高低に気を付けたのだが、案の定、彩花は大人びた寛容な心で受け止めてくれた。
「そこまで言わなくてもいいんじゃない? こんな貴重品をくれたんだから。ありがとうございます、雅さん」と彼女の意見を優しく咎めた。
正直に言うと彩花なしの雅では村の存在は疎か、番犬の少女によって一歩も動けずに、何日も浪費して怠惰を貪っていたかもしれない。何なら最悪、餓死していたかもしれない。飯にありつけるかはこの後の状況次第だから、未確定だが。
そういった面で、雅にとって彩花というピースは必要不可欠な存在であった。そのため、チョコレート一つが彼女たちにとってどれくらいの価値があるのかは想像できないが、チョコレートを提供したのも私欲だけではなく、これも一つの理由となっている。
だが、雅自身もこの程度でお詫びの品になるとは思っていない。
だからこそ、自分自身の未熟さを実感し、更なる成長が必須と重きを置く出来事となった。――そして、必ず彼女には、もっとちゃんとした礼が出来るように、と新たな出発点が設定された。
それから、彼女たちはチョコレートと正面からご対面することになった。
「おい、てめぇ。これで毒とか盛った暁にはお前の存在できる場所は世界中探してもないと思えよ?」
例の番犬、もといライオンはキリキリと鋭い瞳孔を向けつつ、手厳しい評価を叩き付けてきた。
「‥‥‥まぁ、そう考えるのが普通の人間の思考だよね。両親にも、そう教わっているだろうしね」
「てめぇ!」
突然、彼女は荒んだ声で邂逅以来、初めて本当の殺意を込めた眼光でこちらを睨んだ。そのまま視点を恐る恐る、横へとずらすと、色々な感情で入れ混ざっている彼女の表情がそこにはあった。
まさか、とやってしまった後悔に身を馳せようとした瞬間、視界の端には小さな腕が映り、胸倉を掴もうとする行為を捉えた。それは間違いなく、雅に対した明確な好戦的行動だった。
「‥‥‥花は、彩花は。――彩花の両親はいねぇんだよ」
その言葉は暴力的な気配と裏腹に、沈黙が全てを支配した。
「両親の不在ってのはなぁ、まず絶対に聞いちゃいけねぇ話題だろ? それに加えて、金の話‥‥‥。要するに、家庭の事情ってんのは大人からガキまで絶対に触れるなっていうのは俺の中では定着してる一種のルールになってる。だから、どんなタイミングであっても、避けといたほうがいいぜ? ぜってぇ、まわりまわって厄ネタになるからよぉ」
その男は二十代半に見える容貌でありながら頬を掻き、煙草を吸うという、おっさんらしい態度で話し掛けてきた。
「それからよぉ」と、そのまま彼は言葉を続ける。
「理解してると思うが、やらかしたらどうするか答えてみろ」
少女は考えた。考えて、考えて、考えて、どうしても頭から考えが出てこない。ふと顔を上げてみると、男の横には煙草の吸い殻が二、三本じゃ飽き足らないほどに蓄積されていた。男はこちらの視線に気付くと同時に、少女の苦悩している雰囲気を感じ取ったのか、ここから去り始める準備をし始めた。単に、新しい煙草を買いに行こうとしているのかもしれないが。
そんなことを横目に、いつまでも答えを出せずボーっと眺めている少女は自分でも凄くマイペースだなと思えた。今、ここで答えを出さずとも、別に少しの蟠りが残るだけで、何も急ぐ必要なんてない。このまま答えを出さずにしていい。そんな愚劣な考えが頭の中を過る。――否、そんなことしたら絶対に後悔する。
事実、男との再会は三年ぶりだ。ただ、彼はいつの間にか失踪して、いつの間にか『MCT』
のメンバーに忘れ去られていたが。そんな幽霊のような人間だった。――その割には自己主張の強い人間だと思うけど。
「その様子だと、――未だに見つからないんだろ? まだ未熟だもんな‥‥‥って、言っても、もう一年は働いてるんだっけか? ま、まだまだ答えが出るにはかかりそうだな。まぁ、またいつか機会があったら聞くさ。それまでに、お前の価値観がアップデートされてることを期待してるぜ」
期待していない子供が見せるようなにやけ顔を見せつけ、彼は完全に帰路につき始めた。その態度に納得のいかない少女はわずかに悩んでから人差し指と親指を銃のように向けて言い放った。
「答えに公式はないと思うの。正解は、自分で求めるものでしょ!」
そんな風に、主人公のような決め台詞を言い放ち、ほくそ笑んだ。少女なりの勝利宣言だったのだろう。今、思い返せば控えめに言って周りから見ると、かなり痛い奴だろうなと思う。
しかしながら、そんな考えは、当時は微塵もなく、ただただ、「してやったり!」という気持ちでいっぱいだった。過去には戻れないし、小説や漫画みたいに書き直せない。なんて現実は、残酷なんだろう。
それに対して男は「言うようになったじゃねぇか」とその言葉だけを残して早々に去っていった。
それ以降、従来通り彼の顔を見ることはなかったのだが、どうしても、最後の言葉と同時に残された小馬鹿にしている表情が答えは明確に存在していることを示唆していたのではないか、と考え込まされ、呪いとなって残された。――あれから、二年経過。そして、今に至る。
果たして、今の雅に一体どんな変化があっただろうか。友達は相変わらず不在。自分の才能がないからといって直ぐに落ち込む。あまつさえ、自分の欲求を優先して任務は二の次。何が変わった? 何か変えることができたのか?
