5-β 閑古鳥のヒナ(1/3)
私はどうして私なのだろう。あなたでも、彼でも、彼女でもなく。
いつからか、私はそんなことを考えるようになっていた。本当のことは何もわからず、自分のことすら信じられないこの状況では、何もかもが――それは、私という存在ですら――確かなものとは思われなかったからだ。
もしも私というものが、本来あるはずの誰かを押し退けてここにいるのだとしたら、本当の私はいったいどこにあるのだろう。
今ここにある私は、ここにあるはずだとして寄り集められた幻にすぎない。そんな不確かなものでしかない私の存在は、確かに在ると言えるのだろうか。
――――
私にはわからなかった。拠りどころにできるような何かもない。すべては偽り。家族も過去も記憶も。私自身ですら。
私の中にいるはずの、本当の私であったはずのあなたは、そのことをどう思っているのだろうか。
私とあなたが入れ替わった、その始まりの地である石垣に立ち寄ったとき、危ないよ、というひとことが聞こえたきり、あなたの声は聞こえなくなった。ためしに心の中で呼びかけてもみたのだが、声が返ってきたことは一度もない。
怒っているのだろうか。しかし、それも仕方がないかもしれない。知らなかったとはいえ、私はあなたの何もかもを奪いここにいるのだから。
あなたの心情を推しはかりながら、私はそんなことを考える。
私はどうして私なのだろう。私はあなたでも、彼でも、彼女でもない。そのことが、とてつもなく恐ろしいことのように思われた。
私は確かにこうしてここにいるが、ここにいるのは本当ならばあなたの方だったはず。
それでも、何も知らない私にその異変をどうにかする術はなく、こんな不安定でよくわからない存在として、私は私でいるしかない。
だから私は――
通夜に葬儀にと周囲が慌ただしく動いている中にありながら、私はそこから遠い場所にいるかのように静かな時を過ごしていた。
父と姉はいろいろと取り仕切るのに忙しそうで、私とは話している暇もない。そんな中で私が唯一負った役目というのが姪のお守だ。
私は姪の望むがままにお絵かきやらおままごとやらにつき合っていたのだが、こちらが上の空だとわかるのか、小瑠璃はすぐに飽きてしまう。仕方なく私の本をいくつか持ち出すと、その中にあった星空の写真集がお気に召したようで、それを見て小瑠璃はひとり大人しくしていた。
何をするでもなくぼうっとしていると、すべてが夢のように思えてくる。
いや、違う。今起こっているできごとに現実感がないわけではない。そう思ってしまうのは、結局のところ、私自身が考えることを拒否してしまっているからだ。
これが現実だと思いたくはなかった。まさか、こんなにも唐突にすべてが失われてしまうなんて思ってもいなかったから。
もはや目覚めることのない母を家族で取り囲んだときも、その後に執り行われた通夜や、さっきまでの葬儀の場でだって、私は何も考えず、ただ言われたことだけをこなしていた。今もまだ、無情に過ぎていく時間を前にして、私は姪にかまうことすらしていない。
そんなことを考えていると、小瑠璃がふいにこう問いかけた。
「ねえ、りこちゃん。おばあちゃんどうしたの?」
私は言葉を失った。何と答えればいいか、わからなかったからだ。
今の私には、幼い子どもに死の概念を伝えられるほど心に余裕があるわけではない。ましてや、これは母の死で――その事実は私にとっても、どうして、と問いたくなるほどに受け止めがたいものだった。
私が何も言えないでいると、小瑠璃はけげんな顔をしながらも、特にこだわることなく目の前の本へと視線を戻してしまう。
姪の素っ気ない反応を、私は少しだけ残酷だと思ってしまった。こんなとき、小瑠璃とは悲しみを共有することもできないのか、と。
子供は無邪気だ。無知ゆえの無邪気。それはときに、思いがけない形で人を傷つける。
姉の呼ぶ声がしたので、私は小瑠璃の手を引いて部屋を出た。どこへ行くの? と首をかしげながらついて来る姪のもう片方の手には、ちゃっかりと私が渡した本が抱えられている。
指示されたとおりに、私たちは義兄の車へと乗り込んだ。車はこれから火葬場へ向かうらしい。義兄が気をつかって何度か声をかけてくれたけれども、私はろくに返事もできなかった。
車はやがて目的地へと到着したが、施設には思っていたよりも人の姿が多くにぎやかだ。こういう場所だから、もっと静かなものだと思い込んでいたから、私は何だか落ち着かない。
それでも時間は刻々と流れていき、やがて母との最後の別れのときはやって来た。
読経と焼香が終わると、同じく棺を取り囲んだ家族と共に、私はそこに収まった亡骸をあらためてのぞき込んだ。そこにあったのは穏やかな母の顔。
そうして、棺がいよいよ炉に入れられるときになってからようやく、私は母がいなくなったことを実感した。
――ごめんなさい。お母さん。私はあなたの本当の娘ではないのです。いつの間にか、この体の中に住みついた、自分でもなんだかよくわからないものなのです。
そんなことを、声には出さずに、ただ心の中でだけ考えていた。
人に聞かれたなら、きっと笑われてしまうに違いない。あるいは、頭がおかしくなったとでも思われるだろうか。
それでも私は悔いていた。私はあのとき、どうして母にそのことを伝えなかったのだろうか、と。だって、今となってはもう、どんな言葉も伝えることはできない。これからも、ずっと。
とはいえ、こんな馬鹿げたことを考えてしまうのも、今さらそんなことは不可能だとわかっているからだ。もしも、今の私があの日あのときに戻れたとしても、このことを告げられたとは思えない。
閉じられた棺を見送ってから、また長くも思える時を待った。そうして指定の時間になってから、再び炉の前に集まる。
そこにあったのは、白い骨と灰になった母の姿だ。係の人から拾骨の箸を渡されるけれども、私はおろおろとするばかりで、小さな骨をひとつ拾うのがやっとだった。
どうして、私はここにいるのだろうか。何も知らないふりをして。まるで、本当の家族であるかのように。
そう思った途端、自分の足元が音を立てて崩れていくような気がした。
無知は人を傷つける。
私は何も知らなかった。何も知らずに私が傷つけてきたもの。それは亡くなった母や家族なのではないだろうか。
今からでも、私が知ったことを明かすべきなのかもしれない。そんなことを考えもするのだが、それでも私は、父や姉にそのことを話す気にはなれないでいた。
話してしまえばきっと、私の居場所はなくなってしまうから。
今の私には、その重みに耐えることはできない。ただでさえ、母の死という現実が重くのしかかっているのに。
そんな自分本位のことばかり考えていることに気づいて、私は私というものに失望してもいた。結局はすべてを打ち明けるという考えも、単に自分が楽になりたいだけなのかもしれない。
すべてが終わった後、骨壺に収まった母を渡された私は、それを抱えて帰宅した。
その日の夜。いろいろな考えが頭の中を巡り、私はなかなか寝つけなかった。それだけならまだしも、どうにも気分がすぐれない。
こんなことが、いつまで続くのだろうか。
この秘密を抱えている限り、ずっと?
ふと、誰かに話さなければならないと思った。こんな気持ちを、私ひとりで抱え込むことはできない。今の私にはすべてを吐き出せる相手が必要だ。
――でも、誰に?
真夜中に鞄の中をかき回して折れ曲がった名刺を見つけ出すと、私は大きくため息をついた。




