第45話 王都の祝讃
王都レムナントの空には、白い霧がゆるやかにたなびいていた。
朝の冷気を含んだその霧は、街の輪郭を柔らかくぼかし、どこか現実感を遠ざける。
鐘楼の鐘が鳴る。
ひとつ。ふたつ。
規則正しく、重く、しかしどこか優しい響きで。
それは祝福の鐘。
王国の勝利を告げる音だった。
音は石造りの街並みを縫うように広がり、屋根を越え、路地を抜け、人々の耳へと届いていく。
人々が顔を上げる。
市場の商人が手を止め、帽子を胸に当てる。
子どもたちは何も知らぬまま歓声を上げ、通りを駆け回る。
帰還した兵士たちは胸を張り、誇らしげに空を見上げた。
「勝ったんだってよ!」
「勇者様がやってくれた!」
「クレイモアの反乱も鎮まったらしいぞ!」
王国の象徴、《レムナント城》。
その高塔には、勝利を示す金の旗が力強くはためいていた。
朝日を受けて輝くその旗は、誰の目にも“正しい結末”を示しているように見えた。
王宮最奥の謁見の間には、まったく異なる空気が流れていた。
白金の柱が並び立つ広間。
天井には王家の紋章が刻まれ、深紅の絨毯が玉座へと一直線に伸びている。
その先に座すは、威厳を湛えたレムナント王。
年輪を刻んだ瞳は、重く、深い。
玉座の傍らには、薄紫のドレスに身を包んだセリーヌ王女が立っていた。
金糸の髪が光を受け、透き通る青い瞳は静かに広間を見渡している。
玉座の前に跪く六人。
アレン。リリィ。トレヴァー。ガイア。カミラ。エリアス。
その背後、少し距離を置いた位置に。
ルシアン・ヴァルグレイと第二王子リオネルが控えている。
王はゆっくりと立ち上がり、静まり返った謁見の間を見渡した。
「……勇者アレン・ヴァルデン。そしてその仲間たちよ」
声は重く、だが確かな温度を持っている。
「王国を救ってくれたこと、心より感謝する」
アレンは深く頭を垂れた。
その背筋は、一本の剣のように揺るがない。
「……もったいないお言葉です、陛下。我々はただ、王命に従ったまで」
真っ直ぐな声。
虚飾のない言葉。
王は小さく頷く。
「それでも、だ。お前たちの奮戦なくして、王国の夜明けは訪れなかっただろう」
群臣の間から、控えめな拍手が起こる。
光が窓から差し込み、勇者たちの肩を照らす。
王の視線が、ゆっくりと移る。
「……聖女エリアス・フェルン」
一瞬、空気が張り詰める。
王は、深く息をついた。
「……そなたを“拘束の命を下したこと、不当であった。王として、また人として、詫びねばならぬ」
王が、聖女に頭を下げた。
ざわめきが走る。
重臣たちの間に、抑えきれない動揺が広がった。
エリアスはゆっくりと立ち上がる。
緑の髪がさらりと揺れ、青緑の瞳が穏やかに王を見上げる。
「……陛下のお心、確かに受け取りました」
柔らかな声音。
「どうか、陛下もご自分をお責めにならぬよう」
その指先が、わずかに震えているのを、カミラだけが見逃さなかった。
横で、リリィが小さく囁く。
「……本当にあのときのこと、許してるの……?」
カミラは視線を前に向けたまま、低く返す。
「“許してる顔”に見える?」
エリアスは笑っている。
瞳は、凪いでいる。
王の視線が、さらに移る。
「ルシアン・ヴァルグレイ」
名が呼ばれた瞬間、空気がわずかに揺れた。
視線が集まる。
貴族、騎士、文官。
そして玉座の陰に控える侍従に至るまで。
誰もが一斉に、彼へと焦点を合わせる。
測っているのだ。
その功績の重さを。存在の危うさを。
沈黙は、静かな品評会のようだった。
言葉はない。