「今までの任務を無事に遂行した」
それが一体、何だというのか。途中寄り道したけど、助かってよかった? 被害者は苦しみ続けているというのに? そんなものは結果論に過ぎない。結果論、終わり良ければ全て良し? 実に便利で都合のいい言葉だと思う。最終的に何とかなればいいという考え方が嫌いだ。最初から自分のベストを尽くすことができるのに、惰弱に生活して、最終的に何とかなって良かったね、だ? 笑止千万。そんな馬鹿げたことは考えるな。怠惰こそ最も忌むべき存在だろう。ふざけるな。
そうやって、私は、あんたは、お前は、お前たちは、失態を繰り返し続けて来たんだろう? 何を学んだんだ? 紀元前から始まった人間同士の争い。もっと言えば、人間が存在する前から動物は争うことでしか生活を豊かにすることができない。
何故、学べなかった? ――否、学ぼうとしなかった。本当は争いが何も生まないことくらい、全人類知っている。
知ってても、見て見ぬふりをして綺麗事でオブラートに包み、諦めた。実際問題、世界平和なんてできるはずがない。――あぁ、知ってたさ。ただ、それを知りたくないからみんな隠す。
そして、今の雅はどうだろうか。スケールの大きい話と比べてちっぽけな話だが、直ぐに見たくない現実を捨て、変わり続けることを諦めた。
そんな雅の出した答えは分かりやすいほど明確だった。
「申し訳ございません、大変な無礼をしてしまいました。どうか、こんな私を許してくださいとは言いません。この私の謝罪の意だけは本物だということだけ許諾してください」
――分かりやすいほど、己を最優先に考えた、上辺だけの言葉だった。
「へぇ、それがてめぇの答えかよ。最ッ高に気持ち悪ィな」
少女は軽蔑に満ちた瞳をこちらに向け、北の方向――澱みの森の方向へと去っていった。
気が動転し、瞬きすら忘れていた隣の少女もまもなく、親に必死になってついていく雛鳥のように千鳥足で追いつこうとする。掛ける言葉は、何もなかった。
悪態をついた雅は温かみを感じる地面が今は、忘れられないあの森と同じ程、湿って苦しい感覚を味わっていた。それは『MCT』として完璧な態度を果たせなかったことへの責任感なんかよりも、もっと違う、根本的な理由。
人としての尊厳がまるでなかったことについてだ。さっきまでの威勢といい、傲慢な言い方をしたことといい、人生最大の黒歴史が今、堂々誕生した日だ。
誕生日おめでとう。なんて、そんなこと言えるほどお気楽で、クズの象徴のような性格であればどれだけよかっただろう。
しかしながら、長年の月日がそれを拒む。着実にハッピーエンドだけを願う性格へと成長してしまった。一体、どこから変わってしまったんだろうか。――あぁ、なんだしっかり変わってたんだな、私。
「カァ、カァ」
突然の鳴き声に、雅はようやく周りの状況に気が付いた。気が付けば、そこには雄大な太陽。言い換えれば、迫りくる闇と逃げていくカラスの様子でいっぱいだった。
「私、何時間ここで突っ立ってたんだろ」
何かに縋ることのできない者は実に救いがなく、空虚な人生を送る。何かを得るためには、何かと等価交換になるのが自然の摂理らしい。
つまるところ、雅は己の致命的な欠如と引き換えに何を得たかについての疑問を抱えていた。周囲の人間曰く、顔がいいから。性格が悪くないとおかしい、声がいいから、胸が大きいから、身長が高いから、モデルさんみたいだから。
――ズルい、とのことだ。
外見のみ良くても、中身が悪かったら、それは宝の持ち腐れの他ならない。
雅は外見よりも中身が良い人間になりたかった。こんなことなら、外見が良く生まれなければよかったのだ。そうすれば、必然的に性格は良くなろうと努力するはずだ。――否、それはいささか齟齬があるので訂正する。結局は外見など関係ない。
これはただの言い訳だ。自らを納得させるための卑劣な手段である。
性格のいい人ならば、どんな立場、環境であろうと手を伸ばそうとするのだ。
性格は努力して改善するものではなく、自分の根本的なエネルギー――助けようとしたい本心さえあれば、自ずと世間一般でいう聖人と呼ばれる人格者と成す。とどのつまり、雅は根っこから性根が腐っていた。
「――雅さん」
ふと、声音が揺れている声が雅に掛かった。おおよそ、その声の主は予測できた、というか確信できている。
