黒の地と、不器用な黒騎士様
馬車にゴトゴト揺られること数日。国境の関所を抜けたあたりから、外の景色が引き返すなら今のうちと言わんばかりにどんよりし始めた。
見上げる空は、まるで洗面所の排水溝をひっくり返したような薄汚い灰色。地面はひび割れて真っ黒。窓をちょっと開けただけで、生魚のハラワタが腐ったような、鼻の奥にツンと刺さる嫌な臭いが流れ込んでくる。
「ここが、黒の地……。うわ、これは手強い。燃えてきたかも」
たどり着いた辺境伯の城は、歓迎どころか「呪われてます」と看板を出しているような佇まいだった。漆黒の石造りで、全体がどろりとした黒い霧に包まれている。ただの霧じゃない。全部、最悪なレベルの瘴気だ。
「君が、王国から来たというリーゼロッテ令嬢か」
重苦しい音を立てて開いた扉から、一人の男の人が現れた。
夜みたいな黒髪に、射抜くような琥珀色の目。威圧感の塊みたいな黒い鎧を着込んでいる。この人が、噂の『黒騎士』アルベルト・フォン・ガルザ辺境伯。
冷酷無比で人間嫌い、気に入らない奴はすぐ斬る血も涙もない男――なんて言われていたけれど。
(……いや、ちょっと待って。この人、今にも倒れるんじゃない?)
私の目に飛び込んできたのは、彼の凄まじい「疲れ」だった。
目の下には、墨でも塗ったのかと思うくらい濃い隈。呼吸も浅くて、なんだかすごくしんどそう。後ろの執事やメイドたちも、全員幽霊みたいに顔色が悪くてぐったりしている。
「我が領へようこそ、と言いたいところだが……」
アルベルト様は低く掠れた声で言った。
「見ての通り、ここは呪われた瘴気に満ちている。王国の令嬢が暮らせる環境じゃない。すぐに帝都へ引き返せるよう手配する。ここで死人を出すわけにはいかないからな」
口調は冷たいけれど、言っていることは信じられないくらい優しい。冷酷どころか、不器用で責任感が強いだけの人じゃない。一瞬で分かった。
「いいえ、辺境伯様。私はここに残ります」
「頑なになるな。この瘴気は、普通の人間なら数日で寝込むぞ」
「お言葉ですが、辺境伯様」
私は抱えていたバケツとモップを床にドン、と置いた。そして、プロの目で玄関ホールを睨みつける。
見れば見るほど、ゾクゾクしてきた。
「これ、呪いでも何でもありません。ただの『激しい汚れ』です」
「……は?」
アルベルト様が、素っ頓狂な声を出す。
「この城の石、魔力を吸いやすい黒曜石ですよね。そこに昔の戦いの魔力の燃えカスとか、換気不足の油汚れがこびりついて、頑固に『魔力焼け』しちゃってるだけです。要するに、ただの掃除不足!」
エプロンの紐をグッと締め直す。
この手の汚れを見ると、どうしても職人魂が黙っていない。
「辺境伯様、お願いです。この玄関ホール、私に『お掃除』させてください。綺麗にならなかったら、大人しく帰りますから」
私が本気で睨み返すと、アルベルト様は毒気を抜かれたように、ふっと肩の力を抜いた。
「……好きにしろ。だが、無理はするなよ」
「ありがとうございます! よし、やりますか!」
バケツに水を汲み、自作のマジック洗剤を数滴。フローラルレモンのいい香りが広がる。
水に私の魔力をじわっと溶かすと、バケツの中が淡い黄金色に光りだした。
まずは一番真っ黒な、あの大きな扉から。雑巾を浸して固く絞り、思い切り表面を拭い取る。
――シュアアァァッ!
肉が焼けるみたいな激しい音が響いて、石にこびりついていた黒いモヤが、白い湯気になって一瞬で蒸発した。
「なっ……!?」
後ろでアルベルト様が息を呑むのが分かった。
構うもんか。私はリズミカルに手を動かす。上から下へ、円を描くように優しく、でも力強く。
一拭きするごとに、ドブみたいだった黒い石肌が、磨き上げられた宝石みたいな美しい輝きを取り戻していく。嫌な臭いも消えて、爽やかなレモンの香りがホールを満たしていく。あー、気持ちいい!
「ふぅ……! よし、次は床!」
モップに持ち替えて、大理石の床を一気に滑らせる。
黄金の光が波みたいに床を走って、何十年分も溜まっていた瘴気が、パチパチと音を立てて消滅していった。
わずか十分。
さっきまでお化け屋敷のようだった空間が、曇り空を跳ね返すくらいピカピカの聖域に変わっていた。
「……信じられん……」
アルベルト様が、自分の手を何度も握ったり開いたりしている。
「体が……軽い。息が苦しくない。おい、長年俺を蝕んでいた『黒の呪い』が……消えている……?」
「ですから、呪いじゃなくて『瘴気中毒』です。換気が悪くて空気が淀んでいただけですよ。毎日ちゃんと掃除していれば何てことありません」
真っ黒に濁ったバケツの水を見せる。これが彼らを苦しめていたものの正体だ。
アルベルト様は信じられないものを見る目で私を凝視し、それから、ゆっくりと私を歩み寄ってきた。
その琥珀色の目が、さっきまでの警戒心なんて忘れたみたいに熱く燃えている。
彼は私の、泥と洗剤で汚れたゴム手袋を、割れ物を扱うようにそっと両手で包み込んだ。
「リーゼロッテ……君は一体、何者なんだ?」
「ただの、お掃除が大好きな無能令嬢ですが……」
「無能なわけがあるか! 帝国の最高位魔術師たちが総がかりでも解けなかった呪いを、雑巾一枚で消し去るなんて……君は、我が領の女神だ」
よく見たら、アルベルト様の耳が真っ赤になっている。
「お願いだ、リーゼロッテ。この城を……いや、この領地すべてを君の手で救ってくれないか。予算も、極上の掃除用具も、何でも用意する。だから、俺の側にいてほしい」
冷酷無比の黒騎士様からの、必死すぎるスカウト。
しかも予算無限で、掃除用具も買い放題。お掃除職人にとって、これ以上のホワイト企業がこの世にあるだろうか。
「はい! 喜んで、この地をピカピカに磨き上げてみせます!」
私が満面の笑みで答えると、アルベルト様は心底ほっとしたように、子供みたいに優しい笑顔を見せてくれた。