無数の思惑が交差している。
賞賛、嫉妬、警戒、恐怖。
そのすべてが、ルシアンという一点へ収束していた。
「そなたは我が息子を救い、クレイモアの叛乱を鎮め、国を安定へ導いた。その功、比類なし。王国はそなたを讃える!」
王の声が高らかに響いた瞬間、ざわめきが波紋のように広がっていく。
それは祝福であり、同時に“承認”だった。
王が認めた。
ならば、この男は“正しい”。
ルシアンは一歩、前へ出る。
その動きには無駄がない。
計算され尽くした歩幅、間合い、視線の落とし方。
まるでこの瞬間そのものを、事前に“設計していた”かのように。
「身に余る光栄。陛下の御恩を、剣と知略で返したまでにございます」
滑らかで、よどみのない声音。
聞く者に“安心”を与える、完成された響き。
長く磨かれた貴族の礼法。
片膝をつき、右手を胸に当てる。
頭を下げる角度すら、非の打ち所がない。
どこまでも“完璧”だった。
万雷の拍手。
しかし、勇者たちの表情は硬い。
アレンは真っ直ぐ前を見据えたまま、何も言わない。
ガイアは拳を握りしめている。
トレヴァーは伏し目がちに祈るように指を組む。
リリィは、わずかに眉をひそめた。
カミラは、ただ静かに観察していた。
その視線は鋭く、事実だけを拾い集める刃のようだった。
王の声が、再び空間を引き締める。
「勇者アレン・ヴァルデン率いる一行は、聖ノエル修道院およびクレイモア邸の制圧、そして公爵討伐に大きく貢献した」
従者が進み出る。
銀の盆の上で、《白銀星章》が光を受けて静かに輝く。
それは、ただの金属ではない。
王国が認めた“正義”の証だった。
「ここに王国勲章《白銀星章》を授け、王国功労録に名を刻む!」
アレンは静かに受け取る。
リリィは、少しだけ誇らしげに微笑む。
「……っ、やった……!」
思わず一歩、前に出そうになるのをぐっと堪える。
ガイアは短く頷く。
祝われることに、どこか納得しきれない顔で。
トレヴァーは胸元で十字を切り、神へと感謝を捧げる。
カミラは無言で頭を垂れる。
その視線は、勲章ではなく“状況”を見ていた。
エリアスは深く一礼する。
その動きは完璧な聖女そのもの。
だが、ほんの一瞬だけ、指先が震えた。
拍手が再び広がる。
祝福は、まるで波のように押し寄せては返していく。
王は再び立ち上がった。
「ここに宣言する!」
謁見の間が静まる。
「ヴァルグレイ侯爵を、新たなる公爵とする!」
一瞬の静寂の後、歓声が爆発する。
「その功に報い、旧クレイモア領一帯を新たに“ヴァルグレイ公爵領”として授ける!
王国の秩序を取り戻し、新たな光をもたらす者として!」
歓声が湧き起こる。
貴族たちは次々に頭を下げる。
臣下たちが口々に祝辞を述べる。
王国が“新たな英雄”を戴冠した瞬間だった。
ルシアンはゆっくりと立ち上がる。
その影が、赤絨毯の上に長く伸びた。
まるで、光そのものを踏みしめるように。
「……王国の安寧のため、全身全霊を尽くします」
セリーヌ王女は、拍手をしていなかった。
静かに、ルシアンを見つめている。
瞳に、消えない疑問が宿っていた。
ルシアンの視線が、一瞬だけ王女と交差する。
微笑する。
それは優雅で、どこまでも礼儀正しく。
そして、何も語らない笑みだった。
歓声は鳴りやまない。
祝福の鐘が、再び遠くで鳴る。
白い霧はまだ、王都の空に残っていた。
王都は勝利を祝った。
英雄は称えられ、聖女は赦され、新たな公爵が誕生した。
祝福の鐘の音は――
誰かの策略をかき消すには、あまりにも軽すぎた。