首をロボットのようにぎこちなく動かし、後ろを振り向くと、そこには現在進行形で地球を闇へと染めようと勤勉に仕事をこなしている太陽があった。
「いや、最初は後ろじゃなくて、前から見回すものじゃない?」
冷静に状況をつらつらと述べる声の主はそう告げた。確かにその通りだろう。
間違いなく、普通は顔を見上げてから、周囲を見回すだろう。ただ、雅にとって今の状況はそんなことどうだってよかった。
それよりも、声の主――彩花のことで頭がいっぱいだった。
誰かのことで頭がいっぱい、だなんてこんな状況下でなく、もっとロマンティックな風景で愛し合っているならドラマの一シーンのように見えるだろう。
しかし、今、頭の中で溢れ出す感情は一切合切、恐怖一色で染め上げられていた。最初に紡がれる言葉は何か。彼女はどんな表情をするのか。たった一つの言動で雅の心はいとも簡単にコントロールされる。究極、何だかんだ雅はどうあがいてもチョロい人間だった。
「なんで、ずっと動かなかったの?」
少女は首を傾げながら、疑問をつらつらと述べる。
「なんで、そんな顔してるの?」
少女の頭の中は疑問で埋め尽くされていた。少女にとって何時間も動かないこと、そして何故、目の前の人間がこの世の終わりのような顔をしているのかについて、一つも理解できなかったからだ。
まだ幼い少女にそんなことを考えるのはまだ早く、酷である、といった話ではなく、単純に理解できるような経験がなかったからである。
少女にとって、他人を嫌な気分にさせたときは特段、気にしなくても放っておけば勝手にいつの間にか関係が修復されているものだと思っていた。
そもそもの話、少女にとっての友人はただ一人、黒雲砂糖だけだ。
彼女は彩花のことを甘やかしていると傍から見ても分かるくらいには溺愛している。彩花もその一人であり、彼女の弱みに付け込んでいる。
この関係が彩花にとっては心地良かった。常に落ち着いて判断が出来て、変に気を回す必要もない。そんな、楽のできる生活を毎日送ることが出来るのだから。彩花側からするとメリットしかないが、実際のところ、彼女は彩花自身をどう思いながら接しているのだろうか。――ま、そんなこと気にする必要なんてないけど。
「‥‥‥、‥‥‥。‥‥‥」
何も思いつかない、というか、口が痙攣して上手く動かない。ふと、唇が乾いているのかと考え、バレないように、唇を口の中に少しだけ引っ込め、舌で唇を濡らす。
リップを塗ってこなくて良かった。もしつけてたら不味さから顔をきっとしかめていただろう。
ただでさえ、最悪な印象が水増しされて、フルボッコにされてただろう。――フルボッコて。緊迫した状況なのに、よくそんなこと言えたな、私。
そんなこんなで唇を濡らして、口を開く、がその先の言葉は再生されない。
他に要因があるはずだ、と考えた雅は急いで周囲を見回した。急いでカバンの中からもう、すっかりぬるくなっていた一本のお茶を取り出す。
次に思い付いたのは脱水症状だった。周りの風景からして、もう何時間も経過しているらしい。そんな中、水を一杯も飲んでいないのだから脱水症状を真っ先に思い付いた。
浴びるようにお茶を飲み、一瞬で飲み干す。喉がみるみる潤っていくのを微かな冷たさから感じる。だけども、喉が水分を求めていただけではなかったことが分かった。それでもなお唇がまるで動かないからだ。
したがって、明華雅には策が尽きた。――否、人間の本能からして、嫌な事が逃げ出したいという感情が発生しているせいだ。考えている時間こそ短いが、走馬灯のように長い熟考からようやく自覚した。
実に簡単なことだった。
恐怖、それこそが雅を縛り付ける呪いなのだ。人間の根本的感情であるが、雅にとって恐怖という感情は言葉以上に大きな意味を表す。それは、過去の経験が関係しており‥‥‥。
「ねぇ、返事くらいしたら?」
痺れを切らして、不服を服の袖を引っ張っている少女の声はとっくに憤怒の頂点に達していた。
当然だ。なんせ、話しかけられたというのに当の本人は一言も言葉を返さない。その上、何分待たせているのかさえも無視を貫いているのかすら知らないという傍若無人ぶりだ。
よって、どのくらい待たせているのかも分からないというその恐怖が雅をさらにパニックへと陥らせた。
落ち着け、明華雅。最初の一言。声さえ、上げればその後は言葉が自ずと続くはずだ。
――いや、違う。
辺り一面に生きのいいパッシーンという軽い音が響く。微かに震えている両手を何度も顔に思い切って当ててやると――、
「急に頬を叩き出したかと思えば、急に顔がスッキリするなんて、雅さんは変人みたいだね」
呆れたかのように平然とした態度を取る彩花は溜息交じりにそう呟いた。
「え?」
その言葉に呆気にとられる雅は瞬きを幾度か繰り返すと、
「彩花ちゃん、なんでそんなに普通にしてるの? 私、酷いことを言っちゃったのに‥‥‥」
「――いや、実は私、そんなに気にしてなかったんだよね」
「え?」
「いや、だからわたし気にしてないんだよ」
あっけらかんとした態度で衝撃の事実を吐露された雅は思わず、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。そのリアクションに対して、彩花は「そもそも‥‥‥」と前置きし、
「親の顔も見たことないのに、なんで気にする必要があるの? だから、雅さんは気にする必要なんて微塵もないんだよ?」
噂に聞いたことがある。両親に育てられていないため、両親に興味がないという子供がいるという話。
まさに、その実体が目の前の少女という訳だ。
雅としては立場上、好き勝手言えるような立場ではないが、そんな心理状態でいいのだろうか、と思う。雅は彼女と同じ田舎住みだが、彼女と違う点を挙げるならば雅は子どもの頃、神社住みで祖母の手一つで育てられたことだ。更に付け加えると、両親は不在ではなく、遠い何処かで働いているという点だ。
ただ、両親に会ったことは疎か、顔すら見たことがないので生きているのかすら怪しいところだったが。
そんな雅でも、両親に対する興味はあった。それも、祖母に一か月の初めに親のことを聞くくらいには興味を持っていた。
そして、その度に「そうだね、カッコいい人達だよ、とか整った顔の人だよ」とか、ぶっきらぼうに返されていた。
今、思い返せば毎月の始まりに質問するものだから呆れていたのだろう。
その結果、祖母は途中から質問に対する答えよりも、「月がもう移り変わったのか」やら、それらしい返事をしていたものだから、うやむやにしていたと考えるのが自然だろう。
とにかく、雅にも両親に対する興味くらいはあった。両親がどんな顔付きなのか、どんな声色なのかについて、どのような性格なのかなどといったことが気になって仕方がなかった。
今はそこまで気に掛けていないが、この年齢でこの関心の無さは少し病的なのかもしれない。勿論、立場上言わないが。雅はその言葉をグッと飲み込み、
「じゃあ、あの時なんで去っていったの?」
目を白黒させて、絵に描いたように両手をブンブンと振り回している様子は目の前の少女より少女らしい態度だ。だが、それを思わせないのが雅の童顔であった。
その態度を見た少女は鼻で笑い、
「黒糖ちゃんを置いていく訳には行かなかったからね、それに雅さんがついて来なかったんじゃん。」と告げた。
「確かに!?」
彼女は子供らしいリアクションを取って驚愕を訴えていた。そのリアクションが年相応ではないなとそんなことを考えている少女よりも幼げな様子が何だか少女にはとてもおかしく感じて堪らなくて――。
「これからもよろしくね。雅さん」と満面の笑みで少女に向かって手を差し伸べるのだった。
「うん、よろしく。でも、その前に‥‥‥」
ずっと詰まっていた言葉をどうにか搾り出すように、口を強引に開ける。
「彩花ちゃん、本当にごめんなしゃい。これからはちゃんと考えてから行動すりゅ。だからお願い! 今後も仲良くしてくれる?」
自分なりに考えた精一杯の謝罪を所々嚙みつつも、述べた。
「もちろん!」
彩花はそう言って、ピースで返すのだった。
許しを求めてたわけじゃない。謝りたいから謝る。それが、雅にとって価値観として足りていなかったのかもしれない。そう自覚すると、まだ僅かに火照っている身体を何故か、心地よく感じた。
この興奮が雅にとってのターニングポイントとなる。
何も始まっていない、これから始まるのだという戒めが長く、長く残るのだった。
【転章】完。
【間章】あの日を忘れないで。




